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2.公爵邸での新しい始まり

翌朝、馬車の中で揺られながら、サクレティアはぼんやりと昨日の出来事を思い返していた。個室で婚約の書類にサインさせられた瞬間、自分が誰と関わっているのかようやく理解した。クレノース――バレンティル公爵。その名を聞いて、彼女は驚きと同時に、まるで別の世界に引き込まれたような感覚に囚われた。




馬車の中、クレノースがふいに口を開いた。




「それで、君はやりたいことはないのか?」




サクレティアは一瞬戸惑い、何を答えたらよいのか迷った。長い間、自分の希望や願望を口にすることなどなかったからだ。




「やりたいこと……。のんびりと過ごしたいです。家庭菜園とかしながら……三食昼寝つき……あっ、申し訳ございません。」




慌てて口を押さえるサクレティアに、クレノースは微かに笑った。




「構わん。理想を聞かせてくれ。」




サクレティアは恥ずかしさを感じつつも、ゆっくりと言葉を紡いだ。




「私、幼い頃から今まで冷遇されて生きてきました。なので、安心して温かいご飯が食べられればな、と思ってしまいました。」




クレノースは黙って聞いていたが、やがて軽く頷いた。




「土いじりのできる、部屋に三食昼寝付きか。良いだろう。用意させよう。」




サクレティアは彼の言葉を聞いて、思わず目を丸くした。自分の些細な願望が、こんなにも簡単に受け入れられるとは思っていなかった。




「ほんとに……ほんとによろしいのですか?」


彼女は小さな声で震えるように尋ねた。




クレノースは隣に座ったまま、少しも表情を変えずに応えた。




「もちろんだ。割り当てた予算内なら、好きなものを買うといい。ドレスでも、宝石でも、何でも構わない。」




その言葉に、サクレティアの胸は不安と喜びが混ざり合い、複雑な感情で満たされた。彼女が生まれてからずっと、何かを自由に選ぶことなど一度も許されていなかった。ましてや、贅沢品を買うことなど夢のまた夢だった。だから、彼の提案が本当だとは思えないほどだった。




「ほ、ほんとうですか?」




サクレティアは恐る恐るもう一度確認するように問いかけた。クレノースは一瞬だけ彼女を見つめ、軽く頷いた。



「ああ、本当だ。ただし――」


彼の声が少し冷たく低くなる。



「覚えておけ。俺に近づきすぎるな。もし俺に恋愛感情を持つようなことがあれば、その瞬間、この婚約は終わりだ。結婚の準備には半年ほどかかるが、その間、俺の邪魔はするな。感情に振り回されることなく、必要な役目だけ果たせばいい。それが俺の妻としての唯一の条件だ。」



サクレティアは、クレノースの言葉に一瞬身を強張らせた。その冷徹な声はまるで鋭い刃のようだ。彼の口調には一片の感情もなく、まるで彼女を見ているのではなく、契約書の条項をただ読み上げているかのようだった。




だが――。




彼女の心の中にあったのは、長い間抑え込まれていた欲望だった。あの窮屈な家から出られる。それだけで彼の冷たい言葉もどうでもよく思えた。クレノースの条件など気にも留めない。やりたいことができて、三食昼寝つきの生活――それが叶うなら、他に何も望むことはない。




「ありがとうございます!」




サクレティアは勢いよくそう口にし、驚くほど素早く頭を下げた。クレノースはその反応に一瞬眉をひそめ、目を細めて彼女を見つめた。彼の冷静で計算された表情に、ほんのわずかだけ驚きが混じっていた。




《まさか、こんなにあっさりと受け入れるとは……。》




彼は心の中で少し戸惑いを感じたが、すぐに再び無表情に戻った。




「……いいだろう。」




クレノースは静かに答えると、視線を外に戻し、再び窓の外を見つめた。馬車はゆっくりと広大な彼の領地へ向かって進んでいた。




サクレティアがクレノースと共に公爵邸に到着すると、荘厳な建物が目の前に広がった。彼女はその豪華さに一瞬圧倒されたが、さらに驚くべき光景が彼女を待っていた。




玄関先で待っていたのはクレノースの母親だった。彼女はクレノースを見るや否や、走り寄り、その腕を絡ませると、両頬を両手で包み込み、深く、そして熱烈なキスを交わした。




