仕立て屋通り
帝都の中心部に、庶民の生活は隔絶された一角がある。
石畳は塵ひとつなく、ガス灯は昼間のように通りを照らしている。行き交うのは黒光りする馬車と、最新の流行を纏った紳士淑女たち。
ここにあるのは、流行そのものだ。一針ごとに値段が跳ね上がり、客の立ち居振る舞いまで値踏みされる。通りに並ぶ店の扉は控えめで、看板も必要以上に主張しない。窓からのぞく光沢のある生地が、この一帯の格を物語っている。
流行は追うものでなく、誂えるもの。それがここ仕立て屋通りだ。
「……」
ハリエットは、隣を歩く男の横顔を盗み見た。
レックス・アシュフォード。私服姿でも、その背筋の伸び方は軍人そのものだ。
(まさか、こんな展開になるなんてね)
婚約者以外の商売女に高級なドレスを買おうとしている婚約者。字面だけ見ると最悪だ。だがその商売女が自分だ。なんとなく複雑な気分になりながらレックスの隣を歩く。
「初めてか」
レックスの声に、ハリエットは我に返った。
「え?」
「この通りは、初めてか」
「……ええ、まあ」
嘘ではない。没落前は、母に連れられて何度か来たことがある。だが、「ローズ」は庶民だ。こんな場所に縁があるはずがない。
「空気が違いますわね。なんだか高級な匂いがいたします」
「ああ。掃除人が一日三回、石畳を磨いている」
「まあ、贅沢」
言いながら、ハリエットは周囲を観察した。
皇族もお忍びで来るという仕立て屋通り。すれ違う人々は皆、仕立ての良い服を纏い、香水の香りを漂わせている。柑橘系のトップノートが使われた香水と皮の匂い。
ハリエットが暮らす下町とは、別世界だ。
レックスが不意に距離を詰めてきた。肩が触れそうなほど近い。
(……なに? 歩きにくいんだけど)
怪訝に思いながら横目で窺うと、レックスは前方を見据えたまま微動だにしない。
すれ違う男たちの視線が、ハリエットの上を滑っていく。品定めするような、あるいは値踏みするような目。
(ああ、そういうこと)
この通りでは連れの女は男の「持ち物」として見られる。レックスは無意識に、あるいは意識的に、それを遮っているのだ。
(……過保護な)
ハリエットは小さく息をついた。
ありがた迷惑だ。一人で歩けるし、視線くらいで怯えたりしない。
でも、悪い気はしない。それが少しだけ癪だった。
「ここだ」
レックスが足を止めたのは、控えめな看板を掲げた店の前だった。
「白鳥の針?」
帝都でも五本の指に入る高級仕立て屋だ。ハリエットは目を見開いた。
(ここ!? 正気?)
没落する前でさえ、ガルシア家がここで服を誂えたことはない。格が違いすぎる。
ドアマンが恭しく扉を開けた。
「いらっしゃいませ、アシュフォード様。お待ちしておりました」
まさかの顔パスだ。予約もなしにこの店に入れるあたり、侯爵家の威光は伊達ではない。
店内に足を踏み入れた瞬間、ハリエットは息を呑んだ。
壁一面に並ぶ生地のロール。絹、ベルベット、レース。どれも見たことのない光沢を放っている。ショーウィンドウに飾られたドレスは、一着で庶民が数年贅沢に暮らせるような値段がついているに違いない。
(場違いにもほどがあるわ)
「ローズ」の仮面の下でハリエットは冷や汗をかいた。
ラウンジ嬢として、それなりの場には慣れているつもりだった。だが、ここは別格だ。店員の視線が、ハリエットの靴先から髪の毛一本まで値踏みしているのが分かる。
「彼女にドレスを」
レックスが告げた。初老の店主がハリエットを一瞥し、すぐに営業用の笑みを浮かべた。
「承知いたしました。どのようなデザインをご所望で?」
「俺が選ぶ」
ハリエットは嫌な予感がした。その予感は、ものの数分で的中する。
「……レックスさま」
ハリエットは引きつる頬を扇で隠しながら、彼が差し出したドレスを見つめた。
「それは……喪服でしょうか?」
「いや、違うが」
レックスが真顔で掲げているのは、真っ黒の首から足首まで完全に覆う、修道女も裸足で逃げ出すような禁欲的なドレスだった。
「布が厚手で丈夫だ。これならナイフで切りつけられても、多少は防げる。それに暖かい」
「戦場に行くわけではございませんわ」
ハリエットは即座に却下した。
(戦場じゃなく、船上だけどね。私がこれから何をするか、あなたは知らないでしょうけど)
船から倉庫へ飛び移り、小火を起こして逃走する。そのためのドレスだ。
この重くて厚手すぎる生地では、手すりを乗り越えることすらできない。裾を引っ掛けて転落し、海の藻屑になる未来が見える。
「違うのをお願いいたします」
「では、これだ」
次に出てきたのは灰色の、やはり露出が一切ないドレスだった。装飾も控えめを通り越して皆無に近い。
「地味すぎません? あら、こんなところに壁なんてあったかしら? とか言われること間違いなしですわ」
「目立たない方が安全だ」
「安全の問題ではございません。買っていただく身でこのようなことを言うのは申し訳ございませんが……」
ハリエットは額に手を当てた。
(この男、センスがなかったのか。意外だったわ)
パーティーに潜入するには、ある程度の華やかさが必要だ。地味すぎれば怪しまれるし、派手すぎても目立つ。絶妙なバランスが求められる。
それ以前に、ハリエットには譲れない条件があった。
動きやすさだ。いざという時に走れるか。蹴れるか。そして、太もものガーターベルトに仕込んだナイフをスムーズに取り出せるか。
レックスが選ぶドレスでは、ナイフに手が届く前にやられてしまう。
「レックスさま」
埒が明かない。一歩、二歩とレックスに歩み寄る。彼の腕にそっと手を添えた。
「お気遣いは、本当に嬉しゅうございますの」
ハリエットとしては絶対に出さないであろう、甘く、濡れたような声色。
「私の身を案じてくださっているのですね?」
「あ、ああ。まあ」
視線が泳いでいる。普段の鉄面皮が嘘のようだ。
「でも、私……」
ハリエットは上目遣いで、灰色の瞳を覗き込んだ。
「せっかくレックスさまに選んでいただくのですもの。少しは、貴方様に『綺麗だ』と思っていただきた……そのように願うのは、いけないことでしょうか?」
言った瞬間、ハリエットは自分の声に小さく驚いた。
これはセリフだ。「ローズ」のセリフ。そう決めて口にしたはずだ。
なのに、妙な感覚が残る。
レックスは顔を背けた。耳の先まで赤い。
店員たちが生温かい視線を送っている。
「……わかった」
長い沈黙の後、レックスは絞り出すような声で言った。
「店主。……『アレ』を持ってきてくれ」
「おや。よろしいので?」
店主は少し意外そうな顔をする。
「構わん。彼女のためだ」
「かしこまりました」
店主が奥から選んできたのは、深い森のような緑色のドレスだった。




