1.赤い瞳の公爵とエメラルドの涙
静寂な書斎の中、重厚な扉が軽やかな音を立てて開かれた。執事のアルバートが恭しく一歩を踏み出し、銀の盆に乗せられた一通の手紙を携えている。その封蝋には、見慣れた王家の紋章が刻まれていた。
「バレンティル公爵様、王宮からの書状をお持ちしました。」
クレノース・バレンティルは、目の前に差し出された手紙を無言で受け取る。黒く艶のある短髪が彼の端整な顔立ちを引き立て、鮮烈な赤い瞳が鋭く光る。その整った容姿は、冷酷さと共に人々を圧倒する威厳を醸し出していた。
冷えた手が封を切る瞬間、僅かな緊張が彼の背筋を走った。王宮からの知らせは常に重大な意味を持っている――それが良い知らせであれ、悪い知らせであれ。
クレノースは手紙を静かに開いた。中には、国王直筆の冷徹かつ思いやりのある文面が並んでいた。
「バレンティル公爵よ、そなたももう然るべき年齢に達している。そろそろ公爵家の名にふさわしい令嬢との婚姻を考えねばならぬ時が来た。これ以上、世間の噂を放置することは、我が国の秩序にとっても危険である。母上への思いは重々承知しているが、立場ある者としての責務を果たす時が来たのだ。」
クレノースの赤い瞳は手紙から離れ、母親の面影が浮かんだ。彼女の優しい微笑み、その言葉、その香り。すべてが彼の心を支配していた。手紙の文言はどこか遠い国の出来事のように思えた。
《母上を離れるなど、考えられない……》
しかし、王の言葉には重みがあった。公爵家の立場、そして国の未来を背負う自覚が彼の胸に小さな棘のように突き刺さる。だが、それでも母への陶酔から逃れられない。
手紙を何度も読み返した後、クレノースは深く息を吸い、手紙をそっと机の上に置いた。
「これは……好機だ。」
彼は独り言をつぶやき、赤い瞳を冷たく澄んだ視線で遠くを見つめる。母親への強い思いは揺らぐことはない。それでも、王の言葉は彼に一つの計画を思い浮かばせた。世間の噂、母への異常な依存――すべてが問題になっているのは理解していた。
《表向きの婚姻関係を結ぶことで、母上との関係を覆い隠せる》
彼の唇が僅かに歪んだ。母親のために動くことが、自分の利益にもなるという冷徹な判断。今の彼には、母親を捨てる気など微塵もない。ただ、そのための仮面を用意するだけだ。
「令嬢を探すか……。」
彼は決意を固めた。愛情など不要。求めるのは、ただ母親との関係を覆い隠し、世間を欺くためのパートナー。それ以上のものではなかった。
―――――――
――――
サクレティアは、手元の粗末な紙に図面を書き続けていた。古びたペンが擦れる音が、薄暗い部屋の中に虚しく響く。つぎはぎだらけのボロドレスは、彼女の身体にまとわりつくように冷たく重く感じられる。伯爵家の養女とは名ばかりで、その扱いは侍女以下。毎日、図面を描き、元いた世界の知識を搾り取られている。
茶色のウェーブがかった髪は彼女の肩に無造作に垂れ、光を失ったようなエメラルドの瞳は、心の中で希望を閉じ込められたかのように暗く沈んでいた。
―物語の主人公のように、元気でエネルギーに満ち溢れて、やりたいことをやって、言いたいことを言えるような、そんな主人公になってみたかった。―
彼女の心は遠く、夢見がちな世界へと逃げていた。せっかくの転生も、自由もなかった。どんなに抗おうとしても、父親の冷たい眼差しと厳しい言葉が、彼女の行動を封じ込める。
《家を出ることも、お父様に逆らうこともできない……》
幼少期から続く体罰の記憶が、彼女の心を凍りつかせた。伯爵の命令に従わなければ、何が待っているのかは既に身に染みて理解している。希望が見えない日々の中で、彼女はただ、図面を書き続けた。
伯爵邸の静けさを破るように、怒鳴り声が廊下に響いた。
「なんだと!?王め!!養女まで招待するとは!!」
伯爵の荒々しい声がサクレティアの耳に突き刺さる。彼女は机の上の図面を見つめながら、心の奥で冷たい恐怖が広がっていくのを感じた。王からの命令に従わないわけにはいかない――病欠にすらチェックが入るという厳しい内容。伯爵の怒りはすでに頂点に達していた。
足音が近づくと、伯爵は古びたシミだらけのドレスを彼女の前に投げつけた。汚れたドレスが床に落ち、埃を舞い上がらせる。
「これを着て、舞踏会に行け。数か月後だ。」
サクレティアはドレスを見下ろしながら、心の中で深くため息をついた。捨てられたようなボロドレス――まるで彼女自身の境遇を象徴するかのように、哀れで惨めだった。
―私は物語の主人公にはなれない……ただ、このまま操り人形として生き続けるだけなのかな。―
――――――
――――
月日はあっという間に過ぎ、王宮の舞踏会の日がやってきた。
