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5.揺れる公爵の心

クレノースは暗闇の中でじっと天井を見上げていた。月明かりが窓から差し込み、部屋の静寂を照らし出していた。隣には母親が、まどろみの中で微かに呼吸をしている。その温もりを感じながらも、クレノースの心はどこか落ち着かないままだった。




彼は思わず目を閉じ、心の中で囁く。




「サクレティア……君はいったい……何者なんだ?どうして俺は君の顔がまた見たいと思ってしまうんだ?」




その問いは、彼自身にも答えが出せないものだった。彼はサクレティアに対して、ただの道具としてしか見ていないはずだった。それなのに、彼女が頭から離れない。彼女の笑顔や、真剣に顕微鏡を説明する姿――なぜそれが彼の心に刻まれているのか、理解できなかった。




その時、柔らかな声が耳元に響いた。




「クレノ……?眠れないの?」




彼は振り返ると、母親が優しく彼を見つめていた。その瞳には、いつもと同じような執着と愛情が滲んでいた。クレノースは一瞬、心のざわめきを抑えるために冷静な声で応じた。




「いえ、母上。幸せな時間だと、その余韻に浸っていただけですよ。」




彼の声には微かな笑みが含まれていたが、その内心は違っていた。彼の心は激しく揺れ動いていた。母親との親密な時間にもかかわらず、彼の心の片隅にはサクレティアの存在がしっかりと根を下ろしていた。




《母上だけで十分なはずだ……。なのに、どうして俺は彼女のことを考えてしまうんだ?》




クレノースは再び天井を見つめながら、心の奥底で自分自身と葛藤を続けた。彼の中に芽生えたこの新しい感情が、やがてどんな結末をもたらすのか――それは、まだ誰にも分からなかった。






―――――――


―――――




朝の光が差し込む中、サクレティアはせわしなく顕微鏡と向き合っていた。手慣れた動作でレンズの焦点を合わせ、微小な世界を覗き込む。彼女の心は、今まさに未知の世界を開拓しているという喜びに満ちていた。




元いた世界で、異世界転生系の小説や漫画を読み漁っていた日々を思い出す。あの時には、ただの夢物語に過ぎなかった知識が、今この世界で彼女に力を与えていた。自分が積み重ねた知識が、ここで役立っているという実感が彼女の心を躍らせた。




「アグロバクテリウム……ここにいるはず……」




サクレティアは細胞の中に潜む可能性を探るため、何度もプレパラートを取り替え、顕微鏡を覗き続けた。アグロバクテリウム――植物に影響を与える微生物を探し出すことが、彼女の目下の課題だった。顕微鏡のレンズ越しに見える細胞が次々と拡大され、彼女はまるで宝物を探し当てるかのように集中していた。




「……見つけた……!」




彼女は小さく呟き、笑みを浮かべた。アグロバクテリウムの特徴的な形が、ついにその視界に現れたのだ。元いた世界の知識が、この異世界で形となり、彼女の研究を支える礎となっていた。




すると、そばにいた侍女が気になったように声をかけた。




「何を見つけられたのですか、サクレティア様?」




サクレティアは微笑みを浮かべながら、優しく説明を始めた。




「これはアグロバクテリウムという微生物です。植物に感染して、成長をコントロールする作用があるんです。例えば、植物に新しい性質を与えたり、栽培の効率を上げたりすることができるの。」




侍女は驚いた様子で顕微鏡の方を覗き込んだ。




「そんな小さなものが、植物にそんな影響を与えるんですね……本当に驚きました。」




サクレティアがアグロバクテリウムについて説明していると、ふと気づけばクレノースがいつの間にか部屋に入ってきていた。彼は少し冗談ぽく笑みを浮かべながら、サクレティアに近づいた。




