第八章:懲罰
八代颯真は、目を覚ました瞬間、全身に嫌な汗をかいていた。
視界に広がるのは、灰色の壁。鉄の匂い。冷たい床。
蛍光灯が一つだけ、チカ……チカ……と不安定に瞬いている。
「……は?」
立ち上がろうとするが、足首に何かが絡みついている。
鉄の鎖だった。
無骨な鎖が、床から這い出し、彼の右足に巻きついていた。
「は? 意味わかんねぇ……これ、どっきり? 誰だよ、ふざけんな!!」
叫んでも返事はない。
鉄格子の扉はぴくりとも動かず、スマホも財布も制服のポケットも空っぽ。
完全に、閉じ込められていた。
と、その時。
天井のスピーカーから、ノイズ混じりの声が流れる。
『目覚めたか、八代颯真』
「……誰だ、テメェ」
『ここは、お前が築いた“記憶の牢獄”だ』
八代が吠えるように叫ぶが、スピーカーは冷淡に続ける。
『ひとつずつ、お前が“壊してきたもの”を思い出してもらおうか』
その瞬間、壁に設置されたモニターが起動した。
スクリーンに映し出されたのは、椅子に縛られた玲の姿。
目は腫れ、唇が切れ、制服はぐちゃぐちゃに汚れている。
「……うわ、マジかよ。なに、これ再現ドラマ?」
八代は笑いながら呟く。だが、すぐにその笑いは凍りついた。
映像は、彼が玲の頭に水筒の中身をぶちまけた瞬間をリピートしていた。
次に流れたのは、椅子の脚を緩めて転倒させた動画。
さらに、机の中に腐ったタオルを詰め込む八代の姿。
映像のすべてに、八代の顔と笑い声が克明に映っていた。
「……ふざけ、んなっ!!」
その時、鎖が突然引き締まり、足に激痛が走る。
「ぐあっ……!!」
倒れ込んだ彼の身体に、今度は“腕から”鎖が巻きついていく。
赤黒い文字が、彼の肌の上に這うように浮かび始める。
《加害者》
《傍観者》
《嘲笑者》
「違ぇよ! 俺は、ただ……遊んでただけだろッ!!」
叫ぶたびに、鎖が締まる。
言葉を吐けば吐くほど、“罪の鎖”はその身体を刻み込む。
「遊び?」
突然、部屋の中心に“玲の姿をしたアズライル”が現れた。
「お前にとって、誰かを踏みにじるのは“遊び”だったのか」
八代は見た。
アズライルの瞳の奥に、底なしの闇が燃えていることを。
「ちっ、てめえがこれ仕組んだのか……!? ふざけんな!!」
アズライルは微笑んだ。
その笑みは優しさではなく、“裁き”そのものだった。
「お前の望んだ通りだろ。お前は“自分がされても仕方ない”って言ったじゃないか」
「誰が……ッ!?」
部屋の壁が崩れ、八代の視界が変わった。
次の瞬間、彼は教室の真ん中にいた。裸足で、髪はボサボサ、制服は破れていた。
椅子はない。机はない。
そして、周囲の生徒たちが、スマホを構えて彼にレンズを向けていた。
「きもちわるー」
「なんで生きてんの?」
「学校来ないでくれる?」
八代が今まで玲に浴びせてきた言葉が、“完璧なコピー”として自分に突き刺さっていた。
逃げようとしても足がもつれ、顔から床に倒れる。
その瞬間、床がぬめりを帯び、腐臭が立ち上った。
「なんだよ、これ……!? クソ、クソがッ!!」
嘲笑とフラッシュの嵐。
全身にぶつけられる視線が、ナイフのように肌を裂いていく。
誰かが、八代の口に突っ込んだ腐った弁当を見せつける。
視界の端で、玲の椅子を倒す瞬間の動画が再生されていた。
「なあ、これ、見てよ」
「この顔、超ウケる」
笑い声が壁に反響する。自分の笑い声だ。
八代は耳を塞ごうとするが、その手すら縛られていた。
教室の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
——別の空間に、引きずり込まれた。
今度はトイレ。
個室に閉じ込められ、ドアが叩かれ続ける。
誰かが上から覗き、笑い声を上げる。
床に落とされたスマホが、自動で動画を再生していた。
玲が泣いている。
「やめろって、誰に命令してんの?」
「こっちは遊んでやってんだよ」
その言葉を口にしているのは、他でもない自分だった。
「やめろ……やめろ……ッ」
八代は頭を抱える。
涙が出る。怖い。苦しい。
でも、誰も助けてくれない。
背を向けて逃げようとするが、教室の出口はすべて消えていた。
「逃げ場は、ないぞ」
アズライルの声が、耳元で囁く。
「お前が踏みにじった魂は、全部ここにいる」
その瞬間、彼の体中に“手”が現れた。
玲の手——ではない。
八代が今までの人生の中で嘲笑った、蔑んだ、恐怖に歪ませた顔たちが浮かんでいる、無数の手だ。
「やめて、くるな……くるなああああ!!」
その絶叫を最後に、八代の意識はぷつりと切れた。
◇
放課後の旧校舎の一角。
八代颯真は、膝を抱えたまま震えていた。
白目を剥き、唇の端からは血の滲んだ泡が溢れている。
誰もいない廊下に、彼の呻き声だけが木霊していた。
「ひ……ひとが……て、てを……くる……」
意味をなさない言葉を繰り返しながら、虚空へと謝罪を投げ続けるその姿は、もはや人の形を保ちながらも、精神だけが完全に壊れてしまっていた。
アズライルは、玲の姿のまま、廊下の影からその様子を無言で見下ろしていた。
「三人目、終了」
その呟きは静かだったが、どこか名残惜しさすら滲ませている。
「……他愛もない。脆いな、人間なんて」
長く続いた復讐は、これで終わりだ。
アズライルはゆっくりと教室の窓際へ歩き出す。
夕暮れの光が差し込む中、埃が細かく舞い、静寂だけが支配する旧校舎は、まるで儀式の終幕を見守る聖域のように静まり返っていた。
(さて――)
本来ならここで少女の魂を回収する。
だが、アズライルの内側にわずかな揺らぎが渦巻いていた。
彼は振り返り、静かに玲の肉体を見つめた。
「……返してやろう」
アズライルは玲の意識が眠る肉体の内側に、今もなお自分が“憑依”している感覚を緩やかに解いていく。
ふわりと肉体が弛緩し、座り込むように床にゆっくりと身を預ける。
その呼吸は静かに整い、生命の律動が戻り始めていく。
虚空に立つアズライルは、わずかに指先を動かした。
淡い光が玲の身体を包み込み、薄く漂う霧のように少女の魂が還っていくのを導いていく。
やがて、玲のまぶたが震え、ゆっくりと開かれた。
「……え?」
少女は目の前の景色を呆然と眺める。
人気のない旧校舎の廊下、夕暮れの柔らかな光、誰もいない静寂。
その表情には、かつて纏っていたような重苦しい怯えはもうなかった。
ただ、自分がどうしてここにいるのか分からずに戸惑う純粋な驚きだけがあった。
アズライルは、その光景を静かに見つめ続ける。
しばらくの間、まるで何かを確かめるように少女を眺めると、彼の気配はゆっくりと希薄になっていく。
完全に消えることなく、空間に溶け込むように。
——まだ、見届けなければならない。
復讐は完遂された。
だがこの胸の奥に残る微かな違和感――それだけが、唯一未解決のままだった。