第二章:介入
それから二日間、
アズライルは“東雲玲”の観察を開始した。
命令は単純明快。
三日後に自死を選ぶこの少女の魂を、最後に回収すればいい。
干渉する必要はない。ただ見ていればいい。
……けれど、思っていたより、はるかに胸に障る。
◇
朝の教室。
玲が入ってきた瞬間、空気が明らかに“引いた”。
何人かが意味ありげに顔を見合わせ、誰かがわざとらしく笑い声を立てた。
(この光景にも見慣れたな…)
「……あ、玲ちゃん、また同じ服?」
「しかも昨日のシミ、まだついてるじゃん。マジやばくない?」
クスクスという音があちこちから漏れる。
玲の制服の袖には、確かに小さな赤茶けたシミが残っていた。昨日、真依にすれ違いざま飲み物をかけられたまま、クリーニングにも出せなかったのだろう。
真依はわざと大げさに鼻をつまむ。
「てかさ、保健室とかで身体洗ったほうがよくない? あんた、なんか臭い」
周囲の生徒たちが笑う。中には、笑いながらも視線を逸らす者もいたが、それすらも“加担”にしか見えなかった。
玲は何も言わず、俯いたまま自席へ向かう。
机の上には水浸しのプリント、イスはひっくり返されていた。
下駄箱には紙屑と泥が詰め込まれ、体操服はカッターで裂かれていた。
「またやられてんの、可哀想〜」
香坂美羽の声が聞こえる。担任が教室へと入ってくると、美羽は猫撫で声で言った。
「先生〜、東雲さん、今日も遅刻しそうでしたよ。私、ちゃんと注意してあげたんです」
玲が口を開く前に、美羽が笑顔で言葉を被せる。
「ね? 東雲さん、最近ちょっと様子変だよ〜?私心配で心配で…っ」
それを聞いた担任は「そうか」とだけ頷き、玲の方を一瞥し、だが面倒ごとに巻き込まれたくないとばかりに目を逸らす。そして何事もなかったかのように教壇へと立ち、「ほらホームルーム始めるぞ。席につけ」と号令をかけた。
(……くだらない)
教室の隅で見ていたアズライルが、低く呟いた。
(この空気、まるごと腐ってるな)
玲は、それでも口を閉じたままだった。
怒りもしない。反論もしない。
まるで“無かったこと”にして進もうとするように、ただ静かに教科書を開いた。
◇
昼休み。
誰よりも早く席を立った玲は、鞄を抱えて非常階段に身を隠す。
そこが彼女の“昼食の場”だった。
鞄から取り出したパンは、誰かのイタズラで中身が潰されていた。
仕方なく包みを戻し、水筒だけ口に運ぶ。
無味の水を飲み下しながら、玲はふと、手の甲をじっと見つめた。
そこには数日前、八代に押し付けられた痣がまだ残っていた。
「おい、邪魔だ」
ぶつかってきた彼の肘が、わざと手を狙ったように打ち込まれていたのだ。
彼は目を合わせることすらせず、ただ肩で玲を押し退けた。
それを誰かが見ていた。でも、誰も止めなかった。
◇
放課後。
玲はまっすぐ帰宅せず、公園のベンチで立ち尽くしていた。
カバンから一冊のノートを取り出す。
それは、誰にも見せない“死にたい理由ノート”。
ページには、玲自身の手で記された苦しみが並んでいた。
《話しかけられても、すぐに嘘にされる》
《転んだら、笑われた》
《泣いたら、「自分でやった」と言われた》
《誰かが私の机を蹴っても、みんな笑ってた》
《……でも、誰も助けてくれなかった》
そして——
《もう、誰にも期待したくない》
ページの端が、雨で少し滲んでいた。
アズライルはその背後で、じっとそのノートを見つめていた。
(助けを求める声も出せないほど、黙らされてきたってわけか)
彼女は“壊れている”のではない。
壊され続けているのだ。日々、じわじわと。
それを“いじめ”という言葉で済ませるのは、あまりにも優しすぎる。
アズライルは、自分の感情に戸惑っていた。
これまでにも、無数の死を見てきた。
そのどれもに、涙や絶望があり、怒りや憎しみがあった。
でも、玲の中にはそれすらない。ただ「諦め」があるだけ。
(こんな結末、……本当に“正しい死”なのか?)
ふと、彼の中にわずかな違和感が生まれた。
それはほんの小さな裂け目だったが、アズライルの中の何かを確かに揺らしていた。
◇
三日目の朝。
玲は荷物を持たずに、制服だけで家を出た。
無言で、静かに。
通い慣れた通学路を外れ、人気のない街へと向かう。
その先にあるのは——事前に渡された結末の中にあった東雲玲の最期の場所、廃墟と化したビル。その屋上。
アズライルはその背を、黙って追い続けた。
(そろそろだな)
任務の終点が近づいている。
だが、彼の足取りはどこか重かった。
屋上のドアが、鈍い音を立てて開く。
風が玲の髪を揺らす。
その細い肩が、柵の向こうに吸い込まれるように進んでいく。
アズライルは、一歩、足を踏み出した。
その瞬間、口からこぼれた言葉は——
命令とは、まったく別の感情を孕んでいた。
「……本当に、死にたいのか?」