100羽:100だってよ。
2016年2月16日
こんなくだらない日記でも100羽に突入・・・
いや、正確には番外編があったので101羽を作成したのか・・・
三日坊主の性分がよくもまぁ続くもので、そんな暇があったら働けよ!とか自分で思ってしまう。
ま、働く事を考えればまた再発するのでその話は止めるとして。
自分で1羽から読み返すと、文章は相も変わらずへたくそなまま。
進歩してねぇ。成長してねぇ。しかも、たまにやたらと長い。
読んでいる人に、伝えたい事の3割も伝わってねぇだろうなぁ。
これぁ、参った。
この日記の構成は基本的に『起承転結』で済ませている。
たまに『起承結』や『起承承結』、『起転結』というふうに構成を変則させてみたりしてる。
文章が下手糞過ぎて、読んでる人にはなかなか解らないよねぇ、気付かないよねぇ。
自分なりに変則させているが、やっぱり王道にして『起承転結』が一番しっくりする。しっかりオチが作れている気がする自分。
でもまだまだだなぁ。足りねぇや。
事象に対し目線を変え、考え、問い、疑い続けなければならない。
常識は常識にあらず。普通は普通でない。無論、絶対も絶対ではない。世間とは逸脱した考え方を持ち合わさなければならない。
簡単に言えば、箪笥の抽斗を増やす事。
そして、伝える力、文章力を身に着けなければならない。
と、再度思う。
伝えたい事。
これは自己満で済ませたくはない。
ゲームは自己満でいいが、伝えるべき事だけは妥協したくない。
ま、結果、こんな文章だから、自分の力の無さが悔しく、恨めしく、恥ずかしい。
別に小説家や哲学者などそんな大層な存在を目指しているわけでもなく、ただ「こういう考え方もあるんだよ。」とマイノリティー側の意見を叩きつけてみる。
勿論、叩かれる、拒否される事を覚悟して書いている。
自分の価値観の押し付けをするつもりも到底無い。それこそ、人権の侵食だと思う。
「読みたければ、どうぞ踏んで行ってー。読みたくなければ、さようならー。」
去る物は追わず、来る物は拒まず。
ただ、読んでくれている人は得していると少しは思う。
「この日記面白くて楽しい。」
「あー、そういう考え方もあるのかぁ。」
「あ、これは興味ねぇわ。」
「この日記は大嫌い。」
など、人の感情を揺さぶるこの日記に対し読者自身が、己の考えを正当化、または不当化する事こそ、この日記の価値があると思う。
いや、そうであると思いたい。
こんな境地で書き続ける日記に、何の価値があるのだろうか。
100の日記を執筆中、幾度も考えた。
今存在している自分を電子媒体に残す事。そこに、どういう感情があったのかと。
Googleさんに削除されない限り残るからな。TwitterやFBなど各SNSでは昔の記録を辿る事に苦労するし、どこにストレージしたかを忘れてしまうし、書き足らない。更にフリップする事が面倒極まりない。
存在証明だけでは飽き足らず、家族の話題も放り込み思い出として残す。
家族は被害者なんだけども・・・ごめんな。
もしかしたら、価値なんて物は残念ながらないのかもしれない。
自分でも価値の基準がわからないからなぁ。
まだまだ100羽。
これからも書き続ける事は間違いない。
だろう・・・




