非現実製の扉・第二話
2.好奇心は理性を殺す
ふと、口から流れ出た名曲の名前を思い出そうとして、頭の片隅から引っ張り出された自制心が、恐怖とともに、目の前の謎の部屋の扉へと伸びた私の手を引き下がらせる。いま口ずさんでいた歌には確かに聞き覚えがない。目の前にある扉にも、猛烈なデジャビュこそ感じるが、私の人生の16年間に、この扉に出会った瞬間などあるはずがなかった。数歩下がって辺りを見回してみても、やはりこのような、窓も、装飾も何一つない白壁の建物には、入ったことがない。よくよく考えてみると、この建物には見覚えなどなかった。目の前にある、四十六号室と書かれた部屋の扉を除いて、先ほどまで感じていた懐かしさや既視感は、まったくもって消え失せていた。
「はっ、はぁっ…」
嗚咽の混じった吐息が漏れる。こんな場所には居られない。確かにこの目で見たはずのこの建物の外観が思い出せない。あの時私は何を感じた?なぜこの建物に入った?無人のビルに勝手に入るなんて、いくら不真面目な私でもそんなことはしない。廊下の先のエレベーターを見やると、どうやら現在エレベーターは三つ上の階にいる。階層の表示が点滅しはじめ、七という表示が六に変わった。私の記憶が正しければ、私がこの階層に上がってきてから、五分と経っていないはずだ。このエレベーターは私を四階に運んだあと、五分の間に、七階に上がり、今降りてきている。
ここに居てはいけない。猛烈にそう感じた。ここに居ては危険だと、根拠のないアラートが全身を駆け巡る。しかしその信号を、私の足は無視してしまう。身体が言うことを聞かず、その場にへたり込んでしまった。ジタバタと、かつて無いほど不器用に足を動かすが、どうも要領を得ず、役立たずだと思ったか、腕で身体を後ろへ運ぶ。真横に見えていた四十六号室の扉を、視界の斜め左前に捉えたところで、エレベーターは無慈悲にも、この階層で扉を開いた。声にならない声を上げながら、精一杯の足掻きで、びしょびしょになった床を這い、角のところでうずくまる。何かの間違いで、私の目はおかしくなって、この階層に誰かが来たなんていう幻覚を見たのだと、そう自分に言い聞かせながら。
どのくらい時間が経っただろう。もう長いことこの体勢でここにうずくまっている。恐怖と、恐怖と、不安と、恐怖で、私はもう立ち上がることもできず、ただ何事もなく私はこの場を離れることができるという、希望的観測を信仰することしか出来なくなってしまっている。その信仰に神が応えたのか、どうやら私はまだ何事もなく済んでいる。どのくらいの時間が経ったかは分からないが、少なくとも、エレベーターが停止してから、中にいたモノが何者であろうと、私を視認し、何か行動が行われる程度の時間は確実に経っているはずだ。
少しずつ少しずつ、恐怖する心を落ち着かせ、冷静さを取り戻す。いや、もしかしたら自暴自棄なだけかもしれないが、恐る恐る廊下の方に目をやると、そこには何かが立っている。
「っ…!!」
思わず声が漏れそうになり、必死に口を押さえつける。驚いて目をつむってしまったが、とりあえず私の人生はもう終わってしまったらしい。一瞬のことで分からなかったが、確実に、私の少し前に、おそらく、エレベーターから降りてきた何かが立っている。もう、何が何だかわからなくなる。私はどうしてここにいて、どうしてこんなに泣いているのか。視界は真っ白で、目を開いているのか、閉じているのかも分からない。少し、寒いような気がして、自分が今、学校の帰り道で、外にいることを思い出す。制服を汚してしまって、明日までに乾くかな、なんて考えているうちに、どうしょうもなく眠たくなって、私の意識は沈んでいった。
3.迂闊だった少女
とても綺麗な海、綺麗な砂浜、晴れ渡る空。そこに人は私しかおらず、海の家にも誰も居ない。私は一人で海に来たらしく、浮き輪にすっぽりとハマって、いつか着ようと思ってたまに部屋で見てはニヤニヤしていた勝負水着を、外で初めて身に付けていた。自己意識が強いのだろうか、どうも私は昔から明晰夢を見ることが多く、今回も、これは夢だとすぐに分かった。私は一人でよく街は歩くけれど、一人で海になんて来るはずがない。ファミリーレストランにも一人では入らない。なぜって、他人が苦手だからだ。だから私の夢の中には、他人が一人も登場しない。その異様な光景を見て、これは夢だと気づくのだ。
