16.戦場への命令と裏切られた希望
数日後、サクレティアのもとに王からの返事が届いた。彼女は手紙を開き、内容を読み進めるうちに、眉間に深い皺が寄った。王が立てたのは、クレノースの母親をクレノースと共に戦争に向かわせるというものだった。彼女は「戦の神」と称されるほどの戦闘能力を持つ強力な女性であり、戦に送り出すには十分な理由があった。
だが、王の本当の意図は別にあった。クレノースの母親は戦争に参加するには十分すぎる理由があるが、王の本当の目的は彼女の排除にある。そして、同時にサクレティアは、王がもうクレノースをも見放していることに気づいた。クレノースが母親と共にその運命を共にすることを王は予見し、その結果として、自らの血筋であるキースを守ろうとしているのだ。
《王はもうクレノースを救おうとはしていない……彼がこのまま母親と共に運命を共にすることを望んでいるんだわ。そして、王の本当の狙いはキース……私たちの息子を守るためだったのね。》
サクレティアは冷静に手紙を握りしめ、静かに立ち上がった。彼女の心の中で、クレノースとキースを守るためにはどうするべきかが、強く形作られていく。
《このままでは、クレノースを失ってしまう……どうにかしなければ。》
数日後、公爵邸の静寂を破るかのように、王宮からの伝令が到着した。馬のひづめが石畳を打つ音が響き渡り、王の急使が邸内に入り込んだ。立ち入りを厳しく制限されている四階に向かう途中、使用人たちは目を逸らし、敬礼もしない。ただ恐怖に怯え、何事もないことを願うかのように静かに身を引いた。
「止まれ、ここは立ち入り禁止だ!」執事バルドが声を荒げて伝令を制止しようとするが、伝令はその言葉に一切耳を貸さず、彼の前を素早く通り抜けた。王の命を背負っている彼は、それを成し遂げなければならなかった。
「これは王からの緊急命令だ。大奥様に届けなければならない!」
その言葉にバルドは青ざめたが、もう止める術はなかった。伝令は勢いよく四階へと向かい、クレノースと母親が閉じこもっている部屋の扉の前に立ち止まった。
中からは微かな囁き声や喘ぎが聞こえ、房事中であることは明らかだった。しかし、伝令は決意を固め、その扉を激しく叩いた。
「王宮からの伝令です!緊急の手紙をお届けに参りました!」
扉の向こう側で一瞬の静寂が訪れた後、重い音を立てて扉がゆっくりと開かれた。クレノースが衣服を乱したまま現れ、その後ろには母親が艶やかな姿で立っていた。彼の表情は疲労と虚ろさに満ち、母親は怒りに震えていた。
「何事だ?」クレノースが抑えきれない苛立ちを滲ませながら問いかけた。
「王宮からの急報です。両名にお読みいただくよう、直ちに命令が下されました。」伝令は怯むことなく、手紙を差し出した。クレノースは一瞬それを見つめたが、母親が鋭くそれを奪い取るように手を伸ばした。
彼女はその場で手紙の封を切り、素早く内容を読み上げ始めた。
「クレノース公爵、そして大奥様におかれましては、王命に従い、直ちに前線へ出兵されたい。近隣の諸国との緊張が高まり、貴公の指揮と、大奥様の卓越した戦闘能力が求められている……」
その言葉が響くと、母親の顔は一瞬歪み、激しい怒りと不安が入り混じった表情になった。しかし、彼女は素早くその感情を隠し、冷静さを装った。
「戦争……か。王が私に頼るのも当然だろう。」
クレノースは何も言わず、虚ろな瞳で手紙を見つめていた。だが、彼の中で何かがわずかに動き始めていた。長年母親の影響下で生きてきた彼は、その命令に従うしかないという思いと、サクレティアや息子キースへの想いの狭間で揺れていた。
母親はクレノースに目をやり、「すぐに出発の準備を整えなさい。王の命に逆らうことはできないわ」と冷たく命じた。彼は無言のまま頷き、ゆっくりと部屋を後にした。
一方、サクレティアは執務室で書類に目を通しながら、心の中で不安が募っていた。クレノースとその母親が戦場に向かうという知らせが届いてから、彼を救うための手段を模索しながらも、次々と押し寄せる日々の業務に追われ、思考がまとまらない。
その時、外で何やら騒がしい音が聞こえてきた。窓から覗くと、戦争の準備が急速に進んでいるのが見えた。兵士たちが馬車に物資を積み込み、邸内は慌ただしい雰囲気に包まれていた。
《どうにかしなければ……》サクレティアは焦りの表情を浮かべた。
だが、その瞬間、執務室の扉が勢いよく開かれた。驚いた彼女が顔を上げると、複数の男たちが無言で室内に踏み込んできた。彼らは顔を布で隠し、目に冷たい決意が宿っていた。
「何を……!」
サクレティアが声を上げる間もなく、男たちは彼女を取り囲み、力強く腕を掴んだ。彼女は抵抗しようとしたが、あっという間に身体を拘束され、声も出せないように口を塞がれた。
《ボーン伯爵家……!》
サクレティアは瞬時に察した。彼女を捕らえたのは、実家であるボーン伯爵家の手の者たちだった。かつての冷遇と搾取の日々が頭をよぎる。彼らは、サクレティアが今の地位と自由を手に入れたことを良しとせず、再び彼女を掌中に収めようとしているに違いない。
彼女は必死に逃げようとしたが、男たちはその動きを見逃さなかった。抵抗する力も次第に奪われ、あっという間に袋のような布を頭に被せられた。視界を奪われたサクレティアは、そのまま無理やり外へ連れ出されていった。
戦争準備で慌ただしい邸内の喧騒に紛れて、サクレティアは攫われ、誰にも気づかれることなく、馬車に乗せられた。道中、彼女の心は焦りと恐怖に包まれていたが、同時にどうにかしてこの状況を乗り越えなければならないと決意していた。
《クレノース……私はあなたを救うつもりだったのに……。》
馬車は勢いよく邸宅を離れ、どこか遠くへと消えていった。