飲み残し。
こう暑いと水分補給はマメにしないと熱中症になってしまいます。
子供とお出かけするときなんか水筒は必需品。足りなかったら自販機なりコンビニなりで買い足したりなんかして。
自販機やコンビニがあるところならいいけれど、山の中なんてなかなかそんなものもないからなるべく大きな水筒を持って行かなきゃいけないもんです。荷物になりますけどね。しょうがない。
昔は、山の中どころか町の中にも便利な自販機も少なくて、みんな大きな水筒持ってハイキングだの遠足だの海水浴だの行ったもんです。
まあ、昔は今ほどこんなに暑くはなかったですけれど。
私が小学生のときは決まって5月と11月に遠足がありまして。11月はバスハイクで、学年ごとに違う場所へバスに乗ってちょっと遠くまで。5月は歓迎遠足って言って、近くの山に登りに行きました。
近くと言っても、まあまあ歩きますよ。子供の足ですから。
しかもちゃんと山。登ってしまえば開けちゃいるけど、道なりはちゃんと山。1年生2年生にはなかなかハードな山道でした。
5月といっても最近の5月とは違って、その頃の5月なんてまだまだ過ごしやすかったもんで、初夏というより春の延長みたいな、まあわりといい季節でした。
それでもハードな山道を登れば当然喉が渇く。
自販機もない山道だから、まあ、あったところで小学生がそんなところでお茶買うわけにもいきませんしね、大きな水筒をみんなぶら下げて行ってるわけです。
行きは登りな上に水筒は重い。子供たちはヒイヒイ言いながら頑張って登る。
子供たちはそのうち気づくわけです。
あ、これ、飲んじゃえば軽くなるんじゃね?
もちろん先生は注意するわけです。
「全部飲んじゃダメですよ~。頂上に着いて、ご飯のときに飲む分は残しときなさいよ~。帰りも喉は渇きますよ~」
まあ、でも所詮子供。見境なく飲んじゃって、頂上でやれお水が無いだ喉が渇いただ。下山中に喉が渇いただなんだかんだ。
いうてもそういう失敗を繰り返して子供というのは成長していくものです。
次の年からは少し少なめにお茶を持って来るだの、上りでいっぱい飲まないだの、下山分までちゃんと残しておくだの。ちゃーんと考えて行動するようになる。
なかにはね、先生の言う通り、「おうちに着くまでが遠足です!」って。
ちゃーんとおうちまで水筒のお茶を残して帰る子もいた。
また聞きで申し訳ないんですが。つい最近友達が、偶然知り合った女性から聞いた話です。
彼女は遠足のたびに、こう言って親御さんに水筒を渡されていたそうです。
「残ったお茶は捨ててきなさい。おうちまで持って帰って来ちゃいけないよ」
1年生の彼女はちゃーんとお茶は残さず、水筒を空っぽにして持って帰った。
ご多分に漏れず、例の登りで全部飲んじゃったタイプですね。
2年生の彼女は1年生のときの失敗を繰り返さないために、下山の分はちゃーんと残していた。
でも山を下りたらすぐ残りも飲んじゃったもんで、学校までの帰り道がたいそう喉が渇いたそうです。
そこで3年生。きちんとペース配分を考えて、学校までの分も残した。その頃には低学年の頃に使っていた水筒よりも大きい水筒に変わっていたそうで、結構な量余裕があったそうです。でも家まで持って帰れないので、残りは学校で捨てて行った。
4年生のときにもお茶が少し残ったので学校の水道のところで捨てようとしたら、友達に「なんで捨てるの?」って聞かれたそうです。
素直に「うちまで残りのお茶を持って帰って来ちゃダメって言われてる」って言ったら、「変なの。おうちで捨てればいいのに」って言われたそうで。
そこで初めて彼女は、うち以外の家ではそんなこと言われてないんだということに気づいたそうです。
5年生のときには、お茶を捨てているところを誰かに見られるのが恥ずかしくて、とりあえず家の近くまで帰って来てから、側溝の中に流したそうです。
6年生ともなれば彼女も少々大人びて、遠足なんて……と斜に構えてみたりするお年頃。
それでも一応水筒の中身は気にしてみたりして。持って帰って学校で捨てるのも、家の近くの側溝に捨てるのもなんだか恥ずかしくて、あらかた下山中に飲んでおいた。
家に帰って流しに置く前に水筒を振ってみたら、ちゃぷちゃぷとかすかな音はするけれど、一緒に振れるショルダーの紐の方ががちゃがちゃうるさい。
こんなのほとんど入ってないのと同じだよね~と思いながら、彼女は残りのお茶を捨てようとした。
飲み口を開け下に向けると、ちょろちょろとお茶がこぼれる。
ちょろちょろちょろ……。
ああ。なんかわりと出てきたな~なんて思いながら彼女は流す。
ひと口ぶんあるかないか、かな?
