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第十一章:裂心

闇の中に、彼はいた。


目を閉じていても、光も影もない空間。ここはアズライルにとっての“居場所”であり、あらゆる現実と乖離した、命と契約の狭間だった。


だが今、その空間に満ちているのは、重たい違和感だった。


「……回収、しなかった」


誰にでもなく、ぽつりと漏れた言葉。


契約は完了していた。あの少女が死を望んだとき、彼はそれに応じて現れた。復讐という名の願いを叶えた。そして終わりの瞬間に——少女は、生を選んだ。


本来ならば、そこで魂を回収して終わるはずだった。


だが、できなかった。


アズライルは自嘲するように小さく息を吐いた。


契約者としての任務を果たさなかった。彼はあの少女の魂を“救って”しまったのだ。それは、悪魔としてはあり得ない選択だった。


(……いや、違う)


彼女の魂を救った、というのも違う。そもそも救いなど、アズライルの中にあるはずもなかった。

それでも、最後のあの少女の瞳を思い返すたび、胸の奥に妙な感覚が残る。


かすかな涙と、淡い光のような微笑み。それは絶望の果てに生まれた、確かな“何か”だった。


彼はその光景を見てしまった。


(……何だ、この奇妙な重さは)


アズライルはゆっくりと立ち上がり、虚空の上を仰ぎ見る。


思えば、最初から何かが違っていた。


少女の叫びを聞いた時に生まれた、説明のつかない苛立ち。

傍観者でいれば済むはずだったのに、なぜか彼女の苦しみに正面から向き合っていた。

記憶に触れ、怒りを感じ、今まで抱いたことのない類の感情が滲み出していた。


契約とは本来、冷たい等価交換だ。生を捨て、力を得る。その代償として命を奪う。

そこに余計な感情など不要だった。


なのに——


(あの時の、お前の目……)


脳裏に浮かんだのは、最後に少女が見せた微かな涙と、小さな微笑み。

それは絶望の先に初めて掴んだ“希望”だった。


アズライルは、その光を見てしまった。

見てしまい、そして——揺らいでしまった。


「……何をやってるんだ、俺は」


虚空に浮かぶ己の手を見つめる。


これまで幾千の魂を奪い取ってきた手。

だが、あの少女に差し伸べたときの重みは、今も消えないまま残っている。


(心など、とっくに捨てたはずだった)


ぽつりと呟いたその瞬間——


遠くで、“目覚める音”がした。


アズライルは顔を上げる。

虚無の彼方に、ぼんやりと新たな光が浮かんでいた。


霧のような闇の中に、一匹の白い犬の幻影。

その隣には、膝を抱えて座る少年の背中。


まだ幼い——けれど、確かに何かを願い始めている“誰か”。


「……また、願いが生まれたか」


誰なのかはわからない。

けれど、確かに“契約の匂い”が漂っていた。


その新たな気配を感知しながらも、アズライルは静かに目を伏せる。


「……まずは、あの女の元に行かなくてはな」


微かに吐き捨てるように呟き、アズライルは踵を返す。

重く沈む虚空の奥、その先で待つのは冷徹な支配者——アナンケの眼差し。


足音も波紋も残さず、闇の中を静かに進んでいく。

胸の奥に残るわずかな迷いを抱えたまま、やがて訪れる裁定の場へ向けて。

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