第五章:開幕
玲の姿を纏ったアズライルが、静かに学校の門をくぐった。
朝の光が校舎を照らし、生徒たちの笑い声や雑音が遠くから響いてくる。
だが、その喧騒の中で、アズライルだけが異質な“沈黙”をまとっていた。
(この身体……馴染んできたな)
玲の記憶。痛み。苦しみ。そして怒り。
それらを“情報”として冷静に受け取りながら、アズライルは今日——動くことを決めていた。
教室の扉を開ける。
中に入った瞬間、軽い声が耳に届いた。
「おはよ、玲」
呼びかけたのは佐伯真依。
いつものように甘く、柔らかい笑顔。
だが、アズライルの目にはその奥に潜む悪意がはっきりと見えていた。
「……おはよう、真依」
その声は玲のもののはずだったが、響きは違った。
わずかに低く、滑らかで、どこか冷たく乾いている。
普段の玲であれば、真依の言葉に俯き、反応すらしない。
だからこそ、真依は一瞬、違和感を覚えた。
だがすぐに気を取り直し、目を細めて返す。
「なに? 今日はやけに元気じゃん」
「そうかもね。今日は……楽しみにしてたから」
アズライルはふっと微笑んだ。
それは仮面のような作り笑い。
優しさでも親しみでもない、“静かな宣戦布告”だった。
「……へえ。なにそれ、ここにあんたが楽しめるようなことなんてあったんだ〜」
真依が冗談めかして笑った直後、香坂美羽と八代颯真が後ろから現れる。
「おっす玲。今日もキモいな」
「目合った? じゃあ今日もターゲット決定〜」
いつもの三人の嘲笑が重なる。
だがアズライルは、わずかに首を傾けただけで何も言わなかった。
その沈黙と視線の鋭さに、美羽がほんの少しだけ表情を曇らせる。
「なに? 無視?」
「ううん、たださ——」
アズライルはゆっくりと視線を三人に向ける。
そのまなざしは冷えた刃のようで、なおかつ不気味なまでに穏やかだった。
「……あなた達って本当に愚かだと思ってね」
「……は?」
「まぁ、いいか。今日が“最後”になるから」
その言葉に、颯真が鼻で笑う。
「何、最後って。つまんない冗談言ってんじゃねーよ。きも」
「冗談じゃないよ」
その瞬間、教室の空気が微かに凍りつく。
「あなた達は、もう“選べない”立場にいる。私はその選択肢を一つずつ……奪っていくだけ」
真依が無意識に一歩、後ずさる。
美羽が眉をひそめて怪訝そうな目を向ける。
「なにそれ、厨二病?」
「そう思ってていいよ、今のうちはね」
睨みつけるように踏み出したのは颯真だった。
「東雲、今日は随分と調子乗ってんじゃん? 玩具は玩具らしく黙って使われてりゃ良いんだよ!」
言葉と同時に、颯真の手が玲の頭をめがけて振り下ろされる。
いつものように叩かれ、倒れ込む——誰もがそんな光景を思い描いた。
だが次の瞬間、玲の手が颯真の腕を掴み上げた。
「…っ」
鋭く締めつけるその力は、到底少女とは思えないものだった。
颯真の顔が引きつる。教室内の喧騒がぴたりと止まり、誰もが息を呑む。
玲は無言のまま、数秒間腕を握り続けた。
そのまなざしに、もはや人間的な感情は宿っていない。
予鈴が鳴る。
その音とともに、玲は手を放した。
そして、颯真にしか届かない声で、静かに囁く。
「…焦るなよ、お前は最後だ。とっておきの地獄を用意してやる」
言い終えたアズライルは踵を返し、窓際の席へと向かっていった。
彼の背に、誰も声をかける者はいない。
朝日が差し込む窓に、微かな影が重なっていた。
◇
放課後。塾帰りの帰路。
人通りの少ない裏路地を、佐伯真依はローファーの音を響かせながら歩いていた。
スマホを片手に、口元には無意識の笑みが浮かんでいる。
(玲ってほんと、可哀想。陰キャで、コミュ障で)
指先が滑る。自作の裏アカには、玲を晒した投稿がいくつも並んでいた。
——机の落書き写真。
——目を背ける様子の動画。
——LINEから除外された日付入りのスクショ。
(まぁ、そのおかげであいつが何されたって、誰も味方しないもんね)
そんな“安心”が、彼女の頬を緩ませていた。
(それにしても今日のアレは何? 珍しく刃向かっちゃって)
(思わずびっくりして今日は遊べなかったけど、明日はお仕置きしなきゃね)
(玩具の立場をしっかりと教えてあげないと)
だが、その時。
手にしていたスマホの画面が、急にフリーズした——。