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電車の中 (探偵稼業11話より)



帰りの電車に揺られていた。

空いている席もちらほらと見えるが、そこには座らずドアの近くに立って外を眺めていた。


2月の冷たい空は、まだ5時過ぎだというのに日が沈み真っ暗であるが、いくら空を見渡しても何処にも月は見当たらない。別に月など見たくはなかったが、何故だか少しだけ不安な気持ちになり、落ち着かなかった。

車内を反射した窓に映っている自分の姿は輪郭がぼやけ、いつもより少し、ましなように見えた。そう感じた時、不意におかしな感情が湧き上がり少し笑いそうになったが、しかし、それは愉快な気分とは全然違かった。


混んでもいないが、空いてもいない。

車内で揺られている誰もが、何故か浮かない顔をしているように見える。

中刷り広告には興味のない話題ばかりが並んでいたが、反対側のドアの右側にあるポスターには、誰だかはわからないがタイプの女性が写っており、こちらに向かって微笑みかけていた。

私はそれを見て少し安心し、さすがに笑いそうにこそならなかったものの、今度こそ本当に愉快な気分になった。愉快な気分になったがしかし、その気持ちも10秒と持たずに、また、2月の冷たい空に相応しい気分へと急速に、ごくごく自然に戻っていった。

私はまた視線を窓の外に移したが、やはり、先程と同様に月は何処にも見当たらなかった。



私の前には同じように外を眺めて立っている中年の女性がいた。その中年女性は終始しかめ面に徹し、まるで車内の雰囲気を象徴しているかのように思えた。

電車が揺れる度に瞬きをしていたが、それ以外の時は少しも表情に変化がなく、やや不気味な印象を感じる。

しかめ面の割には目に生気がなく、窓の外を見ているのか、窓に映る自分を見ているのか、よくわからないような目をしている。

私は横目でそれを見ていたが、少し気分が悪くなり反対側のポスターにもう一度、視線を移すことにした。

さっき見た女性が、さっき見た通り、微笑んでいる。しかしながら、私はそれを見ても安心することができなかった。当然、愉快な気分にもならなかった。


電車が駅に停まり、扉が開く。


ベビーカーに赤ん坊を乗せた女性が中に乗り込んできた。

それに続いて5歳くらいの小さな男の子が一人、すぐ後から入ってくる。

私とポスターとの間、車内の真ん中あたりに、その家族は落ち着いた。


何に使った後なのかはわからないが、男の子の手には土に汚れたブルドーザーのおもちゃが握られていた。それを走らせるような素振りを見せながら、口ではエンジン音を真似ている。


中年女性は相変わらずしかめ面であったが、一瞬だけその家族の方へ視線を向け、また窓の外へ視線を戻した。私は丁度その様子を目にした。


電車が次の駅に停る。

扉が開き、中に人がなだれ込む。

急に車内が混み始めたように感じたが、ただ突っ立っている分には苦にならない程度だった。


先程の母親は人の波に押されて、さっきよりも少しだけ奥の方へ流されていた。男の子は母親の服の端を握りながらぴったりと隣にくっついている。


いつの間にか赤ん坊の方がぐずりはじめたようで、母親はその対応に追われることとなった。

男の子の方は男の子の方で、電車の中などお構いなしに、今日あったであろう出来事を母親に向かって延々と話し続けている。母親は赤ん坊の方に忙しかったため、男の子への返事はないがしろになっていた。


また、電車が次の駅に停まる。

扉が開くと幾人かの人が吐き出されたが、それと同じくらいの人が中になだれ込んできた。そのために車内の状況はさほど大きくは変わらなかった。


あの家族の方を見てみると、今度は母親の返事がないがしろになっている事を敏感に察知した男の子が、ぐずりはじめていた。気に入らないことの意思表示なのか、母親の服の端を軽く引っ張り回しながら、小さい唸り声をあげている。母親はその対応にも追われる羽目になった。「後少しだから、後少しだから、」と男の子と赤ん坊のどちらに言うでもなく、仕切りに言葉を発している。


私は突っ立ってその様子を見ていたが、先程の中年女性も同様にその様子を見ているようだった。

中年女性は赤ん坊がぐずったり、子供が唸り声をあげる度にちらちらと視線をそちらに向けていた。

相変わらず表情はしかめ面に終始し陰惨としたままだったが、さっきよりも少しだけ苛立ちに似たものが浮かんでいるようにも見えた。


「うあぁぁーん」

何の前触れも無く、大きな音が鳴った事に一瞬びくりとしたが、すぐに赤ん坊の泣き声だとわかった。

母親は赤ん坊に顔を近づけ一所懸命にその対応をしているが、一向に事態が好転する気配は感じられない。ついに泣き出してしまった赤ん坊をあやしながら、母親は仕切りに「すみません、すみません」と誰に言うでもなく、小さな声で謝り続けていた。


