道士
半裸のままの天翔は、碧海と共に火鉢を囲み、今後の行軍方針などを打ち合わせた。
話の途中、不意に扉の外から声がかかった。天翔へ目通りを求める者がいる、とのことだった。伝言の下男を待たせ、碧海は手早く天翔へ服を着せた。最後に黒頭巾を被せ、二人並んで部屋を出た。
訪問者は厩舎にいる、とのことだった。先だって城市へ入った部隊の長に会いたい、用件は来ればわかる、と主張しているらしい。呼びつけるとは無礼なことだと思ったが、商いに来た馬商人かもしれないと、二人は翠柳城内の厩舎へ向かった。馬不足で困っている天翔たちに高く売りつけるつもりだとしても、交渉の余地があるなら話は聞いておきたい。
だが、厩舎で目にしたものに、天翔は思わず声を上げた。
「……これは!」
見間違えようのない馬であった。愛用の鞍、鐙、その他の装備もそのままに纏った、天翔の愛馬が静かに立っていた。
他に居並ぶ馬たちも皆、馬具に鴻郡のしるし――すなわち天翔の軍に属する証を着けている。蛟龍の襲撃時に逃げ去った馬たちであった。
「この子たち、探してたでしょう?」
馬の先頭に、ひとりの少年がいた。
いでたちは生成色の道服であった。だが生地の質は悪く、裾には擦れや汚れも目立つ。物乞いだと言われれば納得してしまいそうな、粗末な服だ。
それゆえに、容貌との不釣り合いがひどい。
道帽は、服同様にくたびれている。だがすぐ下にあるのは、鼻筋の通った涼やかな顔立ちだ。顔の左半分は黒髪で隠れているが、残る右半分は、大きな丸い目も薄く微笑んだ口元も、名状しがたい高貴な気風を漂わせている。まとうのは襤褸ばかりであるのに、なぜこの気品を醸し出せるのか。人品とは不思議なものだと、天翔は感じた。
ともあれ。不思議な風格をまとった少年は、馬の背を撫でながら語りかけてきた。
「かわいそうに、みんな怯えて興奮してたからさ。落ち着かせて城壁の中へ匿った。はぐれた子はいないはずだ……それにしても災難だね。人の勝手な都合で、龍に追いかけられることになるなんてさ」
やはりただの少年ではないらしい、と天翔は感じた。話す内容が真実であれば、馬を扱う才はもちろん大変なものだ。だが一部または全部が誇張であったとしても、馬たちの持ち主を素早く特定し接触を図った、情報収集能力と交渉能力は大したものだ。
「君は……いや、貴殿は、なんとお呼びすれば」
天翔は、一礼し問いかけた。道服の少年は皮肉っぽく笑い、拱手して一礼した。
「白虹居士、と呼んでくれればいい。ただの旅の道士だよ」
「では白虹殿。我らの馬をお守りくださったこと、感謝いたします。我らは都へ向けた旅の途中です。お返しいただければ、その御恩は日照りに降る慈雨のように――」
「ただでは返さないよ?」
「無論、謝礼はご用意いたします。我らに出せる物なら、なんでも」
白虹の顔に、皮肉の色が強まった。
「ふうん。なんでも、ね」
「旅先ですので、銭や食糧の在庫は限られますが。不足は後日鴻郡まで――」
「いや、そういうのはいい。僕の望みは別にある」
では何を、と口にしかけた天翔に向けて、白虹は薄笑いを浮かべた。
「大哥の顔、見せてくれないかな。間近でじっくり、余すところなく確かめたいんだ」
場の空気が凍る。
傍らの碧海が、佩剣に手をかけるのが見えた。
「白虹とおっしゃいましたか……あなた、何を考えておいでですか」
碧海の鋭い声が飛ぶ。
「言葉の通りだよ。その邪魔な頭巾を取って、顔をよく見せてほしいってだけさ。財貨の類は別にいらない。ただで馬を返そうっていうんだ、あなたたちにとっても悪い話じゃないでしょう?」
「見てどうしようと? 太守の――我が主の顔を確かめて、あなたに何の益があるのですか」
「他人の事情を詮索するなんて、嫌な人だね。君たち、嫌な人にはついていきたくないよね?」
白虹は、傍らの馬のたてがみをこれ見よがしに撫でた。馬は穏やかに尾を振り、されるがままになっている。
この若者が、馬を操る非凡な才を持っているのか、それとも何らかの術を使っているのかはわからない。だが、彼は馬たちの心を掴み、確かに従えているように見える。
天翔は覚悟を決めた。呪わしい姿といえど、晒して直ちに害となるものでもない。対価としては、ごく安いものだ。
「わかった。好きなだけ見るといい」
「太守!」
碧海に官職の名で呼ばれると、今は外にいるのだと実感する。だが、彼もそれ以上止めてはこない。
口元を覆う黒布を外した。次いで頭巾に手をかけ、一息に取る。
「へえ」
白虹が感嘆を漏らす。