サクレティアはその場に立ち尽くし、息を呑んだ。彼女はすぐに悟った。




《なるほど……カモフラージュの妻が必要だったわけね。》




母親はようやくクレノースから離れると、サクレティアに目を向け、不機嫌そうに尋ねた。




「クレノ、この令嬢が?」




クレノースは冷静に頷き、母親に向けて穏やかに答えた。




「はい、母上。彼女は条件を全てのんでくれました。」




その言葉に、母親は満足げな笑みを浮かべ、クレノースの腕に再び絡みつき、サクレティアに対してまるで「彼は私のものよ」と言わんばかりの態度を取った。彼女の冷たい目がサクレティアを見つめ、支配するように彼女に迫った。




サクレティアは内心で冷や汗を感じながら、何とかその場を取り繕おうと口を開いた。




「大丈夫です!弁えております!精一杯努めますので……侍女を一人雇ったとでも思って下さい!」




その言葉に、クレノースの母親は軽く眉を上げ、笑みを浮かべた。まるでサクレティアが自分の期待通りの反応をしたかのように満足そうな様子だった。




クレノースはなぜか焦りを感じ、彼女をこの場から早く遠ざけたくなった。視線を執事に向け、冷静な口調で命じる。




「部屋が完成するまで、彼女を賓客室へ案内してくれ。」




執事は一礼し、サクレティアに静かに歩み寄った。




「どうぞ、こちらへお進みくださいませ。」




サクレティアは、クレノースの急な指示に驚きを覚えながらも、執事の案内に従い、広々とした邸内を歩いていく。しばらくして、重厚な扉が開かれ、豪華で優雅な賓客室が目の前に広がった。大きな窓から差し込む柔らかな光が、部屋の装飾を一層輝かせていた。




「こちらでお過ごしください。部屋が完成するまでの間、必要なものがあればお申し付けください。」




サクレティアは、ふとした緊張感とともに部屋に足を踏み入れ、執事がさらに質問を投げかけた。




「他にお部屋の注文はございますか?」




サクレティアは一瞬考え込んだが、特に思いつくこともなく、首を軽く横に振った。




「特には……。」




執事は頷き、少し間を置いてから続けた。




「かしこまりました。それでは、暇つぶしにでもどうぞ。後ほどデザイナーを呼びますので、ドレスをお選びになったり、注文なさったりできます。さらに、カタログをお渡ししますので、ショッピングも楽しんでください。」




そう言うと、執事は封筒を差し出した。




「こちらは予算の一部です。どうぞご自由にお使いください。」




サクレティアは、渡された封筒を見つめながら、自分の手にあるものが何であるかを少しの間理解できなかった。これまで、自由に物を買うという経験をしたことがなかったからだ。しかし、ここでは違う――彼女が今いる世界は、これまでの生活とは全く異なっているのだ。




サクレティアは少し戸惑いながらも、封筒を受け取り、軽くお辞儀をした。




「ありがとうございます。」



《うわぁ~~凄い額。好きに使っちゃうお。》



執事は軽く微笑み、再び一礼して部屋を後にした。




サクレティアが賓客室で静かに過ごしていると、しばらくしてデザイナーが到着した。優雅に挨拶をしながら彼女を採寸し、次々と豪華なドレスを見せてきた。サクレティアは気に入った数着を選び、注文した。しかし、デザイナーと執事の反応は意外なものだった。




「少し数が少ないのでは……」


デザイナーは軽く眉をひそめた。




「そうですね、これでは足りないかもしれません。」


執事も同意し、二人の期待に満ちた目がサクレティアを見つめた。


《少ないって?ここでの普通の感覚が全くわからない…。》


その瞬間、サクレティアはピンときた。ここでは、もっと自由に創造できるのだ――自分のアイデアが尊重されるかもしれない、と。




「どうせなら、私がデザインしてもいいですか?」


サクレティアは思い切って提案した。




デザイナーは驚いた顔をしたが、すぐに興味深そうに微笑んだ。




「もちろんです!どのようなデザインをお考えですか?」




サクレティアは手元にある紙を取り、迷いなくペンを走らせた。彼女の頭の中には、かつての世界で見たことのある構造が次々と浮かんでくる。流れるようなライン、独特なシルエット、そして見たことも聞いたこともない素材の使い方を取り入れたドレス――それは、この世界のどんなドレスとも違っていた。




デザイナーはその図面を見て、目を輝かせた。




「素晴らしい!こんなデザインは今まで見たことがありません。ぜひ、さらにたくさんデザインをお願いできませんか?」




その言葉に、サクレティアは驚きつつも誇りを感じた。彼女が何気なく描いたデザインが、こんなにも評価されるとは思ってもいなかった。




「では、もう少しデザインしてみますね。」


サクレティアは微笑みながら、さらに紙にアイデアを描き出した。デザイナーは感心しながら彼女の手元を見守り、執事もまた満足そうに頷いていた。

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