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天翔翼臣伝 美貌の白き貴公子は比翼の友と天を翔ける  作者: 五色ひいらぎ
終章 香樹

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天命

 一ヶ月が経った。

 昼下がりの日の下で、白虹居士はうたた寝していた。古廟の柱に寄りかかり、うららかな陽気の下でまどろむ時間は、何物にも代えがたい宝だ――などと夢心地に思っていると、不意に肩を小突かれた。


「何をしているのです、修復責任者殿」


 険しい表情の碧海が立っていた。


「碧海さん、お昼にお仕事しなくていいの?」

「現場の視察も仕事のうちですからね。そういう自分はどうなのです、古廟修復の進捗はいかがですか」


 詰め寄られ、白虹居士は頭を掻く。


「ちゃんとやってるよ。今はちょっと休憩してただけ」

「見に来るたびに休憩している気がしますけどね。作業は進んでいるのですか」

「進めてるよ。今は都合で止まってるけど」

「都合とはあなたの眠気ですか?」

「ちょーっと、龍脈の具合がね」


 白虹居士は、ちらちらと都の四方を見遣った。


「龍脈に、いま触るとまずいんだよ。落ち着くまでちょっと待ってて」

「……本当かどうか、怪しいところですが」


 これ見よがしの溜息を、碧海はついた。


「いいですか、これは新たな衛尉(えいい)殿から直々の任務なのですよ。何かあれば衛尉殿の立場が悪くなります。あなたの好きな『大哥(おにーさん)』に、迷惑がかかることになります」


 今回の活躍により、天翔は衛尉――すなわち宮城(きゅうじょう)警護の役職を得ていた。動乱で荒れた都の再建にも、一部携わっている。働き次第で、さらなる昇進が望める地位にいた。

 実のところ、功績の第一位とされた天翔には、より高い位も当初は提示されていた。幼い帝は、宰相になれとさえ言い張ったという。だが本人が固辞したため、今のところ衛尉に落ち着いている。理由のひとつは、若輩の身で明傑を超す位に就きたくないという遠慮だったようだが、もうひとつは例の酸辣湯(サンラータン)だった。


 ――(スープ)のおかげで宰相になったなどと、影口を叩かれたくはありませんので。


 天翔は帝にそう伝えたらしい。

 白虹としては、もしも己の料理が彼の出世を妨げたのなら、とても不本意ではある。だが天翔なら、そう遠くない将来、自分の力で宰相の座をも得るだろう――そう、信じてもいる。

 ともあれ。


「あーあー、わかったよ。働けばいいんでしょ。働くことがなくても、働けばいいんでしょ」

「なんでもいいですが、納期と態度だけはおろそかになさらぬよう。責任者が寝ているところなど晒しては、民に示しがつきません」


 それだけを言い捨てて、碧海は去っていった。

 溜息と共に首を振り、白虹は古廟の中へと向かった。中での作業ができない理由は、それなりにあった。だが、他に居場所もなさそうであった。



 ◆



 張り替えたばかりの、木の香りが残る床をめくり、白虹は地下へと歩を進めた。

 かつて「土」の帝によって、龍脈の中心に作られた地下空洞。怨霊たちの影響がなくなった今は、澄みとおった強い霊力が濃く漂っている。静かに満ちる大地の力の中心に、白く輝く何物かがいた。


「……何か用か」


 白い存在が声を発した。

 龍のごとき頭、身体を覆う白い鱗。頭上に伸びた一本の角。豊かな白い尾――白の麒麟であった。厲鬼(れいき)たちとの戦いで消耗した霊力を、麒麟はここで静かに癒していた。


「特に用事はないんだけど。そっちの調子はどう?」

「力はほぼ回復した。そろそろ寝床へ戻っても問題あるまい」

「そう。それにしても……ごめんね。人間の都合で、罪のない獣に迷惑ばかりかけて」

「終わったことを気に病むな、『土』の王よ。ところで『金』の王はどうしている」


 少し考え、白虹は答えた。


「天翔大哥(おにーさん)は元気だよ。でもそれも、麒麟があのひとを……明傑さんを助けてくれたから。ほんと、何から何までお世話になっちゃって」

「目の前での殺生など、見たくなかったからな。悪霊どもが滅びた後、かの者の魂が人の身を離れる前に、少々働きかけてはやれた……が、力が足りず、魂を繋ぎ止めるのが精一杯だった。本来ならば、身体の傷も癒してやりたかった」

