盲目、そして冷たい夢。
この世は夢ぞ。ただ狂え。望めば全てが手に入る。だが、記憶も、景色も、心も、自分でさえも、眠りに落ちた誰かの夢ではないと、この世の誰に言えるのだ。
俺は左目をぼんやりと開ける。その目は灰色の壁を見つめていた。周りにはよくわからない機械が二つ。一定の間隔で、二本のホースの片方から流れてくる黄色っぽい透明な液体を、ポンプのようにもう一方のホースの先へ送っている、四角い箱型の装置。ホースの先は見えない。それと、シューシューと音の漏れる、おそらく気体を送り出しているのだろう、これまた同じ箱のような機械。他にもあるのだろうか。だが首を動かす事はできない。俺はただ灰色の壁だけを見つめていた。すぐにこれは夢だと思った。
ずいぶんと長い夢を見ていた気がする。
「おはよう」
彼女、結城梨沙の声で俺は目を覚ました。俺の顔を覗き込む梨沙の、少しウェーブのかかった長い黒髪が顔にかかり、くすぐったい。
「おはよう」
もう三ヶ月は毎日繰り返している朝だ。
「朝食、もうできてるよ」
心なしかいい匂いがする。
「いい匂いがするね。まさかハンバーグかい?」
「まさか!卵焼きよ。ずいぶん鼻が良いのね」
顔が熱くなった。
「うふふ、顔真っ赤!全然匂い違うのに!」
彼女の、薄い、桃色の唇の隙間から白い歯が覗く。
「そうだ、匂いは違うよな。やっぱりまた卵焼きにハンバーグのソース入れただろ。俺あれ酸っぱくなって好きじゃないって言ってるのにさ」
「負け惜しみは恥ずかしいよ?」
「いや普通に美味しくないです」
彼女の顔が固まった。まるで、焼きすぎた卵焼きみたいに。
「なあ、昨日おかしな夢を見たんだ」
「なによ、卵焼きが不味いからって嫌みを言うつもりなのね」
彼女は今朝から少々機嫌が悪い。
「悪かったって、でももうデミグラスソースを卵焼きに入れるのは止めてくれ」
「はいはいわかったわかった。んで、夢ってなに?」
「ああ、夢の中で俺は目を閉じてるんだ。この右目をな。でもな、俺は開かないはずの左目を開けていてな」
そのとき、彼女が持ち上げた卵焼きをさらに落とした。ベチャッという音がしてソースが飛び散る。
「大丈夫かい?」
「ううん、何でもない。大丈夫。ごめんなさい続けて」
彼女は台布巾でテーブルを拭きながら言った。
「おう、それでな、この左目でな、灰色の壁を見つめてるんだ。そこにはよくわからない機械が置いてあってな。何かを取り込んでまたどっかに送り出してるみたいなんだ。気体や液体なんだけど、それってなんだか肺とか心臓みたいだよね」
ほんの少し、沈黙があった。
「……ふーん。おかしな夢ね」
「あまり食いつかないんだな」
「だってたかが夢じゃない。SF映画の見すぎだよ」
「そうだよな。この左目は生まれた時から見えないんだもんな」
俺が生まれた時、原因不明の病気で左目が見えなくなってしまったと、子どもの頃に母から聞いた。
「見たい?」
「ああ、できることなら。でも見えないのが当たり前だったし、今更さ」
「ごめんなさいね」
彼女がなぜか謝った。
「どうして君が謝るんだい?」
そう聞き返したが、彼女は黙って食べ終わった食器を片付け始めた。
彼女の不可解な言動はあったが、だいたいいつも通りの朝だった。
今日は仕事が休みだ。前々からやりたかったことがある。そうだ、まずは彼女を海へ誘おう。俺は食器洗いをしている梨紗の後ろへ回った。
「なあ、梨沙。海に行きたくない?」
そのとき彼女は食器を落としてしまった。皿が割れる。
「大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい!どうしたのかな?今日はなんだかおかしいな」
彼女が割れた皿を拾い始める。
「手伝うよ」
俺が皿の破片を持ち上げようとしたとき、指を切ってしまった。鋭い痛みが指から脳へと走る。
「大丈夫?」
前にもこんなことがあった気がする。そうだ、俺は昔から血を見るのが苦手だった。
「あれ?」
まばたきをしたら傷が消えていた。
「海、いいわね、行きましょうか」
「え?」
「海、行くんじゃないの?」
気のせいだったのだろうか。もう彼女が片付け終わったのだろう。割れた皿は無くなっていた。
「うん、行こう。俺が運転していくよ」
「安全運転でね。絶対安全運転で行ってね」
「わかってるよ」
おかしい。疲れているのだろうか。今朝から不可解なことが多い。
海だ。晴天だ。雲一つ無い。砂浜は白く、鳥が飛んでる。海には一切波が無い。風も無いし、彼女の胸も無い。海の家だけは偉そうにぽつんと建ってるが、中に人は見えない。
