第三章:契約
「……本当に、死にたいのか?」
その声は、風の中に溶けるように落ちた。
玲が、微かに動く。
ゆっくりと振り返ったその顔は、驚きも恐怖も浮かべていなかった。
まるで、最初からそこに“彼”がいることを知っていたかのように。
「誰……?」
玲の声は、掠れていた。
何度も何度も、誰にも届かないように押し殺してきた声。
アズライルは答えなかった。代わりに、彼女に近づく。
「お前はここで死ぬつもりだったんだろう?」
玲は黙って頷く。
「理由は?」
「……生きてても、意味ないから」
それは単なる絶望ではない。
“もう疲れた”という言葉の方が、正確だった。
「毎日、ただ我慢して、笑われて、傷ついて。……でも、誰も助けてくれない。」
「自分でぶつかったって言われた」
「自分から壊したんでしょって、言われた」
「……何もしてないのに。誰にも届かないのに」
風の音だけが、ふたりの間に漂った。
アズライルはゆっくりと息を吐くように言った。
「そうやって、誰かに壊されたまま、終わっていいのか?」
玲の肩が、微かに揺れる。
「どうせ、誰も覚えてないよ。……私が消えても、何も変わらない」
「そうかもしれない。だが……」
アズライルの口元が、僅かに歪んだ。
「“壊されっぱなし”で終わるのが嫌なら、選択肢はある」
玲がアズライルを見上げる。
その瞳に、ほんの少しだけ、疑問の光が灯った。
「復讐をしてから、死ねばいい」
「……え?」
「自分の命を、誰にも奪わせるな。お前の人生なんだ。どうせ終わらせるなら、自分の意思で終わらせろ」
「……でも、私は、誰にも勝てない」
「勝たなくていい。“壊せ”。それだけでいい」
玲は一歩、後ずさった。
しかし、その表情には恐れではなく——混乱があった。
「……そんなこと、できないよ」
「できるようにしてやる。俺と“契約”すればな」
アズライルの瞳が、夜のように深く黒く染まる。
「お前に代わって、俺が“全部”壊してやる。……あの笑ってた奴らも、見て見ぬふりをした奴らも」
「どうせ死ぬなら、その前に“全部”返してから逝け。
黙って耐えるだけの人生で終わるのが悔しいなら——」
「今だけでいい、悪魔に魂を預けろ」
玲の唇が震えた。
「……それで、全部終わるの?」
「終わるさ。俺が終わらせる。完璧にな」
玲は、しばらく黙ったままアズライルの目を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……私、本当は」
「?」
「もう、“自分”の声がどんなだったかも、わからなくなってた」
「誰にも届かないなら、最初から言葉なんて、なければよかったって……思ってた」
「……でも、今は」
彼女は、拳をぎゅっと握りしめた。
「……あの人たちが、壊した“私”を、全部返してもらいたいって思う」
アズライルの口元に、初めて笑みが浮かんだ。
「良い返事だ。“契約成立”だな」
その瞬間——風が止まった。
アズライルの影が玲を包み込む。
その目が、玲の中にある何かを深く覗き込むように染まっていく。
「しばらく、体を借りるぞ」
玲の意識が、ゆっくりと薄れていく。
最後に見たのは、アズライルの口元が呟いた言葉。
「——地獄を見せてやろう」
◇
玲の体に、アズライルが降りた。
瞳の奥に“何か”が灯ったその姿は、もはや“玲”ではなかった。
校舎の影が、音もなく揺れる。
復讐が——始まる。