第一章:命令
闇に沈む空間に、ひとつの声が響いた。
「——アズライル。次の命を与える」
その声に応じるように、虚空がわずかに震えた。
冷たく、どこまでも澄んだ闇。光の概念さえ存在しないこの領域で、アズライルは静かに目を開いた。漆黒の外套をまとったその姿は、まるで影そのものだった。
「命令か。……また、つまらない魂の回収か?」
吐き捨てるように言いながらも、彼は問わずにはいられなかった。
命を回収する。それが彼の存在理由であり、アナンケの命令は絶対だった。
アナンケ——この世界の因果と時間を司る“運命の女神”。その声は、凍てついた夜のように冷たく響く。
「高校一年、女。東雲玲。命の終わりは三日後。自死による。」
その言葉に、アズライルは眉一つ動かさず応じた。
「自殺か。……楽な仕事だな」
アナンケは微動だにせず、ただ淡々と続ける。
「彼女の魂は、放っておけば自己崩壊する。崩壊させるには惜しい魂だ。干渉は不要。ただ、最期を確認し、崩壊前に魂を回収せよ。」
「ふん……見てるだけね」
アズライルの口元に、わずかに皮肉な笑みが浮かぶ。彼は“介入しない”という命令に、ある種の退屈を感じていた。
それでも従わなければならない。悪魔とはそういう存在なのだ。
「承知した。女神様の仰せのままに。」
嫌味ったらしくそう言うと彼の周囲に、黒い霧がゆっくりと広がり始める。任務への移行。それは人間界への降下を意味していた。
「東雲玲。さて、どんな死に様を見せてくれる?」
アズライルの姿がゆっくりと闇の中に溶けていく。
その瞳には期待も憐れみもない。ただ、義務感と興味、それにほんの少しの、理由のわからない違和感。
“誰かの最後を見届ける”"手を出すことも出来ずに"そのことが、なぜか妙に気にかかる——その理由さえ、彼自身にはわからなかった。
◇
その日、東雲玲は傘を持たずに学校へ行った。
朝から小雨が降っていたが、雨に濡れても彼女は気にする様子はなかった。傘をさすことも、防ぐことも、もう何かを「避けよう」という気力すら残っていないのだろう。
教室に入ると、さっそく無言の空気が張り詰めた。
「……あ、東雲さん」
近づこうとした一年生の女子が、真依の目線ひとつで足を止めた。玲はそれに気づいていながら、ただ俯いて自席に向かった。
机の中には、今日も異物が入れられていた。
中身はペンキを塗られたノート。真っ赤に塗りつぶされたページの中に、“クズ”“死ね”の文字。
何も言わずに、玲はそれを取り出して破り、ゴミ箱に捨てた。
まるでそれが、日常の一部であるかのように。
アズライルは、誰にも気づかれないようにして教室の片隅に立っていた。
その目は冷静だった。
「……見事に壊れてるな」
真依の嘲笑、香坂の演技、八代の肩で押し込むような威圧。
どれもが玲という一人の人間を少しずつ、確実に、削り落としていく。
教室全体が“彼女をいないものとして扱う空気”に満ちていた。
アズライルはただ見ていた。
――最期まで。
それが命令だった。
「死にたがっている奴の末路なんて、ありふれている。だが……」
ふと、玲の目元に浮かんだ涙が、アズライルの視界に引っかかった。
泣いてはいなかった。ただ目が潤んだだけ。
それでも、ほんの一瞬だけ、彼は思った。
(……似てるな……)
その感覚に、アズライルは微かに苛立ちを覚える。
無関心でいられないことに、どこか引っかかることに——
理由はわからなかった。
だからこそ、彼はまだ知らない。
この任務が、ただの“回収”で終わらないことを。
そして、この日が、長く続く“始まり”だったことを——。