夢を見た時の目覚めというのは具合が悪い。どうも明晰夢は脳が十分に休まらないらしく、今日もまた、非常に寝覚めがよろしくない。しかし、今日はいつもと違っている。起きしなの景色が明らかに、私の知っている部屋ではない。少し混乱しているようで、寝る前の記憶が曖昧だ。何処かを出ようとしていたような、何かに怯えていたような。そんな焦燥感に駆られながらおもむろに立ち上がり、弱々しく扉を開いた時、
「駄目!」
部屋を出た左手に立っていた少女から発せられた言葉が全身を駆け巡り、靄がかかっていた私の現状が鮮明になっていった。
そうだ、私は今絶体絶命の状況にいたはずだ。不思議な建物で、不思議な感覚に陥り、そして化け物に追われていたはず…。いや、化け物だったかは定かではないか。ともかく、私は危機的状況にあったはず。だと言うのに、どういうわけか、私は心地よくベッドで横になっていた。丁寧に布団をかぶって。
私は今冷静さを取り戻している。気分も悪くなく、恐怖に身体が支配されたり、錯乱しているということもない。目の前にいる、恐らく私が気絶する前に最後に見た何かであろう人物を見て、不思議と安心感を覚えていること以外は、いたって正常だ。
目の前の少女は、どうも私を心配してくれているようで、少し悲しそうな顔を私に向けている。私より少し身長が低く、同年齢帯の…つまりは、いたって普通の人間の少女に見える。しかし、いかに普通に見えたとしても、私よりも先にこの無人のビルにいたと考えられる謎の人物であることに変わりなく、そんな存在に私が安心感を覚えるはずがない。そもそも、私が家族以外の人間に、ネガティブでない感情など覚えるはずがないのだ。
だから、この少女は異様だった。それなのに、私の理性以外の部分が、その異様さを感知できない。逃げようと思えない。気が付くと、言われるがままに、元いた部屋に戻り、ベッドの上に座って彼女をじっと見つめていた。
「ええと…自己紹介を…あっ、まずは催眠を解いたほうがいいのかな…いや、でもまた暴れられたら困るし…」
「ううん、とりあえず状況説明からだよね…うん」
「えっとね、あなたは今、とても危険な状態にあるの。…っていうのは何となくはわかってるかもしれないけど…」
「あんまりよくわからないかもしれないけど、とにかく今は危険な状況で、私はあなたの味方なの。信じられないかもしれないけど、本当だよ?」
「だから、ね?今から催眠を解くけど、どうか落ち着いてほしいの…」
そう言うと少女は右手を出して、私の額に近づけてきた。
スッと全身に血が巡るような感覚が襲い、無理やり抑え込まれていた不安と恐怖が決壊したダムのように溢れ出した。身体が言うことを聞かなくなり、思考は意味をなさなくなる。ただ寒い、と感じた時に、五感の一つが異を唱えてきた。
「大丈夫です!大丈夫ですから!どうか落ち着いて!私を信じて…!」
声が聞こえてくる。聞いたことのある声が。記憶のどこにもない人の声が。ふと、昔のことを思い出した。私の目が見えなくなって、歩くこともできなくなって、寝返りさえもうてなくなったときに、ずっと付き添ってくれた母のことを。私が不安と恐怖に押しつぶされそうな時、決まって母は抱きしめてくれた。この少女は母ではないけれど、同じぬくもりを感じてしまった。感じてしまったからには、私の心は落ち着かざるを得ない。
「うっ、うん…うん…落ちっ、落ち着く!」
知らない建物の、知らない部屋で、知らない人物の腕に抱かれて、私は母親に甘えるように、この少女の胸で涙を流している。冷静に考えて、こんな状況、どう考えても落ち着いていられないのだが、これまでの十六年間で一番の心地よさを感じていた。催眠とか、洗脳とか、そんな類のものではないと、自信を持って言えるというのに。
「大丈夫。大丈夫ですからね…!」
私を抱く腕が温かみを増す。幸せな時間が私を包む。無意識なまま、私は少女を、少し強めに、しかし優しく抱き返した。