「誰も居ないね」
「海にも定休日があるんだな」
「海自体動いてないものね」
「波が無いなんてこともあるんだな。まるで時間が止まってるみたいだ」
「進んでるよ。ちゃんと」
彼女がそっけなく言った。
「テンション低いな」
まあこんな海じゃ仕方ないかもしれないが。これじゃあまた別の機会に言うしかないかな。
「気が気じゃないの。あなたが居なくなってしまうような気がして」
そんなことを考えていたのか。これはチャンスだ。
「俺は居なくなったりしないよ。いつも君のそばにいる」
キマった。絶対ロマンチックだ。
横目でちらりと彼女の顔を見る。彼女は泣いていた。
「え?どうしたの?」
「ごめんなさい。なんでもないの。昔のことを思い出しただけなの」
「昔?」
昔彼女に何があったのだろう。俺と梨沙は家が近くて、親同士の仲も良い。幼なじみって奴だ。だからずっと一緒に居たが、過去に何かあったなんて覚えが無い。
「またあなたとこうして一緒にいられるのね」
「またってなんだよ。ずっと一緒だったろ。今までも、これからも」
「これからも?」
恥ずかしい。でも言うんだ。
「結婚しよう。必ず幸せにする」
顔が熱くなる。しばらく沈黙が続いた後、遂に彼女が吹き出した。
「うふふ、顔真っ赤!それ言う為に海まで来たの?」
「う、うるせぇ!俺はロマンチストなんだよ!」
波が出てきた。浜辺に白波が押し寄せる。
「で、返事は?」
「私が八十のおばあちゃんで、未亡人でニ人の子持ちで孫が居ても良いなら結婚してあげる」
「何その冗談面白くない。でもまあ、梨沙は梨沙だろう。これからもずっとさ」
「そうね、私はずっと梨沙のままだったよ」
「うん」
それで返事は?
「結婚したい。今からでも遅くはないよね」
心の中でガッツポーズした。
「まだ二十歳だろ。早いくらいさ」
「私はもう待てない」
「もう待たなくていいんだ」
俺は梨沙の方へ向き直る。梨沙も俺と顔を合わせた。
「これが最後かもしれない」
「いいや、これからまた始まるんだ」
俺たちは唇を重ね合った。
夕陽が辺りを染め上げる。
「帰るか」
「くれぐれも安全運転でね」
「しつこい」
車を発進させる。夕暮れ時はよく見えない。言われなくても安全運転になってしまう。
帰りの車は無言だった。俺が何か話しかけても「運転に集中して」としか言ってくれないのだ。
日が落ちる寸前の薄闇の中、俺はライトを付けていない。そこで急な右カーブにさしかかった。彼女が
「ここ、気をつけてね」
と言った。言われずとも俺はブレーキを軽く踏み減速する。すると、対向車線からもライト無灯火の中型トラックが減速せずに走ってきた。曲がりきれずに膨らんで俺の車の正面に。
「まずい!」
慌ててブレーキを踏んだが間に合わなそうだ。相手の運転手の顔は良く見えなかった。
ぶつかる。車が潰れていく。俺の意識が遠のく。完全に気を失う寸前、彼女が叫んだ。
「どうして!どうしてまた事故が起きるのよ!」
暗い。痛くはない。誰かの話し声が聞こえる。女と男が言い争う声だ。女の声は老けて聞こえる。おそらくお婆さんだろう。
「どうしてまた事故が起きるの!?何でも思い通りに作り直せるはずじゃなかったの!?」
「これは彼の、井上正也さんの記憶を元に作られたVRなんです!どうしても彼の記憶の終わりに行き着いてしまうんです!仕方ないことなんですよ!」
「何でも作り出せるって言ったじゃない!」
「彼の脳の中の記憶にあるものしか作れないのです。彼の記憶は六十年前の事故で終わっているんですよ。彼はもうその当時から進めないのです」
「なによそれ!彼が気づいてしまったらどうするの!どうにかしてよ!」
「六十年前に説明したはずです。あなた方もそれを了承したはずでは?人工生命回路実験の、被験者の関係者全員に我々から間違い無く説明したはずです。我々には説明義務がありましたから。こうなることもわかっていたはずです。最も、彼が唯一の成功者なので、この説明をまだ覚えていなければならない人は一人だけになってしまいました。永瀬梨沙さん一人だけに」
一体何の話をしているのだろう。ぼんやりと目を開ける。右目は暗いままだ。左目は、灰 色 の 壁 を 見 つ め て い た。あの、夢の光景が眼前にあったのだ。
右目を開ける。いつもの天井が見える。
「あ、起きた?おはよ」
「どういうことだ?」
「え?」
人工生命回路ってなんだ?六十年前の事故って?今日は何日だ。この光景はなんなんだ!
