7.自由への渇望
結婚式の準備は着々と進んでいた。サクレティアは厳しいレッスンに日々打ち込み、その努力は彼女の体に明確に現れていた。ある日、限界が訪れ、ついにレッスン室の床にへばりこんでしまった。
「何故…そこまでする?不出来でも俺は構わん。」
クレノースが部屋に入ってくるなり、疲れ果てた彼女を見下ろし、疑念を込めた声で問いかけた。彼にとって、完璧さは必ずしも重要ではなかった。彼の声には軽い驚きと、彼女の姿に対する不可解さが含まれていた。
しかし、サクレティアは彼をしっかりと見つめ、少し微笑んで返事をした。
「いいえ、本当に、あの家から救っていただいた恩がありますから、これくらいへっちゃらです。」
その言葉は、彼女の覚悟と感謝を示していた。だが、クレノースは内心で戸惑った。恩があるとはいえ、彼女がここまで一生懸命に頑張る理由が彼には理解できなかった。
《恩があるにしても……何故これほどまでに必死なのか?》
クレノースはサクレティアの疲れ切った表情を見つめながら、心の中で問いかけていた。彼女が自分のためにこれほどまでに尽力していることに、何か心の奥深くでざわめきを感じた。
《俺は……こんなふうに何かに打ち込んだことがあったか?》
クレノースはふと、自分自身に問いを投げかけていた。公爵としての責務を全うし、これまでの人生をこなしてきたが、何かに情熱を注いだことがあっただろうか?サクレティアのように、誰かのために、自らの力を尽くしてきただろうか?彼女の姿が、彼にその問いを突きつけていた。
彼はしばしの間、何も言わずに彼女を見つめ、やがて静かにその場を後にした。
サクレティアは、クレノースが部屋を去った後も、心の中に燃え上がる決意を強めていた。結婚式の準備が進む中で、彼女の内心は一つの強烈な目標に支配されていた。
《なんとしても……この生活を守らなくちゃ。》
その意志は彼女の胸の中で絶え間なく燃え、今までの辛いレッスンや厳しい試練を全て正当化してくれた。彼女は、この結婚を通して得られるもの――財産や地位だけでなく、自由そのものを手に入れるために、このチャンスをものにしなければならなかった。
《こんなに伸び伸びとさせてもらえるんだから、この恩を返さなくちゃ。》
サクレティアは決意を新たに、再び立ち上がり、レッスンに向き合った。今ここで得られるものは単なる富ではなく、真の「自由」を意味していた。
その時、執事が静かに部屋に入ってきた。
「サクレティア様、今日はここまでにしてはいかがでしょう?先程、研究中の花が咲いたとの報告が入りましたよ。」
執事の言葉に、サクレティアの目が一瞬で輝きを取り戻した。
「え!?本当ですか!?」彼女は嬉しそうに笑みを浮かべ、即座に立ち上がった。
「ご案内いたします。」
執事と共に、サクレティアは部屋を移動し、研究員たちが待つ研究室へと向かった。部屋に入ると、研究員たちは期待に満ちた表情で彼女を迎え、一列に並んでいた。
「花が咲いたって、本当ですか?」
サクレティアは抑えきれない興奮を口にし、研究員の一人が丁寧に頭を下げて答えた。
「はい。こちらをご覧ください。」
そこに咲いていたのは、うっすらと青みがかった白い薔薇だった。小さな花弁が静かに開き、ほのかな青がかった色合いが、やわらかに輝いていた。
サクレティアはその薔薇をじっと見つめ、しばらくの間、考え込んだ。そして、ふと軽く首を振る。
「うーん……まだまだね。もっと交配しなきゃ。例のアレを使って、さらに改良していきましょう。」
執事はその言葉に驚き、穏やかに言葉を返した。
「これだけでも十分凄いことですよ、サクレティア様。」
だが、サクレティアは優しい笑顔を浮かべ、毅然とした声で答えた。
「いいえ、私は庭園全体を青い薔薇で埋め尽くしたいんです。」
その言葉と共に、彼女は明るく微笑んだ。その笑顔は、以前の彼女とは異なり、自信と希望に満ちていた。執事はその笑顔を見て、心の中で温かさが広がるのを感じた。
<公爵家へ来てから、サクレティア様が、よく笑うようになられましたね……》
彼はそう心の中で呟き、彼女がこの場所で少しずつ幸せを見つけ始めていることを確信し、穏やかな気持ちで微笑んだ。
―――――――
―――――
