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12.涙に滲む夜の薔薇

月明かりに照らされた庭園は静かで、青く輝く薔薇がその光に幻想的な美しさを放っていた。サクレティアは臨月で大きくなったお腹を優しく撫でながら、その光景を見つめていた。彼女の顔には満足そうな微笑が浮かんでいる。




「まったく、この世界に魔法が存在すること、すっかり忘れていたわ。」小さく呟いたその言葉は、夜の静寂に吸い込まれるように消えていった。




その時、背後からふいに腕が彼女を包み込んだ。温かいぬくもりに驚いたサクレティアは、思わず声を漏らした。




「えっ…。」




「サクレ…ティア…。」




「え?クレノース…様?」彼女は驚きながらも、その声の主が誰であるかをすぐに悟った。




「あぁ…。」


クレノースの低く静かな声が、彼女の耳元で響く。久しく聞いていなかったその声に、サクレティアは一瞬動揺した。




「監禁が解かれたのですか?」彼女はその疑問を素直に口にした。




「あぁ…。」クレノースは短く応じ、サクレティアを抱きしめたままじっと動かなかった。




「えっと…それは…おめでとうございます?」サクレティアは少し戸惑いながら言った。




クレノースは彼女の言葉には答えず、視線を青い薔薇に向けた。




「……この薔薇は君が?」




「はい。魔塔の方々に頼んで、特別に成長を助けてもらったんです。」サクレティアはさらりと答えた。




「魔塔が?…あれらの協力を得るのは王でも難しいのに?」クレノースは驚いた様子で問いかける。




「そんなの、私の知識があれば余裕です。」彼女は肩をすくめ、少し得意げに答えた。




クレノースは短く笑いを漏らし、その後真剣な表情に戻った。




「君が公爵家を支えてくれていたとバルドから聞いた。」




「ほんっとに大変だったんですからね!?」サクレティアは振り返り、少し憤慨したように声を張った。




「あぁ…。」クレノースの返事はいつもと変わらず短かったが、その声には感情が込められていた。




ふと、サクレティアはクレノースの様子に違和感を覚えた。彼の腕がわずかに震えていることに気づき、彼女は驚きながら問いかけた。




「クレノース様?泣いていらっしゃるのですか?」




彼の方を振り向くと、サクレティアは驚愕の表情を浮かべた。クレノースの綺麗な赤い瞳からは、静かに涙が流れ落ちていた。いつも冷静で感情を見せない彼が、今、目の前で涙を流している。その姿に、サクレティアは心を打たれた。




「好きだ……君を……心から……。」クレノースは静かに、だが明確に口を開いた。その言葉は、まるで彼自身をも驚かせたかのようだった。




「なに……を……?」サクレティアは信じられない思いで彼を見つめた。彼女の声は驚きと戸惑いで震えていた。




クレノースは自分の口元を押さえ、まるで信じられないことを口走ってしまったかのように目を見開いた。「すまない……」彼はその一言だけを絞り出した。




「いえ……」サクレティアは言葉に詰まりながらも、彼の姿をじっと見つめていた。彼の突然の告白に、どう返すべきかわからなかった。




クレノースは深く息をつき、再び彼女の方を見た。「まだ……しばらくやらなければならないことがあるんだ……。公爵家を頼む。」そう言い残し、彼は背を向けた。




「え!?ちょっと、クレノース様!」サクレティアは慌てて彼の背中に手を伸ばしたが、クレノースは振り向くことなく、そのまま屋敷の方へと足早に歩いていった。




彼の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、サクレティアは心の中で何かが大きく動いたことを感じた。彼の言葉、彼の涙……それらが、彼女の中に残した感情の波は、まだ整理できないまま、ただ彼の背中を追い続けていた。




――――――――


―――――




執務室の扉が静かに開き、執事のバルドが慎重に入室してきた。その姿勢にはいつも通りの丁寧さがあったが、表情には明らかに重く秘めたものが漂っていた。バルドはゆっくりと、低い声で報告を始めた。




「クレノース様……」その声には微かな躊躇が含まれていた。「監禁されてから間もなくのことですが、大奥様が……ご懐妊されたとの報告がありました。まさか……」




その言葉を耳にした瞬間、クレノースの瞳が鋭く光り、彼の手が机に強く打ち付けられた。振動が執務室全体に響き渡る。




「言うな……!」彼の声は低く抑えられていたが、その中には抑えがたい怒りと焦りが滲んでいた。クレノースは椅子から立ち上がり、バルドに一歩近づく。声は鋭く、冷徹だった。




「その言葉を二度と口にするな……!」




バルドは息を詰めたまま、直立したままクレノースの指示を待った。主の冷酷な命令にただ従うしかない、彼の視線が硬く凍る。




「全ての者に箝口令を敷け。この真実を知る者は、口外した瞬間に終わりだ……絶対に誰にも漏らすな。」クレノースの声は冷たく、しかしその裏には計り知れない恐怖が隠されていた。




母親との間に起きたこの出来事――それが外部に漏れることは、彼にとって何よりも恐ろしい。もしもこの秘密が世間に知られたなら、クレノースだけではなく、公爵家そのものが崩壊してしまうだろう。母親との関係が露呈すれば、彼の地位も名誉もすべて失われる。それだけは避けなければならなかった。




バルドはクレノースの命令を聞き、すぐに深く頭を下げた。「承知いたしました。全て隠密に進めさせていただきます。」




クレノースは深い呼吸をしながら、苦しみを必死に押し殺した。母親が懐妊したという報告は、彼の胸に重くのしかかる現実だった。だが、この事実が外に漏れることは許されない。彼はなんとしても、この秘密を守り抜かなければならない。




「覚えておけ、バルド。これは……ただ俺に弟ができたということだ。それ以外のことは誰にも言わせるな。」




クレノースはその場で全てを飲み込み、表情に一切の感情を浮かべることなく、冷たく命令を下した。その冷ややかな言葉の背後には、彼が抱える苦しみと秘密が重く隠されていたのだが、彼はそれを永遠に自らの胸に閉じ込めておくしかなかった。




ふと、クレノースは目をやった窓の外に、月明かりに照らされる庭園が広がっているのに気づいた。青い薔薇の花々が、まるで彼の心を映すかのように、静かに光を受けて美しく輝いていた。その光景はあまりにも幻想的で、息を呑むほど美しい。しかし、彼の胸の奥では、その美しさがかえって痛々しい感情を呼び起こしていた。




《どうして……》




彼は心の中で自問した。自分が選んできた道、自分が守ってきたもの、そして封じ込めてきた真実――そのすべてが、この青い薔薇のように脆く、儚いものに感じられた。薔薇の輝きはあまりに美しく、同時に手の届かないもののように思えた。




《俺は……本当にこの道を選び続けるのか?》




クレノースの胸の奥にわずかな疑念が芽生えた。しかし、その感情を追い払うかのように、彼は再び冷静さを取り戻し、庭園を見つめたまま、静かに瞼を閉じた。

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