こんなの「残ってた」とは言わないでしょう。
彼女は軽く水筒をすすいでおいた。
その友達が彼女と知り合ったのはとある病院だったそうなんですが、会計が終わった後、「ちょっとお話しませんか?」と呼び止められたのがきっかけでした。
珍しい人だなと思ったそうですが、まあ彼女も話し相手が欲しかったのかなと思って、軽くお茶することにしたそうです。
彼女は幼馴染と結婚したんだそうです。
と言っても顔見知り程度で付き合うこともなく、お互い大学行って就職して家も出ていたそうなんですが、縁あって再会して結婚。1年も経たないうちに赤ちゃんも授かったそうです。
それなりにつわりもあって辛かったそうなんですが、ベビー用品を揃えたりとか名前を考えたりとか、次の子は何歳違いで作ろうかとか、生まれてくる前からとても幸せだったそうで。
でもそんな幸せも長くは続かず、6か月で死産になった。
当たり前ですがとてもショックだったそうです。
仕事にも行けず、外出もできず、しばらく家に閉じこもっていた。
それでもなんとか立ち直って普段の生活を取り戻し、仕事にも行けるようになったそうで、1年もすればありがたいことに、また赤ちゃんを授かった。
前回のことがあったので無理をしないようにと、仕事の量もセーブして、万全の態勢で赤ちゃんを迎えるつもりが、今回も6か月で赤ちゃんは亡くなりました。
彼女も、旦那さんも、言いようがないほど悲しんだ。
2回続けて赤ちゃんを亡くしたことで責任を感じた彼女は、病院で検査を受けたそうなんですが、なんの異常も見つからなかった。
じゃあ、余計になんでだろうと彼女は自分を責める。なんで赤ちゃんは自分のお腹のなかで育たないのかと。
半狂乱になっている彼女を支えるために、娘夫婦の家に来ていた母親はふと言ったそうです。
「あんた、ちゃんとお茶、捨ててきた?」
なんのことを言われているのかわからなかった彼女は、母親を訝し気に見ました。
「小学校の遠足で、あの山登ってたでしょう。残ったお茶は絶対捨てて来るようにって言ってたの、覚えてる?ちゃんと捨てて来た?」
あまりにも昔の些細なことで、彼女は一生懸命記憶をたどりましたが、なんでこんな時に、こんな、赤ちゃんを失って悲しんでいるときに遠足の話なんかされるのだと腹が立ったと言います。
「ちゃんと捨てて帰ってたわよ!なんで今そんな話するのよ!」
「本当に?全部捨ててきた?」
なおも疑う母親に、彼女は怒鳴りました。
「本当よ!全部捨ててたわよ!喉が渇いても家まで我慢したし、学校で捨ててるの見られて恥ずかしかったけど、家の前で捨てたりしてたわよ!なんなのよ、もう!」
「家の前って、側溝?家の中では捨てなかったのね?」
「そうよ!あの側溝!家の中で出した時はちょこっとしか出なかったわよ!それこそひと口ぶんもなかったわよ!」
途端に母親の顔色が変わりました。
「家の中に持ち込んだの?」
「持ち込んだって……」
母親の急変に、彼女も驚いて冷静になったそうです。
「ちょっとこぼれたぐらいで……」
母親はしばらく彼女の顔を見つめたあと、「出かけるよ」と言いました。
彼女の実家は彼女の家から車で1時間ぐらいのところにあります。
母親はお米と水とお酒を用意すると、彼女を連れてその山へ行きました。
小学生の遠足以来ですから15年ぶりだったそうです。