クレノースは、母親の腕の中にぼんやりと身を沈め、その温かさに包まれていた。彼女のぬくもりは、長年、彼にとっての安息であり、現実からの逃避場所だった。母親の抱擁に包まれる瞬間だけ、彼は全ての悩みや責任から解放されているかのように感じていた。しかし、今日に限って、その心地よさの中に違和感が潜んでいた。
《サクレティア……》
彼の思考は、繰り返しサクレティアの顔に向かっていた。彼女の真剣な眼差しや、決意に満ちた表情が、彼の心をどこか締めつける。胸の奥底でざわつく感情が広がり、今まで感じたことのない焦りが心に染み入っていた。
母親の甘い囁きが、そのざわめきをかき消そうとするかのように耳元で響く。
「クレノ?何か悲しいことでもあったの?」
彼女の言葉は、いつも通り彼を安心させようとしていた。クレノースの体は母親の温もりに反応し、安堵感が広がる。だが、その安らぎの中でさえ、彼の心にはサクレティアの姿が浮かび続けていた。
「母上……僕は、間違っていませんよね?」
自分の口から出た言葉に、クレノース自身が驚いた。今まで、母親との関係を疑ったことは一度もなかった。それは彼にとって絶対であり、揺るぎないものだったはずだ。しかし、今、その信念が揺らいでいた。
「何が、クレノ?」
母親の声には、優しさと同時に不安の色が混じっていた。クレノースは答えを口にするまで少し間を置いたが、心の中に燻っていた疑念を吐き出すように続けた。
「母上との関係を守るために、僕はすべてを犠牲にしてきました……。でも、最近、それが正しいのか、分からなくなってきたんです……。」
母親はクレノースの顔を両手で包み、その目をじっと見つめた。彼女の瞳には甘やかな慰めと、いつもと変わらない強い意志が宿っていた。
「クレノ、あなたは間違っていないわ。これでいいのよ。あなたは私のもの、私の可愛いクレノ。すべてを犠牲にしても、それが正しい道なの。」
その言葉は、これまで彼を導いてきた言葉だった。彼は何度もその言葉に縛られ、信じて従ってきた。しかし、今は違った。母親の温もりに包まれていても、その下に潜む疑念が心を離れなかった。
《本当にこれでいいのか?》
彼の心は、サクレティアの姿によって揺り動かされていた。彼女は、彼にとって「見逃してきた何か」を示してくれる存在のようだった。サクレティアは常に全力を尽くし、何かに挑戦している。その姿が、彼の心に鋭く刻まれていた。
《彼女があそこまで努力しているのに……俺は?》
クレノースは、サクレティアの姿勢と自分の現状を比較せずにはいられなかった。彼は、ただ母親に従い、何も疑わずにすべてを差し出してきた。一方、サクレティアは、すべてをかけて必死に努力している。彼女の存在が、彼の心に新たな感情を生み出し、疑問を抱かせていた。
《俺は一体、何をしているんだ……?》
クレノースは目を閉じ、内なる問いに答えを見つけられずにいた。母親への依存、そしてサクレティアへの思い――この二つの感情が彼の中で絡まり合い、彼の心を引き裂いていた。母親の安らぎは確かに甘美で、逃れられないほど魅力的だったが、その奥には得体の知れない虚しさがあった。
《サクレティア……君はいったい何者なんだ?どうして君が、こんなにも俺の心をつかんで離さないんだ……?》
彼は、自分が変わりつつあることを自覚していた。母親の温もりの中にいても、心の一部がサクレティアへと引き寄せられている。その感情は日々強まっていき、彼の心にわずかな罪悪感と同時に、新たな希望をもたらしていた。
「はい……母上……。」
クレノースは弱々しく応じたが、その言葉の裏には、自分自身への問いが隠されていた。母親の胸に顔を埋め、再びその甘美なぬくもりに溺れるように身を委ねたが、彼の心は既に別の場所に向かっていた。
彼は、自分の心の弱さと、母親への依存に対するかすかな嫌悪感を感じ始めていた。母親の手が彼の髪を優しく撫でるたび、彼はその感触にさらに深く沈んでいく感覚を覚えた。母親の甘い言葉が、彼の心を癒そうとするたび、その言葉が彼の胸には届かなくなっていた。代わりに、彼の中で少しずつ、何かが壊れていくのを感じていた。
《俺は……これでいいのか?母上にずっとこうしていれば、何も考えなくて済むのか?》
彼はぼんやりと、自分が母親との関係の中で失ってきたものに気づき始めていた。それは、自分自身の自由であり、選択する力だった。