様々な疑問が一度に口に押し寄せ、結局ただ彼女の肩を掴んだだけだった。
「ど、どうしたの」
怯える彼女の顔を見て、少し落ち着いてきた。
「人工生命回路ってなんだよ?六十年前の事故ってなんだよ?」
彼女の顔が青ざめる。
「聞いていたの……?」
「ああ!聞いていたさ!何もかも!」
彼女の手が震えだす。少しの沈黙のあと、彼女は意を決したように話し出した。
「あなたは六十年前に事故にあったの。トラックと衝突して……私は足の骨を折って、今もまともに歩けない。トラックの運転手は即死だったそうよ。あなたは意識不明の重体で、医者も、もうもたないだろうって、そんなとき、人工生命回路実験の広告を見つけたの。藁にもすがる思いだったわ。機械による人体の再現によって究極の延命法を確立する為の実験なんだって。あなた以外にも実験に参加した人は居たわ。でもみんな死んでしまったの。あなただけが成功したのよ。だからあなたは唯一の成功例として国から固く保護されてる。そして六十年間ただ延命されてたのを、三カ月前、脳科学とVR技術の発展によってあなたの記憶を元に、あなたの人生を再現したあなただけの世界を見せることができるようになったの。これが今あなたが見てる世界よ」
驚きで声が出なかった。この世界は、俺の見ているこの世界は、誰かの作り物なのか。世界は三カ月前にできたばかりなのか。ならば、一つの疑問が湧く。
「この世界が作り物なら、お前すらも作り物なんじゃないの?お前は本当に梨沙なのか?」
「本当よ!私は梨沙よ!本物の!」
「永瀬ってなんだよ?」
彼女がうつむく。
「ごめんなさい。あなただけを愛していくつもりだった。もう誰も好きになるつもりはなかったの。でも、あなたと離れ離れになってから、寂しくて……優しくしてくれる人が居たの。あなたのことも話したわ。全て受け入れてくれたの。そうしたらね、私、いつの間にか彼の事を愛していたの。嫌な女でしょう」
「いや、いい。お前が本当に梨沙なら俺はそう言うさ。六十年間俺は何も出来なかったんだろ?そんな男に構ってるよりも、別のいい男に幸せにしてもらった方がいい。俺はそう言う。お前が本当に梨沙ならな」
「ありがとう……」
「まあ、誰でも良い。お前が梨沙でも、梨沙じゃなくても、どうかお願いだ。俺を殺してくれないか」
「どうして?どうしてそんなことを言うの!?」
俺は彼女の肩から手を離した。
「もうダメなんだよ。一度その考えに達したら、何もかも信じられないんだ。ダメなんだ。疑ってしまうんだ。どうしても……お前は本当に梨沙なのか?俺は本当に……」
俺なのか?
「なあ頼むよ!殺してくれよ!お願いだからぁ……俺を……どうか俺を殺してくれよぉ……」
窓の外で雨が降り出した。
「嫌よ!どうして?私あなたがうらやましいのに!」
「なんだって?」
「だってそうじゃない!記憶にあることなら何でも作り出せるのよ?何でも思い通りなのよ?全部全部好き勝手にできるのよ!?いつでも思い出のあの光景に戻れるのよ!?」
思わず平手で殴ってしまう。痛みは彼女の現実に届くのだろうか。
「それは今を生きていられるからそう思えるんだ!俺はもう過去にしか生きられない……過去を繰り返したって冷たくなっていくだけだ。こんなのってあるかよ!勝手に実験に使われて、勝手に生かされて、勝手に夢見せられて!いいから、何でもいいから、もう殺してくれよ。こんなの、生きてるって言わないだろ……?俺は六十年前に死んだんだ。それが元に戻るだけさ」
彼女の姿が消えた。
「逃げるなよ……逃げるなよバカやろおぉぉぉぉ!!!」
目を開けると、いつもの天井が見えた。彼女が俺の顔を覗き込む。
「あ、おはよ」
「おはよ」
ハンバーグの匂いだ。
「ハンバーグかい?」
「ざんねーん、卵焼きでした」
俺は溜め息を我慢出来なかった。
「また卵焼きにデミグラスソース入れたな?俺あれ嫌いだって何度言ったら……」
「はいはい、さっさと食べましょ。歯磨いてきて」
冷めた卵焼きをつつく。
「なあ、夢を見たんだ」
「夢?」
「ああ、夢さ。俺はまた同じ夢を……」