「また奇妙なものを作ろうとしているのか?」




その声にサクレティアは驚きつつも、軽く微笑んで答えた。




「せっかく、こんな広くて立派な庭園を管理させていただいているんですから、この世界にはまだない花を咲かせたくて…。」




クレノースは興味深そうに頷いた。




「ほぅ、それは楽しみだな。期待しているよ。」




彼の声にはほんのりとした温かさが感じられたが、すぐに彼は本題に戻った。




「それはそうと、顕微鏡の件だが、バレンティル商会で商品化することになった。だが、本当にうちで取り扱っていいのか?」




サクレティアは彼の問いに一瞬戸惑いを見せた。クレノースはさらに続けた。




「君自身の商会を持つつもりはないのか?利益の半分は、もちろん君の個人資産として取り分けさせてもらう。」




その言葉に、サクレティアは驚きながらも感謝の念を感じた。彼が彼女の発明を尊重し、彼女自身の利益を大切に考えていることが伝わってきた。




「あの……どうして、こんな発想が浮かぶのかとか、聞かないのですか?」




クレノースはそれを聞いて、少し冗談めかして笑みを浮かべた。




「今聞いたところで、どうせはぐらかすんじゃないのか?」




その言葉にサクレティアは少し困った表情を見せた。実際、彼女の発明の多くは元いた世界から得た知識に基づいていた。しかし、それをどう説明すればいいかは彼女自身も迷っていた。




「それは……」




サクレティアが言葉を選びかけると、クレノースは軽く手を振って彼女を制した。




「好きなことをやらせてやると約束した。思う存分、するといい。ただ、報告だけはしてくれ。君の発明の中には危険なものもあるようだからな。」




彼の口調は冷静だったが、その目にはかすかな警戒心が見えた。それは、サクレティアがかつてボーン伯爵家で無理やり作らされていた戦争用の武器のことを示していた。あの時の記憶が蘇り、サクレティアの表情は一瞬だけ暗くなった。




だが、すぐにその不安を押し隠し、明るい声で答えた。




「わかりました。報告はきちんとしますね。」




サクレティアの明るい返事に、クレノースは軽く頷き、再び微笑みを浮かべた。その柔らかい表情が、以前よりも彼女に対して少しずつ信頼を寄せていることを示していた。




サクレティアは、ふとその微笑みを見ながら、続けてこう告げた。




「それと……やっぱりお世話になっている公爵家に、しっかりと貢献したいです。ですので、これからもバレンティル商会でお願いできればと思います。」




クレノースはその言葉を聞き、少し驚きながらも深く頷いた。




「そうか……わかった。君の気持ちは受け取ったよ。」




彼の声には感謝の気持ちが滲んでいた。サクレティアが自分の能力を、公爵家のために活かしたいと感じていることが、彼にとっては予想以上の喜びだったのだ。




そして、クレノースは少し顔を緩ませ、さらに付け加えた。




「そうだな……それと、君には近々忙しくなることがある。ウェディングドレス関連のことでな。」




その言葉に、サクレティアは一瞬目を見開いた。ウェディングドレス――それは、彼女にとって自分の立場が現実に近づいてきていることを実感させる言葉だった。




「ウェディングドレス……?」




「そうだ。君がこれから着るものだ。準備に少し時間がかかるが、忙しくなるぞ。」




クレノースは微笑んでそう告げると、サクレティアに向けて軽く手を振り、静かに部屋を後にした。




クレノースが部屋を出て行った後、サクレティアはふと侍女たちの視線に気づいた。彼女たちは、驚いたような顔をして何か話し合っていた。




「公爵様が、あんなに微笑むなんて……」




アリアが呟くように言うと、サクレティアは思わず反応した。




「え?何かおかしかったですか?」




サクレティアが尋ねると、侍女たちは一瞬戸惑ったように顔を見合わせ、ミレイが慎重に言葉を選びながら答えた。




「サクレティア様、実は……公爵様があんなに優しい表情をするなんて、私たちも初めて見たんです。公爵様は普段、ほとんど母親の前でしか微笑まれません。」




オクレアも頷きながら続けた。




「普段の公爵様は冷酷で、誰に対しても無表情なんです。まるで感情を持たない方のように……。」




サクレティアはその言葉に驚きを隠せなかった。彼女が見たクレノースの柔らかな微笑みが、彼にとってどれほど異例のものだったのかを知ったからだ。




「そんなに……冷たい人なんですか?」




ミレイは小さく頷いた。




「ええ、冷酷非道と言われるほどです。でも……サクレティア様の前では、確かに違うように見えました。」




その言葉に、サクレティアは複雑な気持ちを抱きつつも、クレノースの内面に隠された何かを感じ取り始めていた。

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