最終章:始動
◇
——また、ひとつ“願い”が生まれた。
虚無の奥深く、光も影も溶け合う領域の中心に、アナンケは静かに佇んでいた。
その冷たい瞳が、ゆっくりと細められる。
「……いいわ」
霧の中に浮かぶのは、一匹の白い犬と、その傍らでうずくまくひとりの少年。
少年の胸の内から立ち昇る微かな光——それが、今まさに生まれ落ちた新たな“願い”の証だった。
孤独、渇望、憧憬。
「こうしてまた、ひとつ歯車が回り始めたのね」
唇がわずかに吊り上がる。
アナンケの微笑は、慈しみとも冷酷さともつかぬ色を帯びていた。
◇
「アズライル。」
その名を、ゆっくりと呼ぶ。
彼女の忠実なる使い魔。
命を司る契約の執行者。
——だが、今や彼の中に僅かな揺らぎが芽生えつつあることを、アナンケは見逃していない。
「君はこの短い間に、随分と面白いものを手にしたようだね」
虚空にアズライルの像が浮かび上がる。
冷たく無表情な顔——だが、その奥に微かな“濁り”のようなものが揺れていた。
「命を回収できずに迷いを残した。それは決して些細なことではないわ」
指先でそっと虚空をなぞると、小さな波紋が広がっていく。
「けれど……それもまた良い兆しよ」
アナンケはくつくつと笑う。
「君は知らず知らずのうちに、少しずつ、こちら側へと足を踏み入れていく。自分の選択によって——ね」
◇
虚空の奥で再び“願い”が灯る。
——誰かに触れたい。
——そばに立ちたい。
——孤独から抜け出したい。
その純粋な願いの光は、まるで導きのように新たな契約を呼び寄せていく。
「君にとっては、なかなかに興味深い契約になるでしょう」
ふ、とアナンケは呟く。
「次の命が、君を待っている。」
闇の中に、ゆっくりと新たな扉が開いていく。
静かに動き出した歯車は、今まさに次の因果へと繋がっていくのだった。
◇
アナンケは、最後にほんのわずかに目を伏せた。
「——すべては、仕組まれた通りに。」
そして静かに虚無の闇に溶けていった。
◆
【完】