いまや天翔は、己が容貌をすっかり白日の下へ晒していた。白雪を紡いだような銀髪が、陽光を受けて静かに輝いている。薄明の中で幻想的な美を見せる銀髪碧眼は、昼の日の下では神々しいまでの光輝を湛えていた。
白虹が寄ってきた。小柄な若者が、頭一つ分低い位置から見上げてくる。丸い目でじろじろと注視し、後ろへ回ってしばらく立ち止まり、再び正面に回って見上げる。どこか楽しげに微笑みながら、白虹は天翔の頬へ手を伸ばした。
「待て」
碧海の鋭い声が飛ぶ。手が、佩剣の柄にかかっている。
「あなたの要求は『見る』だけでしたよ。『触れる』のは対価の外です」
「じゃあ今から『触れる』も追加で」
こともなげに言ってのけ、白虹は天翔の頬に触れてきた。わずかにひんやりした、しかし不思議と冷たい印象のない、固い掌だった。
ゆっくりと、頬を撫で回された。次いで顎を、額を。流れに沿うようにして、髪を。形を確かめるように、白い掌が通っていく。
白虹は、最後にひとつ大きく頷いた。
「ものすごい『金』の相だね。思った通り」
「間違いありません。……それを確かめて、どうなさろうと」
顔の造作については何も言われず、天翔はわずかに安堵した。だが別の不穏も感じる。
金。世を動かす五行の一つであり、鉄や銅などの金属として表れるものだ。象徴色は白。天翔の、肌も髪も白い異相が「金」に属することは、見る者が見れば一目瞭然だ。
碧海が隠すべしと判断しているのも、公にはその理由による。
「言うまでもなく『金』は、『木』徳の帝室にとって凶。亡国の凶相を確かめて、いかがなさるおつもりか」
いくぶんの鋭さをこめて、天翔は問うた。
五行は相剋する。つまり、ひとつの徳は別の徳に勝ち、相手を衰えさせる。木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、「金は木に勝つ」。だから「木」を滅ぼす「金」は、今の帝室にとって凶なのだ。
「吉も凶も、ないと思うけどね。金も木も、なくてはならない世の一部だよ」
「ですが、この姿が亡国の相であることは間違いありません。我が父は、その容色によって国を傾け――」
天翔はわずかにためらいながら、言葉を続けた。
「――私はその姿を継ぎました。かつての父を知る者は皆、言います。この姿は父に生き写しであると」
「ふーん?」
白虹は、天翔の頬から手を離すと、わずかに首を傾げた。
「大哥は、『血』から逃れたいの?」
「私は悪人の子です。だから……善いことをして償わねばならないのです」
「ふーん? 心がけとしては立派だけど……それで『血』をなかったことにできると、本気で思ってる?」
天翔が黙り込むと、白虹はいやに朗らかに笑った。
「じゃあ手始めに一つ、『善いこと』してみない?」
白虹は不意に一歩下がり、天翔へ向けて深々と一礼した。
「大哥。よければ僕のお仕事、手伝ってくれないかな? ちょっとした人助け。街の人たちも、大哥のお仲間さんも助かる、とっても素敵なお仕事だよ」
「な!」
傍らで、碧海が気色ばむ。
「我々は重大な任を帯びています。怪しげな道士風情へ手を貸す暇などありません」
「馬は必要だよね? ちょっとしたお手伝いの謝礼としては、悪くないと思うけどなあ」
「馬だけを引き渡し、さっさとお引き取りください」
「いいのかなあ、そんなこと言って」
白虹は意味ありげに顔を上げた。視線の先、都へ続く空には、厚い黒雲が渦を巻いている。
「蛟龍はまだ近くにいるよ。今のあの子は、目につくものを片っ端から襲ってる……千人もいたら、あの子に見つからず街道を通り抜けるなんて、まず無理だと思うけどなあ。だからお手伝い頼んでるんだけどね」
「白虹殿。手伝う仕事とは、もしや蛟龍退治でしょうか?」
天翔が問えば、白虹は首を大きく横に振った。
「退治なんてしないよ。すべてをあるべき形へ戻すだけだ。人は人の行くべきところへ、龍は龍の棲むべきところへ」
白虹は屈託ない笑みを浮かべた。いまだ冠礼にも至らぬ少年らしい、邪気のない笑みであった。
「僕は、すべてを穏便に済ませたいだけだよ……急いでるんでしょ、大哥?」
天翔の心臓が、ひとつ跳ねた。
急ぎの行軍であることは、隠してはいないが広く知らせてもいない。知っているのはせいぜい、県令と周りの者くらいだろう。天翔たちに関する情報を、彼はどこで得ているのか。
ちらりと碧海の様子を窺う。日頃涼やかな容貌が、苦々しく歪んでいた。眉間に皺がより、白虹を見る視線は敵意に満ちている。だが、追い払おうとする様子もない。
「それでは、お願いしてもよろしいですかな。あの龍を、我らの進む道から退けていただきたく」
白虹は大きく頷いた後、拱手して一礼した。
背後で天翔の馬が、一声高く嘶いた。