第六章:鏡獄
放課後の裏路地を歩く真依の手元で、突然、スマホの画面が硬直した。
「……え?」
タップしても反応しない。画面は暗くもならず、固まったまま動かない。
再起動しようと電源ボタンを押すが、無反応だった。まるで意思を持つかのように、機械は沈黙を続ける。
「なにこれ、冗談でしょ……?」
そのとき、不意に画面全体が黒く染まり、白い文字が浮かび上がった。
《“命令”の記録を再生します》
「……は? ふざけてんの?」
声が震え始める。
次の瞬間、スピーカーから音声が流れた。
「ねえ、みんな玲で遊ぼ〜」
「玲と仲良くしたら、わかってるよね〜?」
「うちらはただゴミ同然の玲ちゃんを有効活用してあげてるだけだよ〜」
——それは紛れもなく、“自分自身の声”だった。
「な……なんで……?」
全身に寒気が走る。真依はスマホを握りしめたまま後ずさった。
だが、悪夢はまだ続く。
周囲のコンクリートの壁。その表面に、今まで彼女が口にしてきた数々の“言葉”が、次々と浮かび上がっていく。
——「あの子が勝手に泣いただけでしょ」
——「あの子がいつまで耐えられるか賭けようよ!」
——「私、知らないって言えばいいよね」
まるでその言葉たちが、実体を持ったように真依を包囲し始める。
「ちょ……やだ、なにこれ……っ」
目の前の世界が歪んでいく。逃げようとするが足が動かない。
背後から、コツ……コツ……と乾いた足音が近づいてきた。
恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは——玲。
だがその瞳は、玲のものではなかった。
氷のように冷たく、底知れぬ闇を湛えていた。
「こんばんは、真依」
「っ、誰……いや、なんで……玲!? なんでアンタが……」
「俺は玲じゃない。けど、あいつの記憶と痛みは、しっかりこの手にある」
その声に、真依は無意識に一歩退いた。
「なに、あんた……化け物……?」
「化け物? そうかもな。でも“言葉で人を殺せる人間”の方が、よほど恐ろしいと俺は思うけどな?」
アズライルの手がゆるやかに宙を指し示す。
「思い出せ、お前の罪をーー」
その瞬間、虚空に無数のスクリーンが現れ、玲の記憶が次々と投影され始めた。
——給食の時間、わざと牛乳をぶつけられた日。
——体育の授業、着替え中にスマホで盗撮されかけた瞬間。
——掲示板の裏に“臭い”と落書きされた名前。
「うそ……」
「これが、お前の作った“現実”だよ」
突然、真依の視界がぐにゃりと歪んだ。
次の瞬間、彼女は“玲の教室”に立たされていた。
周囲の視線が、一斉に彼女を刺す。
椅子が倒れて転んでも、誰も助けない。
言葉を発しようとしても、誰も目を合わせない。
——これは、“体験”だった。
真依の脳内に、玲の記憶が強制的に再生されていく。
「や、やだ、やめて! やめてよおおおお!」
目を見開いたまま叫ぶが、返事はない。
どこかで自分自身の声が重なり始める。
——“ねえ、誰か止めてあげなよ”
——“かわいそー。でもあんたが悪いんじゃん?”
——“調子乗ってるからじゃない?”
それは、真依が玲に浴びせた言葉だった。
「もう、やだ、やだってばああっ!!」
パニックになった真依は、スマホを床に叩きつけた。
バチッと火花が散り、閃光が走る。
焼け焦げた画面には、最後のメッセージが浮かび上がっていた。
《次は、お前の番だ》
◇
翌朝。
教室の空気が異様なほど重く張り詰めていた。
「……マジ? 真依のLINE、全部リークされたらしい」
「投稿主、自分の声だったって。怖すぎ」
「学校、動くらしいよ。さすがにこれは……」
真依は教室の中心にぽつりと座っていた。
虚ろな目。何も映していない瞳。
声も出ず、喉は枯れ、唇はひび割れていた。
背後を生徒が通り過ぎても気づかない。
教科書も、プリントも、机の上には何一つ置かれていない。
誰も、彼女に声をかけない。
——そう、佐伯真依は“存在を失った”。
孤独を与えた者が、孤独に堕ちた。
◇
アズライルは屋上の手すりにもたれ、玲の姿のまま、それを見下ろしていた。
感情のない、冷えた瞳で呟く。
「一人目、完了。さて……」
次に告げられた名前には、確かな確信と冷酷な熱が込められていた。
——香坂美羽。