可憐で純粋で一途で清楚?
「王太子殿下なんか会いたくもないわ!!宰相の娘と交流を持とうとされると、権力の集中などと勘繰る人も出てきて内政に影響を及ぼす恐れがあるから断ってるのに!!こんなに言葉と礼を尽くしているのに、何度も誘うなんて何考えてるのよ!!せっかくの朝食が台無しじゃん!!」
部屋に戻るなり、心の声が口から飛び出してしまった。思わず口調も普段のお嬢様言葉から街の娘みたいになるよ。幼い頃にとある事情で平民の言葉遣いを覚えた名残から、感情が高ぶるとつい言葉遣いが戻ってしまう。まあ、今は怒り心頭なのだから仕方ない。ボスンと音を立ててソファに腰を降ろした。
ニナが大慌てでドアを閉める。
「アネット様!外まで聞こえてしまいます!」
「大丈夫、防音の魔法をかけてあるから。別に聞こえたら聞こえたで構わないけどね!ったく、去年神殿に駆け込んだのすっかり忘れてるのかなぁ…また駆け込んだっていいんだけど!」
「あのときの旦那様の狼狽は、今まで見たことがないほどでしたね」
「本来の目的を持って神殿に駆け込んだわけじゃないし、嘘も言ってないんだけどね。お父様が勝手に勘違いしてるだけで。そもそも、ただ王太子殿下に会いたくないってだけで巫女になるなんて、空の神に対して失礼よね」
空の神を崇めるヒンメルン王国は、ヒンメルン王家とゾンネルン一族が協力して治めている。ヒンメルン王家は、貴族を統率し、民のために政を執り行う。ゾンネルン一族は、貴族も平民も関係のない身分の外におり、空の神を奉ることに心血を注ぐ。
現在のヒンメルン王とゾンネルン一族の長は幼馴染みで、絆も固く、互いの能力を上手く活用し、国を盛り上げている。
東の国境にある一番高い山の中腹に、ゾンネルン一族が治める街ゾンネアジールがある。そこは、一種の治外法権が認められおり、一族の者と関係者、一族が招待した者しか入れず、また、犯罪が起こっても街の法で裁かれる。
ゾンネルン一族は特殊な存在で、正式な一族の者となるには、婚姻を結ぶしかない。関係者となるには、魔法学院に入学するか一族の配下となるか、どちらかだ。
王国内には空の神の神殿が何ヵ所かあり、ゾンネルン一族の者が司祭を務めている。神殿内で貴賤はなく、どのような立場の者でも身分は等しく扱われる。それが例え王族であっても。
また、神殿には祈りを捧げる場の他にも役割があり、婚姻の誓いや葬儀なども執り行われる。
そして神殿は、訳ありの者が俗世を捨ててゾンネルン一族の配下となるために駆け込む場所でもあった。
例えば、暴力によって支配されていたり、離縁したいのに離縁できなかったり、意に削ぐわぬことを無理強いされていたり、理由はさまざまだ。
一族の配下となるには、心から空の神に仕えたい思いがあること、家族や友人などのしがらみを一切絶つこと、配下だけではゾンネアジールから出られないこと、これらを守らなければならないので、相当の覚悟と努力が必要となる。
その方法は、司祭に俗世を捨てる理由を全て話し、巫女姫の魔力が備わったお札を引く。その札に何らかの役割が書かれていると、晴れて一族の配下となる。しかし、資格なしと書かれていると本人の気持ちに偽りがあるとみなされる。それは空の神への冒涜行為となり、一年間神殿への出入りを禁じられる印を体に刻まれてしまう。これは空の神の信仰心が厚いこの国において、かなり罪深い行いだ。
「でも、あのときのアネット様の剣幕も凄まじかったですから、勢い任せに巫女になりかねなかったです」
「だってお父様ったら、無理やり私を王太子殿下と会わせようとしたんだもん。わざわざ家に忘れ物なんかして、城のお父様の部屋まで私に届けさせて、たまたま王太子殿下がそこに現れるように仕向けるなんて。早々に部屋を出ようとしたら、不自然に引き留めるお父様を見て、すぐに気付いたわ。部屋を出ようとしたら、そこに王太子殿下がいらして。顔もあんまり見ないで、すぐにお辞儀をして立ち去ったけどね。不敬罪?何それ?父の忘れ物を届けて、帰り際にたまたま王太子殿下にお会いしただけ。私は他に何の約束もしてなかったしね!」
「そ、そうですわね」
そのときの怒りを思い出し、鼻息荒くする私に、ニナは体を少し引いた。私の言葉遣いや礼儀作法に厳しいニナも、あまりの剣幕に指摘することさえ忘れているみたい。