馬車の中、サクレティアはベルリネッタと向かい合っていたが、心は深く沈んでいた。ベルリネッタは豪華なドレスを身にまとい、麗しい姿だったが、その口元には冷たい笑みが浮かんでいた。
「ちょっと、匂いがうつるわ。どうしてこんな平民と同じ馬車に乗らなきゃいけないのよ。」
ベルリネッタは苛立ちを隠すことなく、サクレティアに向けて足を振り下ろした。つぎはぎだらけのボロドレスに包まれた彼女の体は縮こまり、痛みに耐えながらひたすら謝り続けた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
馬車が石畳を叩く音と共に、王宮の壮大な舞踏会会場が徐々に見えてくる。華やかな光が窓の外から差し込み、サクレティアは自分がその眩い世界に立つ資格などないと感じた。それでも、王の命令により、彼女もその場に立つことを余儀なくされていた。
王宮の華やかな舞踏会会場に足を踏み入れると、サクレティアの周りを豪奢なドレスに身を包んだ貴族たちが取り囲んでいた。自分がまるで異物であるかのような感覚に押しつぶされそうになる中、ベルリネッタが冷笑を浮かべて彼女に近づいた。
ベルリネッタはウェイターのオボンからワインのグラスをひっつかみ、サクレティアのドレスに豪快にかけた。赤い液体がボロボロのドレスを染め、サクレティアはその場に立ち尽くした。
「少しはマシな匂いになったのではなくて?」
周囲から感じる視線、そして笑い声。彼女の頬は熱くなり、恥ずかしさに耐えきれず、その場を逃げ出した。
テラスに辿り着いたサクレティアは、震える手で顔を覆い、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。外の冷たい風が肌を刺し、彼女の心を少しだけ落ち着かせた。
その様子を遠くから見ていたクレノースは、ゆっくりと歩み寄る。彼の唇には微かな笑みが浮かんでいた。
《この令嬢だ……》
彼は心の中で考えた。冷遇され、周囲から蔑まれている彼女なら、従順に自分の計画に従うだろう。母親との関係をカモフラージュするための理想的な存在――その可能性が、彼を動かした。
「こんなところで隠れていては、ますます噂になるだけだぞ。」
彼の冷静な声がサクレティアの耳に届く。彼女は驚いて顔を上げたが、そこには冷ややかで計算高い表情のクレノースが立っていた。
「どこにいても一緒です……。」
サクレティアは呟いた。目の前に広がる美しい夜景も、彼女には何の意味も持たなかった。ずっと続く痛みと屈辱の中で、未来を思い描くことなどできなかった。
クレノースは彼女の言葉を聞き、少しだけ眉を動かした。
「その環境から救ってあげようか?」
彼の冷たい声が、まるで風のように彼女の耳元でささやいた。サクレティアは驚いて彼を見つめたが、そこには計算された表情のクレノースが立っていた。
「私の婚約者になれ。そうすれば、あの家から逃れられる。私の屋敷で好きなことをしていい。だが、その代わりに――お飾りの妻になってもらう。」
彼の提案は冷静でありながら、どこか甘美な響きを持っていた。サクレティアの心は揺れ動いた。家から出たい、自由になりたい……その思いが彼女の中で急速に膨らんでいく。
彼女の目が徐々に輝きを帯びていく。長い間閉ざされていた扉が、今ようやく少しだけ開かれたかのようだった。
《あの家を出られるなら……》
心の中で何度もそう呟き、彼女は小さく頷いた。クレノースの提案に応じることで、苦痛の日々から抜け出す道が開ける――その可能性に、彼女は一歩踏み出す決意を固めた。
「よしきた。」
クレノースは満足げに呟くと、サクレティアをいきなり抱き上げた。彼女は驚きのあまり声を出すこともできず、彼の腕の中でただ固まっていた。周囲の視線をまるで気にすることなく、クレノースは堂々と舞踏会会場を抜け、王宮にとってある個室へと向かっていく。
「一晩ここで過ごしてから屋敷に移る。王も満足してくれるはずだ。」
クレノースの声は冷静そのものだったが、サクレティアは何が起きているのか理解できず、ただ彼の言葉を聞き流していた。自分が一体どうなっているのか、夢を見ているかのようだった。
クレノースはそのまま書類を取り出し、テーブルに向かって書き始めた。婚約の手続きをさっさと進めるつもりだ。彼のペンが滑らかに走る音が部屋に響く。
「お前の名前は?」
唐突に名前を尋ねられ、サクレティアは一瞬戸惑ったが、弱々しく答えた。
「……サクレティアです。ボーン伯爵家の…養女です。」
クレノースはその名を聞くと、小さく頷き、書類にその名前を書き加えた。全てが彼の思惑通りに進んでいるかのようだった。