白柱
南の辺境に、かつて「離州」と呼ばれた水郷の地があった。
湖と運河が張り巡らされたその地では、人々は舟で移動し、水とともに暮らしていた。
水は穢れを流し、命を潤し、そして、沈めるものだった。
離州には一つの風習があった。
雨季の終わり、必ず一人の少女が「白衣の儀」に選ばれ、湖に捧げられる。
“水の神”に穢れを渡すことで、来年の安寧を願う──という。
朝廷から派遣された記録官・衛 霖は、その風習の実態を調べるため、離州の役所に滞在していた。
彼は記録主義者で、幽鬼や神怪を一笑に付す合理の士だった。
その衛が、ある日、街の片隅にある庶民宅で一件の騒動を知る。
「……死んだはずの娘が、帰ってきたんです……」
語るのは初老の夫婦。
白衣の儀で湖に捧げられた娘が、雨の夜に家の前に立っていたという。
びしょ濡れで、口もきかず、目だけが異様に黒かったと。
「まさか、似た子では……?」
「いいえ、娘の手首には、私が編んだ赤い紐が……。なのに、朝にはいなくなって……床が、びしょびしょに濡れて……」
赤い紐を手首に結んだ婦人から、涙ながらに語られては、いかに合理的な霖も笑い飛ばすことはできなかった。
翌日、霖は湖の神殿へと向かった。
そこで目にしたのは、鏡のように静かな水面と、白布の巻かれた石柱群。
神官は、柔らかい笑みを浮かべて迎えた。
「記録官どの、ようこそ。……“今年の白衣”を、お見せしますか?」
通された部屋には、一人の少女がいた。
十五か、十六ほど。手足は縄で縛られ、口に布が詰められていた。
目だけが、潤んで、虚空を見つめている。
「これは……人身供犠ではないのか」
「供物ですよ。神への贈り物は、清らかでなければ」
「朝廷の法では殺生を禁じている。このような野蛮は、もはや──」
「ならばどうして、“毎年”来るのです? 記録官が。記録するだけで、何も変えないまま──」
確かに奇妙な事である。が、衛は儀式の中止を神官に求めた。が、神官は朝廷より認められていると譲らぬ押し問答である。
場を改めることにした衛だった。
が、これが良くなかった。
宿に戻り、儀式の中止を求める報告書を、朝廷へ早馬で飛ばした。が、その晩、ドンドットッと太鼓の音がして、飛び起きた。
音のする方を見れば、湖である。
神官が儀式を強行したとすぐに気がついた。
霖は宿を飛び出し、舟で湖の中心へ向かった。
湖からならば人柱となったあの少女を救える。
月が水面を照らし、白い柱が浮かび上がる。
だが、そこにいたはずの少女の姿がなかった。
代わりに、湖面に浮かんでいたのは──
白い衣だけだった。
そして、誰かの指が、水面から覗いていた。
指は濡れて、爪が割れ、白衣の布をぎゅうと握っていた。
やがてそれは、肩、頭、そして顔へとつながる。
水から浮かび上がったそれは、まぎれもなく、少女だった。
だが彼女の目は真っ黒に濁り、口が裂けていた。
「……みず……」
彼女が口を開いた。水がどっと溢れ出す。
「……みずのなか……くらい……さむい……にがい……」
霖は震えながら、舟を漕いで逃げた。
背後で、何かがどぼりと水面を這う音がした。
翌朝、湖に行くと、白布の柱が一本、あたらしく増やされていた。
霖は都に戻り、儀式の即時中止を勧告した。
だが、役所には返答がなかった。
代わりに、離州から次の年も“記録官”が派遣された。
彼の名前は変わっても、目的は同じだった。
湖は今日も静かだ。
白布の柱が並ぶその水面に、時おり波紋が浮かぶ。
それはまるで──
水底から、誰かが叩いているようだった。