「十分すぎるよ。ありがとう」

「それにしても、『土』の王よ。なぜ、おまえが『金』の王などに手を貸している」


 白虹は、わずかに目を伏せた。


「僕は、なにもかもを穏便に済ませたいだけだよ。『木』を恨んでいないと言えば、嘘になるけど……でも、新たな恨みは、できれば生みたくない」


 隠された左目が――消えぬ痣を刻まれた左半分の顔が、疼く。

 目を閉じれば浮かんでくる。炎上する都。殺戮される人々。突き付けられた刃。もう二百年も経つというのに……なにもかも、つい昨日のことのように、目に焼き付いたままだ。

 恐ろしい兵士たちに囲まれ、読み上げさせられた文書の内容も、一言一句思い出せる。思い出せてしまう。罪深く徳のない皇帝は、今ここに、徳ある者へと位を譲る――なんて、子供だから意味が分からないとでも、あいつらは思っていたんだろうか。

 この怒りと悔しさは永遠に続くだろう。けれど、だからこそ、新たな悲しみを生み出したくもない。


「あの小さな皇帝陛下にも、できれば天寿を全うしてほしいしね。憎い『木』の王だとしても、罪もない幼子を辛い目には遭わせたくないよ」


 一ヶ月前の騒動を、白虹は思い出す。

 あの時、厲鬼に憑かれた明傑によって、天子は宮中に軟禁されていた。国の頂点に立っているはずの幼子には、まともな食事さえ出されていない様子だった。

 自陣に迎え入れられた後、天子は、白虹の酸辣湯(サンラータン)を大喜びで飲み干してくれた。もっと食べたい、と丸い目に涙を浮かべ、袖をしきりに引いてきた。また作ってあげるよ、と言った瞬間の天子の表情を、白虹は忘れられないでいる。

 溜まっていた涙をこぼしながら、花が咲いたように天子は笑った。飾り気ない野の花のような、無邪気で素朴な笑顔だった。

 あんな顔をして、自分の料理を楽しみにしてくれる子供。そんな子の不幸なんて、どうして願えるだろうか。

 酸辣湯の調理法は、宮中の料理人に伝えてある。けれどいつかまた、自分でも作ってあげたいと白虹は思う。


「僕は願っているだけだ。いずれ書かれる『金』の帝紀が、その翼臣たちの列伝が、なるべく穏やかな内容になるように。難しいのかもしれないけれどね――」


 青き「木」の命脈は尽きかけている。できるかぎり穏便に、次代――白き「金」に、天下を引き渡さねばならない。

 だから力を尽くすのだ。「金」の王が皇帝の冠を被り、五行が正しいありかたに戻るまで。


「まあ励むがよい、人の子よ。我はそろそろ眠る。『金』の王の側に、恰好の寝床を得たのでな……王の往く道と固く結びつき、決して分かたれぬもうひとつの道。あそこにさえいれば、王を見失うこともない」


 白き麒麟の姿が薄れ、空中に消えていく。洞穴には、黄色の岩壁と天井からの陽光以外に何もなくなった。

 地上に戻れば、また碧海が来ていた。眉根を寄せた顔から、予想通り小言が飛んでくる。


「姿が見えないと思ったら、地下でしたか。見えないところで、また寝て――」


 そこで不意に、碧海は大きなあくびをした。笑いかけた白虹は、ふと異なる気配に気づいた。さきほどまで地下にいた神聖な獣の霊気を、なぜか、目の前の軍師殿が色濃くまとっている。

 なるほどね、と、白虹は納得した。ずっと近くにいるとは感じていた。だのに姿は見えなかった。なぜなのか不思議だったけれど、ここに隠れていたんだね。


「ねえ碧海さん。最近体調に変化はない?」


 試しに訊ねてみると、碧海は首を傾げた。


厲鬼(れいき)が抜けて以降、特に変わったことはありませんが。むしろ驚くほど健康です。夜はぐっすり眠れていますし、仕事もすこぶる捗っていますよ」


 まあそうだよね。聖獣が憑いてるんだ、これ以上の健康法は世の中にないだろう。


「私の体調の前に、あなたの進捗の心配をしてくださいね。遅れは許しませ――」


 言いかけ、再び碧海は大きなあくびをした。緩んだ表情に、うたた寝する白き麒麟の姿が重なって見えた。


「碧海さん、ほんとにちゃんと寝られてる? 安眠の薬湯、よかったら処方しようか?」

「結構です」


 他愛ない言葉に混じり、麒麟の声が聞こえる。


 ――我はここで「金」の王を見守っていよう。人の子の命が尽きるまで、王の翼に宿りながら、な。


 思わず微笑みが漏れる。獣に迷惑をかけるのは本意ではないけれど、大哥(おにーさん)も、その「翼」も、できれば平穏に天寿をまっとうしてほしい。

 頼んだよ、白の麒麟――

 笑う白虹へ向けて、碧海がぶつぶつと何かを呟き始める。今度の小言も、長くなりそうだった。



【天翔翼臣伝 美貌の白き貴公子は比翼の友と天を翔ける ・了】

以上にて、本作はいったんの完結となります。

ここまでお読みくださりありがとうございました!


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