秘密のラウンジと、予期せぬ来訪者
濡れた石畳がガス灯を反射している。
ハリエット・ガルシアは、すり減った靴底で水たまりを避けながら裏通りを急いだ。
工場の煤煙が喉にへばりつく。湿った鉄と油の混じった臭いに、ハリエットは思わず顔をしかめた。はあっと吐く息が白い。冬はもうすぐそこだ。
(まあ、寒いのは毎年のことよね。今年も乗り切ってやるわ。今夜の目標は、石炭三袋は越したいところよね。このままじゃ、月末には凍え死んじゃう)
路地を抜け、黒塗りの扉の前――真鍮の取っ手に蝶の意匠が施された高級ラウンジ『黒蝶の館』の正面入り口を、ハリエットは素通りした。
目指すのはその裏手。狭くて暗い通用口だ。
そこには、闇に溶け込むような黒いコートを着た大男が二人、仁王立ちで立ち塞がっていた。
腰元が膨らんでいるのは、拳銃か、あるいは別の凶器か。そこいらの男なら、目が合っただけで逃げ出す威圧感だ。
だが、ハリエットは歩調を緩めない。
男の一人が、石炭で汚れた女を見下ろし、無言で顎をしゃくった。
「……どうも」
男が重い鉄の扉を開ける。その動作は慣れたものだ。目の前の薄汚れた女が、ひとたび着飾れば男たちの財布を食い荒らす、極上の夜の蝶に化けることを、彼らは嫌というほど見ているからだ。
湿気た廊下を抜け、ハリエットはいつものようにコートを脱ぎ捨てた。
薄暗い更衣室。鏡の前には、煤けた顔の貧乏人が映っている。彼女は濡れた手拭いで首筋や顔の汚れを拭うと、煤にまみれた髪をほどいた。パラリ、と背中に落ちたのは、ビーツのような赤毛だ。昼間はひっつめて隠しているが、手入れをして香油を馴染ませれば、それは炎のように艶めきだす。
眼鏡を外し、化粧を念入りにする。白粉で生活感を隠し、真っ赤な紅を唇にひく。仕上げに、瞼に影を落とす。鏡の中から、緑の瞳がギラリとこちらを睨みつけていた。その色は深緑の宝石よりも、路地裏でたくましく芽吹く「雑草」の色に似て、ふてぶてしいほどの生命力を宿している。右目の下の涙ぼくろが挑発するように浮かび上がった。
彼女は深いワインレッドのドレスに袖を通した。いつもの安物の木綿ではない。重厚なベルベット生地だ。背中が大胆に開いたデザインだが、首元には黒いレースのチョーカーを巻き、扇情的に見せつつも凛とした気品を漂わせている。
(この服だけで何か月分の借金が返せるのかしら)
などと考えつつも最後に履き潰した革靴を脱ぎ捨て、凶器のように鋭いピンヒールへと履き替える。動くたびに裾のスリットから白い足が覗く。その太ももには護身用の小型ナイフを仕込んだガーターベルトを着けている――なんてことは、客の男たちは夢にも思わないだろう。
鏡の中の女が、不敵に微笑んだ。
――ここからの私は「ローズ」。没落令嬢でも、バイト掛け持ちの貧乏人でもない。ハリエットはホールへと続く扉を押し開けた。
店内は葉巻の煙と低い笑い声に満ちていた。
頭上のシャンデリアの灯りが、カウンターにある酒瓶のガラスに反射して揺れる。店内を流れるのは、雨音に似た静かなピアノバラード。もっとも――高い酒に酔いしれている客の中に、この曲に耳を傾けている人間など一人もいないが。
「ローズ、お客様よ」
先輩ラウンジ嬢のミラが顎で示した方向を見て、ハリエットは目を細めた。
奥の上席。黒い軍服の一団が陣取っている。クロークでサーベルや銃は預けてきているはずだが、それでも彼らが纏う空気はどうにも血なまぐさい。襟の高い漆黒のロングコート。彼らはそれを分厚い皮ベルトで締めあげている。肩や袖口に施された金や銀の刺繍が、シャンデリアの光を浴びてギラギラと主張していた。金持ちの匂いがぷんぷんする。
(うわぁ……。あの金糸の刺繍ひとつで、石炭どのくらい買えるんだろう)
胸元の徽章が示すのは、帝国近衛騎士団。
(面倒なのが来たけど、うーん……私のお金になりそうな意中の方はいらっしゃるかしら)
近衛騎士は金払いは良いのだが、厄介だ。貴族主体なせいか権力を笠に着る連中が多い。
チェンジを求めてミラの方をちらっと見たが、「とっとと行け」と言わんばかりの顎の動きだけ。ハリエットはやれやれと肩をすくめ、完璧な営業スマイルを張り付けて足を踏み出した。
近づくにつれ、一団の中心にいる男の顔が見えた。
くすんだ金髪。歳は四十ぐらい。鷹のような目。品のない笑み。
――ジェラルド・ソーン。近衛騎士団長だ。
ハリエットの足が一瞬だけ止まった。
(わお! もしかしてあれは! 脂の乗った歩くボーナス袋さま! チェンジしなくて良かったぁ)
歩くボーナス袋もといハリエットのターゲットである。ルシアン皇太子から命じられた任務の本命。この男が持つ「裏帳簿」を手に入れることが、ローズに課せられた仕事だった。
(ついに来たわね、カモがネギ背負って)
口角が自然と上がる。だが、ソーンの隣に座る男が目に入った。
黒髪。軍服。背筋を伸ばし、周囲の喧騒から一人だけ浮いている。
(団長の部下かしら? 随分と若いわ……ね)
男がこちらを見た。目が合う。色素の薄い、灰色の瞳。
ハリエットの思考が止まった。
(っ! んなバカな、そんなことある? 運が悪いにもほどがあるって。あーあ、さっきのボーナス袋で使い果たしちゃったんだわ)
レックス・アシュフォード。侯爵家嫡男にして近衛騎士。エリート中のエリートだ。
そして――あろうことか、私の婚約者だったりする。
(もう! なんであんたがここにいるのよ!?)
叫びだしたい衝動を、ハリエットは奥歯を噛んで押し殺した。
バレてはいけない。絶対に。もし婚約者が「夜の店で働いている」と知られたら、アシュフォード侯爵家への侮辱として一家全員潰されてしまう。
それは困る。非常に困る。
(落ち着け、私。向こうは気づいてない)
昼間の地味なハリエットと、夜のローズは別人だ。眼鏡もしていない。髪型も化粧も纏う空気も違う。
何より、レックスは婚約者の自分になど興味がない。会話は五分以上続くことなどほぼない。おまけに噂じゃ極度の女嫌いとか。そんな彼が今日会ったばかりのラウンジ嬢の顔をまじまじと見るわけがない。
(大丈夫。バレない。バレるはずがない)
ハリエットはお腹に力を入れ、「ローズ」の顔を作り直した。




