第十六章:日常
春の空気が、静かに教室を満たしていた。
玲は新しいノートを開くと、ゆっくりと日付を書き込んだ。
(――今日から、また始まる)
あの日から、時間は確かに動き始めていた。
あの主犯たちの姿はもうない。廊下で怯えていた毎日も、机の中を覗く恐怖も、今は遠い過去になりつつある。
もちろん、すぐに友達ができたわけではない。
まだ、教室の空気はどこか距離を置いている。けれど、それでも今の玲には、あの頃のような孤独は感じなかった。
誰にも話しかけられなくても、心の中に静かな光があった。
(私は一人じゃない。もう、何も終わってなんかいない)
◇
昼休み。窓際の席に座った玲は、お弁当箱の蓋を静かに開けた。
母が作ってくれたおかずが、色鮮やかに詰められている。
(……ありがとう)
口に出さなくても、胸の中で自然とその言葉が浮かぶ。以前なら抱いていた“申し訳なさ”も、今はない。
少し遠くの席では、何人かのクラスメイトが雑談していた。
そのうちの一人が、ふとこちらに目を向ける。
「ねぇ、東雲さん…!」
玲は少し驚き、そっと顔を上げた。
「えっとさ……今度のグループ課題、一緒にやらない? 人数あと一人足りなくて」
ほんのささいなきっかけだった。でも、その一言が、玲の心を大きく揺らす。
「……いいの?」
「もちろん!むしろ一緒にやってくれたら凄い助かる。」
相手の笑顔は、ごく自然な優しさだった。
玲はゆっくりと微笑みを返した。
「ありがとう」
自然と出たその言葉は、今までとは違う柔らかさを含んでいた。
◇
放課後。
新しいグループでの打ち合わせを終え、玲は教室を出た。
西日に照らされた廊下を歩きながら、ふと窓の外に目をやる。
柔らかな春風が校庭を撫で、遠くには白く小さな雲が流れていく。
玲は静かに立ち止まり、小さく深呼吸をした。
(あの時の私が願ったこと――)
誰かが与えてくれた選択肢。
自分で選んだ“生きる”という道。
まだ不安もある。でも今は、確かに希望を抱ける自分がいる。
「……大丈夫。きっと、これからは」
玲は静かに微笑んだ。
そして、光の差す昇降口へ向けて歩き出した。
◇
こうして――
少女の物語は、静かに幕を閉じた。
だがその裏で、新たな物語の歯車が、ゆっくりと音を立て始めていた。