普段は公爵令嬢としての自覚を持って行動しているけど、感情が爆発してしまってはしょうがない。まあ、今は見逃してもらうとして。
あのとき、城から家へ帰って、私はすぐに無印の馬車に乗り換えて出かけた。特にどこか行くわけでもなかったけど、家に大人しくいたくもなかったから。
貴族の家の馬車には、必ず家紋がつけられていたが、大抵は一台ほど自由に乗り回せる無印の馬車を用意しているものだ。家紋が付いていたんじゃ、ブルーメ家の者がどこに行ったかなんて、すぐにばれちゃうからね。たまにはどこかにお忍びで行きたいことも、あるし。
そして無印の馬車を走らせていたら、急に気分が悪くなったのだ。きっと怒りが頂点に達し、心と体に負担がかかったのだろう。どこか休める場所がないかと思ったら、神殿があって、たまたまうちと懇意にしている所だったから、事情を話して休ませてもらったというわけ。
「それをお父様が、自分より後に家へ帰ってきた私に、今までどこに行ってたか聞くから、中央神殿にいましたって答えたのよね。そしたら、私が俗世を捨てて巫女になろうとした、なんて勝手に勘違いしたから、そのまま訂正しなかっただけで。それから王太子殿下の話は全然出なかったから、さすがにもうなかったことになったものだと思ってた」
「差し出がましいことを申しますが、旦那様の口ぶりから推察するに、王太子殿下から正式の招待があったわけではないのですよね?」
「そうよ。朝食の場で軽く尋ねるくらいのことだからこそ、断れたって言うのもあるんだけどね。正式に申し込まれたなら、私だってブルーメ家の者だもの。ちゃんと従うわ。だけど軽いお誘いを何度もするなんて、いくら王族といえど、公爵家令嬢に対して失礼すぎない!?お父様を使えば、娘の私なんてすぐに言うことを聞くとでもお思いなのかしら!」
「そうですわねぇ。ですが、元々アネット様はルートヴィッヒ王太子殿下に対して、良い感情を持たれていないことも、お断りされる理由の一つではございませんか?」
「それは否定しない。いくら見目麗しくて能力があって位の高い方でも、あんな女好きで、女に弱く、軽々しく甘い言葉を囁きまくる輩、大っ嫌い!」
ヒンメルン王国の王太子、ルートヴィッヒ殿下は、それはそれは王子様の名に相応しい美しい容姿を備えている。加えて、剣の腕も魔力も高く、仕事は有能、性格も穏やかで、完璧な人物だ。
以上のハイスペックさから、モテることはしょうがない。しかし、しかしだ。もう少し節操があっても良いのではないか。とにかく手当たり次第なのだ。年齢関係なく貴族の令嬢や未亡人、果ては人妻にまで手を出しているらしい。ここまではあくまでも噂でしかないが、関係を持ったとされる女性の家は、関係解消と同時に閑職に追いやられたり、降格させられたり、実際に被害を受けている。
現国王で賢王と名高いバスティード様と、歴代の長の中でも群を抜いた魔力と統率力の高さを持つゾンネルン一族のハインリヒ様は、一体何をお考えなのかしら。王太子殿下が国王になったらしっかりするとでも、思ってらっしゃるとか。
「三年前のアネット様の社交界デビューの後から、お誘いが始まりましたね。ブルーメ公爵令嬢のデビューの夜会ですから、国王様を始め王太子殿下も参加されていましたし、やはりアネット様の可憐なお姿に心惹かれたのでしょう」
「ただ噂の令嬢がどんなもんか見たかっただけでしょ。王太子殿下から好奇心いっぱいの目で見られているのはわかっていたから、ご挨拶のときには笑顔を顔に貼り付けて、目線はずっと王太子殿下のご衣裳の素敵な紋章入りのボタンをじっくり見てやったわ。顔も覚えてないし」
「アネット様ったら…」
とりなすニナに私は鼻で笑い飛ばした。
そう。私アネットに関する噂が、ここ数年貴族の間で囁かれているのだ。
いわく、ブルーメ公爵令嬢アネットは、初恋の人が今でも忘れられないらしい。
夜会やパーティーにあまり参加しないのは、男性に慣れていないための恥ずかしさが理由らしい。
可憐な容姿に相応しく、心も純粋で一途で清楚な乙女であるらしい。
その乙女である私は、ソファにふんぞり返って乱暴にため息をついてるけどね!
