第九章:動揺
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旧校舎の薄暗い廊下。
夕暮れの光が消えかけ、静寂が濃く沈んでいく。
ふと、足元の影がわずかに揺れた。
アズライルの視線の先で、少女がゆっくりと意識を取り戻していく。
「……ここは……?」
かすれた声が漏れた。
濁った瞳が、ぼんやりと天井を仰ぐ。
現実に戻ってきたはずのその瞳は、まだ悪夢の残滓を抱えたまま揺れていた。
アズライルは少女の傍らにそっとしゃがみ込んだ。
今はもう、玲の姿ではなく、彼本来の漆黒の姿で。
「終わったぞ。全部、お前の代わりに終わらせてきた」
その言葉に、いつもの皮肉や飄々とした響きは含まれていなかった。
ただ静かに事実だけを告げる声音だった。
少女の瞳が微かに揺れる。
「……三人とも、もう?」
「ああ。誰も、お前を嗤うことはできない。もう、誰もお前に触れられない」
少女はゆっくりと瞬きを繰り返しながら、自分の胸にそっと手を当てた。
脈打つ心臓の鼓動が、確かに“生きている”ことを教えていた。
失っていたはずの身体感覚が、徐々に戻りつつあるのを実感していく。
「……ありがとう」
短く呟いたその言葉に、アズライルはほんのわずかだけ目を細めた。
礼を言われる理由は、彼にとって曖昧だった。
けれど、少女が自ら選んで紡いだ言葉に対して、否定する気にもなれなかった。
彼はすぐに視線を逸らし、静かに立ち上がる。
「じゃあ——行こうか」
「……うん」
少女の声は静かだったが、以前とは違って迷いの色は薄れていた。
その背筋に、わずかながらも覚悟が宿り始めているのを、アズライルは感じ取っていた。
アズライルが指を鳴らすと、空間が軋むような音と共に裂け目が開いた。
その先には、底知れぬ闇だけが広がっている。
少女は言葉を交わさずとも、それが“死”の入り口だと本能的に理解していた。
静かに、一歩を踏み出す。
けれど、その足はふと途中で止まる。
「ねえ、契約って……これで終わりなんだよね?」
その問いは単なる確認ではなかった。
少女の声には、どこか確かめるような迷いが滲んでいた。
アズライルは彼女の顔を見つめ返す。
その瞳の奥に、これまでにはなかった微かな光を見つける。
——“生きたい”という衝動。
ほんのわずかに灯ったその光が、アズライルの内側で妙な違和感となって膨らんでいく。
「……ああ。希望は果たした。お前が望んだ通りの“終わり”を、俺は用意した」
少女は目を伏せ、唇を噛みしめた。
その仕草すら、以前の彼女とは明らかに変わっていた。
アズライルは静かにその様子を見つめ続ける。
胸の奥に芽生えた、説明のつかないざわめき。
これが“迷い”なのか、“躊躇い”なのか、彼自身すらまだ理解できずにいた。
「さあ、進め」
いつもの冷静さを装い、促す声を発する。
「そうしなきゃ、全部が終わらなくなる」
少女は小さく頷き、再び一歩を踏み出そうとする。
だが、アズライルの視線はその背に釘付けになっていた。
——もし、ここで“終わり”以外を選んだら。
この契約の結末が、思わぬ形で歪み始める予感が、アズライルの胸をかすかに締め付けていた。