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第十章:再契

沈黙が、虚空を支配していた。


少女は黒い門の前に立ったまま、微動だにしない。

その背中を、アズライルは静かに見つめ続けていた。

互いに、何かを探るように、言葉を待っていた。


「……やっぱり、怖いな」


少女がぽつりと呟いた声は、震えを含んでいたが、どこか芯のある響きだった。


「終わるって、こんなに怖いんだね」


それは、出会った頃の絶望に沈んだ声ではなかった。

今の彼女の中に芽生えている“生きたい”という感情が、確かに混じっていた。


アズライルはゆっくりと目を伏せる。


「終わるからこそ、人は選べる。踏み出すのか、引き返すのか——どちらを選んでも、代償はある」


「でも、私は……」


少女は自分の胸元にそっと手を当てた。

そこには、もう血のような痛みも怒りの熱もなく、残されているのは――静かな鼓動だけだった。


「生きたいって、思っちゃった」


その告白に、アズライルは無言で受け止めた。

言葉にはしないが、彼の胸の奥でもわずかに何かが波打つ。


少女はそっとアズライルを振り返る。


「無理だってことは、わかってる。それが契約だから。ただ、貴方の中で眠ってたときにね、夢を見たの。お母さんとお父さんの……」


少女はゆっくりと語り出す。


「いつも私のことなんか気にしてないみたいに仕事ばっかりだった二人が、仕事も放り出して帰らない私を必死に探してた。」


「それがただの夢なのか、私の願望なのか、わからない。でもその夢を見た時に思ったの。……もしかしたら、私をちゃんと愛してくれてる人はいたのかもしれない。もう少し、私に出来ることがあったのかもしれないって」


アズライルは言葉を返しかけて、ふと口を閉じる。

喉元までせり上がった何かが、今の彼には言葉にできなかった。


(……なぜ、こんなにも……)


これまでなら即座に命を回収して終えていたはずの場面。

それなのに、今の自分の手は、わずかに震えていた。


アズライルは静かに少女の前に立ち、左手を差し出す。


「……だったら、生きてみるか?」


少女は戸惑いを浮かべながらも問い返す。


「……でも、それって……契約を破るってことじゃないの?」


アズライルは僅かに肩をすくめ、口元にだけ笑みを刻んだ。


「まぁな。だが俺も、あの女の命令に素直に従い続けるのには飽き飽きしてたところだ」


「じゃあ……」


「勘違いするなよ」

彼の声色は鋭さを帯びた。


「お前には俺と新たな契約を結んでもらう」


アズライルが左手を握ると、虚空に浮かんでいた黒い契約の紋章が、音もなく砕け散っていく。

きらきらと舞い落ちる光の欠片が、闇の中で消えた。


少女は、それを静かに見つめていた。

まるで、何かを受け入れるように。


「俺が壊したのは主犯格である三人だけだ。だが、お前を苦しめた奴らは他にもいるはずだ」


「今度は、お前が自分の手で、そいつらに復讐してみろ。――それができなければ、今度こそお前の魂は俺がいただく」


その口調には悪魔としての冷酷さが宿っていたが、どこか――微かな救済にも似た響きが混ざっていた。


「悪魔らしい取引だろ?」


アズライルは口角を上げた。


少女の瞳に、滲むように涙が浮かぶ。


けれどその涙は、絶望ではなく。

初めて“救い”という言葉に触れた者の涙だった。


「……ありがとう」


少女がそう呟いた時、アズライルは静かに指を弾いた。


黒の世界を覆っていた門が閉ざされ、闇は音もなく消え去る。

そこに残されたのは、再び戻った光の世界。


薄明かりの中で、ふたりの影がわずかに重なって揺れていた。

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