母親に至っては「何十年ぶりかわからない!」とヒイヒイ言いながら登っていたそうです。
母親はヒイヒイ言ってたそうですが、彼女からすると、小学生の時に感じたようなキツさはなかったそうです。
傾斜もわりとゆるやかで、道も整備されてて、なるほど小学生の遠足に使われるだけあると思った。
もっとも彼女が登らなくなった15年の間に整備とかされたのかもしれませんが。
山頂は記憶よりも広く、きれいになっていました。案の定、あれから整備されていたようだったと言います。
母親はリュックの中から米と水と酒を出すと、山頂にあった大きな石の下に撒きました。そして黙って手を合わせました。
彼女も真似して黙って手を合わせる。
彼女と母親はペットボトルから水を飲んで一息つくと、すぐに下山を始めました。
下り切ると母親は、残っていたペットボトルの水を全部山肌の雑草の上に撒いたそうです。
「あんたも捨てなさい」
彼女も急いでペットボトルを取り出すと、全部その場にこぼしました。
「他にない?ジュースもコーヒーも、お茶も捨てなさいよ」
何も持ってないことを確認して、彼女と母親は帰路に就いたそうです。
「……なんなの?」
思い切って彼女が訊くと、母親は
「わからない」
と答えたそうです。
幽霊とか妖怪とか精霊とか守り神とか、全然なんだかよくわからいけれど、母親もその親も、そのまた親も「あの山に入ったら、水は捨てて来い」と言われて育ったのだそうです。
「でないと、連れて行かれる」
それから1年後に、彼女は赤ちゃんを授かったのだそうです。
でも、また、6か月で赤ちゃんを失うことに。
絶望の中、ふと彼女は思い立ち、ご主人に訊いたそうです。
「お茶、捨てて来た?」
いくら説明してもご主人は信じてくれなかったそうです。
ご主人のおうちは昔からその土地に住む人ではなかったそうで、ご存知なかったのかもしれません。
それにしても、そんな荒唐無稽な都市伝説みたいな話、信じられるわけがないと、ご主人はあの山に再び登ってくれることもなく、あまりにしつこい彼女ともだんだん仲が悪くなり、そして悲しいかな離婚ということになったのだそうです。
驚きが顔に出てしまっていたのでしょう、友達の顔を見て彼女は少し笑いました。
「再婚したんです」
「ああ。それで。おめでとうございます」
「ありがとうございます。もう8か月なんです」
「わあ。よかったですね」
「そちらは……、6か月ぐらい……?」
「はい。……実は私も子供を亡くしてて……」
わざわざ話すことではないと思っていたそうですが、彼女の話を聞いて、友達も思い切って胸のわだかまりを彼女に聞いて欲しいと思ったそうです。
「まあ、それは……」
「3歳だったんですけど、去年……。再婚したばっかりだったんで、心無い人たちにいろいろ言われたりしたんですけど、相手の方が親身に支えてくださって……。おかげで、新しい命を授かることができました」
「大事に、なさってくださいね」
彼女はにっこり笑って友達の手を握ってくれたそうだ。
「今が最後の、大事な時期ですから」
友達はうれしくて、「ありがとう」と答えました。
「それにしても」
と彼女は手を離しながら、意外だというようにつぶやいたそうです。
「生まれてる子も連れて行くんだ」
おしまい