タイムスリップ
もううんざりだ!
とある場末の酒場で、男は今にも気が狂いそうだった。原因は連れ添って20年ほどになる妻だ。
「私、一生あなたに付いていくわ!」
なんて、目を輝かせていたあの頃のお前はもういない……。
男が気の弱いことを良いことに、あれやこれやと家事を押しつけ、自分はぐうたら寝転んでいる。逆らおうものなら鉄拳が飛んでくる。
俺だってこれでも、昔は男らしかったんだ。あいつに告白した晩も。酔った暴漢から彼女を守ったのだ。一撃の下にそいつを殴り倒した俺に、彼女はメロメロだったはずだ。
「くそ!」
あの頃の、浮かれていた自分に説教してやりたい。そして殴り飛ばしてやる。目を覚まさせるんだ。
酔いの回った男の思考は危ない方向へ進んでいく。まあ、妻に逆らう勇気が無いから、できもしないことを妄想して、憂さを晴らしているだけなのだが……。
その時、男に声をかけるものが現れた。
「随分ご立腹のようですね」
「ん?」
それは隣の客だった。真っ黒なスーツに、黒い口ひげが印象的だった。
「あなたの現在を変えて差し上げましょう」
胡散臭い奴だと思った。普段なら相手にはしないだろうが、酔った男は気が緩んでいた。
「へえ、それは嬉しいね。どうやったらそんなことができるんだい」
しかし黒ひげはその質問には答えなかった。
「実は私は悪魔なのです」
「は?」
「今から5分間だけ、あなたを過去に送りましょう。そこで過去を変えるのです。そうすれば未来、つまりこの現在も変わる」
「はは、そりゃいいや。で、いつに戻れるんだい――」
男はその言葉を信じなかった。だが不自然に言葉を切ったのは、いきなり目の前の景色が変わったからだ。
「え……」
酒場は消え失せ、いきなり賑やかな街路に立っていた。イルミネーションが眩しい。
一体どういうことだ。男は混乱した。しかし、どうもこの光景には見覚えがある。ずっと昔に歩いた道のような気がする。
すると、前から近付いてきたある女を見て、男は飛び上がらんばかりに驚いた。それは若かりし頃の妻だったのだ。隣に並んでいるのは他ならぬ彼自身だった。
そうか。俺は本当に過去に来たのだ。同時に、スーツの男の言葉が甦る。過去を変えれば、今も変わる!
男は二人に向けてずんずん歩き出した。言ってやる。その女だけは止めておけ。十年後にはひどく後悔することになる。いや――男は腹を立てていた。殴って、目を覚まさせてやる。一直線に昔の自分へと躍りかかった。
「うおおお!」
「誰だてめえ」
男は見事に返り討ちに遭い、過去の自分自身の拳の一振りによって地に這いつくばった。意識が再び酒場へと戻るのを感じながら、男は若々しい女の声をはっきりと耳にした。
「私、一生あなたに付いていくわ!」
変わるのは、男性の方も同じ、という話。