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第四章:覚醒

玲の肉体を器にし、アズライルは人間界の空気を初めて“内部”から感じていた。


——生温い。


血の通った肌。吐息に混じる湿度。

少女の体に染みついた無数の痣と傷。

それらすべてが、じわじわと彼の中へ流れ込んでくる。


「……不快だな」


口に出すと、玲の声が喉を震わせた。

だが、その声は妙に柔らかく、壊れそうなほど脆かった。


アズライルはその感触に、わずかな苛立ちを覚える。


(脆いのは身体か、それとも……この“心”か)


はっきりとした境界を持たない違和感が、じわじわと体内を満たしていく。


少女の中に残された“感情の残滓”。

それが、まるで自分自身の感情であるかのようにアズライルの中で揺れ動いていた。


——寂しい。

——痛い。

——怖い。


それだけなら、まだ許容できた。


だが、ふとした瞬間に混じる“別の感情”が、アズライルの思考を引っかける。


——誰かに、手を引いてほしかった。

——本当は、笑いたかった。


(……甘い)


その願いが、無性に腹立たしかった。


アズライルは復讐のためにこの体を借りた。それが契約の対価であり、果たすべき義務であるはずだ。


だが、玲の奥底に潜んでいた“救いへの希求”が、まるで自分の中にまで浸透してくるかのような錯覚。


それが、あまりにも煩わしかった。



夜。人気の消えた教室に、玲の姿で立つアズライルがいた。

生徒たちの喧騒が消え去った静寂の中、教卓の前で一点をじっと見つめる。


その瞳は冷たく澄んでいた。だが、どこか“壊れかけた脆さ”が滲んでいた。


(……壊れかけた玩具みたいだな、お前の魂は)


視線が窓側後方の二番目の席に移る。

机の端に置かれていたのは、香坂美羽のものと思しきペンケースだった。


アズライルはそれを指先でつまみ、窓の外へとゆっくりと傾ける。


コツリ、と軽く落ちた音。地面に叩きつけられ、ペンや小物が四散した。


——そのわずかな音が、妙に心地よかった。


(……感情があるから、壊す価値がある)


アズライルは玲の椅子に腰掛け、ノートを一冊開く。


中には、玲が残した“日々の記録”が並んでいた。


—今日は体育のペアに誰もなってくれなかった

—机がまた濡れてた

—先生に言おうとして、やめた


その拙く綴られた文字を見つめるうちに、アズライルの中に再び“違和感”が滲み出してくる。


(なぜだ……?)


(なぜ、こんな“くだらない記録”に、俺は苛立ちを覚える?)


“くだらない”はずだった。

契約者の感情など、今まで一度だって気に留めたことはなかった。

欲望まみれの人間たちの哀れな感情など、取るに足らないはずなのに。


それなのに——


この感情はなんだ…?

どこか既視感がある。まるで“誰か”を重ねるような感覚。


——こんな気持ち、知らないはずなのに。


「……ふざけるな」


吐き捨てた声は、いつの間にか自分自身に向けられていた。



アズライルは玲の家に戻った。

誰もいない室内は静まり返り、重くよどんだ空気が漂っている。


母親は夜勤、父親は単身赴任。

玲の家には、いつも“独り”があった。


冷蔵庫を開けると、玲が用意していた一人分の食事が整然と並んでいた。


白いご飯に卵焼き、そして漬物が一切れ。

アズライルは無言でそれを見つめた。


玲が“食べるはずだったごはん”。


アズライルは箸を取らなかった。

冷蔵庫を静かに閉め、部屋の明かりをすべて落とす。


暗闇の中、月明かりだけが差し込んでいる。

その中でアズライルは、指先で弧を描いた。


透明な紙のようなものが虚空に現れ、そこには3人の名前が刻まれていた。


——佐伯真依。

——香坂美羽。

——八代颯真。


アズライルは静かにそれを見下ろす。


(……始めよう)


透明な紙に刻まれた名前を、


「まずは、お前からだ」


指先がひとつの名前をなぞると、文字が淡く赤黒く光り始める。


部屋の空気がわずかに震えた。

夜の闇の奥で、“裁き”が目を覚ます音が微かに響く。


アズライルは微かに笑った。

だが、その笑みには、ほんの僅かな痛みの色が滲んでいた。


復讐は、ここから始まる——。

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