私はその様子を見ているのが申し訳なくなり、目を背け中年女性の方に目をやった。中年女性は先程の表情のまま、やはりその家族を見ていた。


泣きじゃくる赤ん坊と取り乱す母親の感情が伝染したのか、男の子の顔にも、いつからか不安の色が浮かびはじめていた。今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら母親の服の端を引っ張っている。

母親もそれに気が付き「次だから、次で降りるからね」と小さいながらも切実な声で、男の子に向かって言葉をかけた。


私は一刻も早く電車が駅に着くことを願ったが、どうやら次に開く扉は私が立っている、こちら側の扉らしい。

しかし、その家族は駅毎に幾度か人が入れ替わった流れに押され、反対側の方へかなり流されていた。

中年女性は相変わらず、しかめ面のままその家族を見ている。


ほどなくして電車がプラットホームに突入した。

母親は諸々の対応に追われ余裕がなかった為か、少しそれに気付くのが遅れたようだった。

電車が減速し始めてから急いでベビーカーの向きを変える作業に取り掛かりはじめ、ぶつかりそうになる人達に謝りながら、必死に道を作ってもらおうとしている。


電車が止まり、扉が開く。


ほとんどの客が道を空けていたが、車内の真ん中より少しだけこちら側にいた男が、イヤホンを耳に付け、その家族に背中を向けていたために様子に気付かず、完全に行く手を塞いでいた。

母親は念を押して、もう一度声をかけたが気付いてもらえず、今度は横から顔を少し乗り出して会釈し、それでやっと道を空けてもらった。


けたたましいベルが鳴り響いた時、いよいよ母親は焦ったらしく、外に出る直前、扉の入り口の段差にベビーカーの前輪を引っ掛けてしまった。と同時に外から一人、携帯電話を操作しながら歩いてくるサラリーマンが車内に乗り込もうとしているのが見えた。


私は咄嗟に”動き出さなければ”と思ったが、一瞬”何か”に躊躇し出遅れた。

それとほぼ同時か、少しだけ早いタイミングでベビーカーには手が差し伸べられていた。


「ちょっといいかしら、このお母さん降りるんで通してあげてくれる?」

中年女性は乗り込もうとしていたサラリーマンにそう言うと、ベビーカーを少し浮かせて段差を乗り越えさせ、素早く、それでいて思いやりを込めながらベビーカーを押す母親を援助した。


-扉が閉まります。閉まるドアにご注意ください-

アナウンスが終わるか終わらぬかのタイミングで母親とその家族は無事、駅に降りる事が出来た。

携帯電話を握ったサラリーマンが急いで車内に乗り込んでくる。


「ありがとうございます、すみません、ありがとうございます」

母親は振り返りながら、急いで中年女性に礼を言った。

「いいのよ、お母さんなんだから。謝らなくていいのよ、頑張ってね」

こちらもやや急ぎぎみに母親に向かって言葉を発し、言い終えたところで電車の扉が音を立てて閉まった。


電車がゆっくりと動き出し、駅が後ろに流れていく。

扉に付いている窓から母親が会釈している姿が見えた。


電車は徐々に加速していき、車内はまた静かになった。

私は少しだけ安心して、心に安らぎを感じたが、自分に対しての恥ずかしさと失望はやはり、その安らぎだけでは拭い切れなかった。


何故、すぐに動き出せなかっただろう。

何に躊躇してしまっただろう。

それがつまらない体裁と臆病のせいであることは、わかりきっていた。


私は中年女性に目をやった。

中年女性は先程と同じ場所に先程と同じ表情で窓の方を見ている。

しかめ面に終始し、その割には目に生気がなく、一体どこを見ているのかわからない目で…


…はたして、それもどうだか怪しかった。

そのしかめ面は本当にしかめ面なのだろうか。

その顔は本当に車内の雰囲気を象徴しているのだろうか。

そもそも、車内の雰囲気は私が思っているように、本当に陰惨としたものなのだろうか。

本当に誰もが浮かない顔をしているのだろうか。

中刷りには本当に、くだらない話題しか載っていないのだろうか?…それは心一つではないのか。陰惨としているのは、お前の方ではなかったか?…


私は窓の外を眺めた。

相変わらず2月の冷たい空は、ただただ真っ暗なままだった。

別に月など見たくはなかったが、私はその空を可能な限り見渡してみた。

しかし、いくら見渡してみても、やはり月は何処にも見当たらなかった。


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