噂の出所はわかっている。社交界デビュー前、友人であるアプフェル様のお茶会に参加したときに、理想の男性像について話をした覚えがあるもの。そこで私は、初恋の人が今でも理想だって話したのよね。そしたら、それが何故か初恋の人を今でも忘れられないってことになってて、後日アプフェル様のお茶会でその噂を聞いて驚いたのは私本人だったっていう。
「そもそも、私は今でも初恋の人を好きなわけじゃないし。容姿はとても美しかったけど、それよりも性格が好みであっただけで、彼のような人に出会えれば、すぐにでも結婚したいくらいよ。パーティーに出ないのは、デビューの夜会で次々に甘ったるい言葉を吐く男たちに辟易したのが原因。私の好みと正反対のタイプに言い寄られても、全然嬉しくないからね。あと、可憐で純粋で一途で清楚?全く、女に夢を抱きすぎでしょ。うちみたいな貴族の中でも上位の家の令嬢なんて、精神的にタフでないと女の付き合いの場で上手くやっていけないわ」
「はあ、そうですわね」
「その噂って、お茶会の参加者が他の人に話して、そこから又聞きの又聞きで噂が作られたみたい。百歩譲って、ザーラみたいな子なら、噂の令嬢だと言われてもわかるけど」
「ザーラ様といえば、本日のお茶会はザーラ様とご一緒に向かうお約束をしてらっしゃいましたね」
「そうだった!私が誘ったんだ!」
「さあ、では気分転換に、アプフェル様とのお茶会の身支度をお決めになってはいかがでしょう?そのあとは、ザーラ様の到着を待つ間、あずまやで読書をされては」
にっこり微笑むニナは、さすがにいつも通り落ち着いていた。
むむむ、これはもう怒りまかせだった素の口調は許されなさそうだわ。ここは私も良家のお嬢様という名の猫をかぶらなくちゃ。
「そうね、ニナの言うとおり、今はお茶会のことを考えないといけないわね。ごめんなさいね、感情が高ぶってしまって。さあ、ドレスを選びましょうか。今の気分だと紅蓮の炎のようなドレスと攻撃的な尖った水晶のアクセサリーを選んでセンスが悪くなりそうだから、ニナに任せるわ」
「承知しました」
私がドレスルームに向かうと、ニナが後ろから付いてくる。
どうやら叱られずに済んだわ。お嬢様と街娘の口調を使い分けて早10年、すっかり板についたし、切り替えが早くなったものね。ニナとしては、ずっとお嬢様でいてほしいだろうけど、素の口調や性格がないと、この堅苦しい貴族社会で息が詰まってしまいそうになるのよね。
それにしても、王太子殿下の件はどうやって断ろうかな。
同じ理由は使いたくないし。いっそ噂を利用しようか。
全く、面倒なことになったものだ。
アネットは本来率直な物言いの女の子。
貴族社会では真意をオブラートに包まないといけないので、イライラすることがある。
自分の噂はどうでもいい。
ゾンネルン一族は、僧侶のイメージ。
神殿は駆け込み寺や縁切寺の役割も持つ。
ヒンメルン王国は、実質ヒンメルン王家が取り仕切り、ゾンネルン一族は補佐的存在。
近日、登場人物の紹介やヒンメルン王国の内情などを載せます。