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Remember me?

作者: 光部

1

 春だというのに、こちらにやってくる風だけが冷たく感じられる。やはり地下鉄を使えばよかったと夏海は後悔した。いい天気だからと、新橋から歩こうとしたのが間違いだった。


 首から入りこんできた冷たさに神経が震え、夏海はブルゾンの襟をにぎりしめる。ビルの狭間を歩いているせいで風はますますひどく、身体の熱と微小な支えまでもをなくしていくようだ。髪も乱れきり、今ではただうとましくて冷たい鞭になっている。


 ウィンドウにうつりこんだ姿は悲愴めいていて、夏海は驚きと落胆を同時に味わう。印象はよくないだろう。無気力な瞳だけで十分だ。こちらは客だから期待もなにも問題にはならないだろうが、瀕死の自尊心が痛む。


 角を曲り、雑踏を抜けて狭い路地に入る。地図上では理解しているつもりだったが、こう小さくて似たようなつくりでは、どれが目的の店なのかわからない。たいていはまだ閉まっていて、古びたシャッターが拒絶の意を果たす。

 この通りは自分のようだと夏海は思う。開発から取り残され、廃頽の進化をたどってきた。都会だというのに人気がなく、朝だというのに影になり、高級と低俗が同居する不安定ぶり。


 そのせいか、目的の店はすぐに見つかった。ふつうなら目もくれないような場所だ。


 カフェとブティックの間、シャッターの狭間に、わずかに開いたドアがある。嵌めごろしの曇り硝子でてきた、税理士事務所といった風情だ。看板はなく、硝子に毛筆のような書体で店名が書いてあった。かすれた文字はいまにも消えそうで、夏海は頭に入っているはずの店名を懸命になぞらえる。ここでしっかりと見ておかなければ、ここに来た決意まで消えてしまいかねない。


 銀座八丁目、金春通り。


 中古・故買品買取販売、久我。



 ドアを開けると、狭い廊下と階段があった。


 夏海は一歩を踏み出して、靴音の反響に驚いてしまう。後ろ手にドアを閉めれば完全な孤独があり、冷えた春のたたずまいに迎えられる。


 なぜだろう、ひどくなつかしい。ワックスの剥げた床と、何人もの来訪を受けた手すりと、毎日おなじ軌跡をたどる日照。忘却された時間が、景色のあちこちに埃となって積もっている。


 階段をのぼる。建物は古く、黴と塩素の匂いが混ざりあっている。天上も低く階段も急だ。ここでも夏海は決意を試されたような気分になり、床を踏みしめる。少し前の夏海なら文句をつけようとしていただろう。


 目的地は二階にあった。ビルの入り口とおなじ扉がある。


 突然その扉が開かれ、青年が出てくる。急すぎて夏海は青年の顔を眺める格好になってしまう。目が合ったが、相手からそらされた。そして階段を降りてきて、夏海の横を早足ですり抜けていく。


 無駄な鼓動に縛られている。やり場のない緊張にいらついている。夏海は扉が閉まりきる前に把手をつかみ、勢いで開け放った。


 まず目についたのは雑然さだった。さまざまなもの、ガラクタにしか思えないものが部屋中に積みあげられている。秩序がありながらも、量が多すぎて整理がおいついていない。棚からはみだし、床に山をつくり、天上からぶらさがっている。一見して本が多い。大小さまざまな形が静寂と時間を織りあげている。壁にあるのは任侠映画のポスターだ。昭和の独特の色合いが陽に灼けている。


「いらっしゃい」


 声をかけられて、ようやく店の奥に立つ男性に気づいた。ペーパーバッグに手を伸ばしかけた格好で夏海を見ている。黒のスーツを着こみ、その下には襟の開いたシャツ。髪は脱色しきっているのかほとんど白く、わずかな光をうつしている。この場にはおおよそ似つかわしくないと夏海は思い、考えなおした。この雑多さがあってこそ、この男性もここにいられるのだろう。


「久我さん、ですか」


 夏海が聞くと、男性が頷いた。


「どうぞ」


 言われて、ノックもしなかったことを夏海は後悔する。言葉にしても終わりのない羞恥になるだけだから、黙っていることにした。


 夏海は扉を閉めて、踏み場のない床の隙間を探していく。


「ゆっくりでいいですよ」


 夢中になっていると久我の声が聞こえてきた。


「すみません、散らかってて」


「いえ、わたしも不器用で」


 夏海が苦労している間に久我は手際よく周囲を片づけ、ソファの埃を落としていた。売りものらしく、値札がついたままだ。


「いいでしょう、イームズなんです」


 言われてもわからず、夏海は曖昧に頷いた。よくよく値段を見ると、給金の三ヶ月分はゆうに超している。たしかに革はみるからに柔らかそうだし、雑多な眺めに囲まれても形の斬新さが目立つ。ここまでいくと芸術と趣味の領域だから、夏海には理解できない。


「どうぞ掛けて」


「売りものでは?」


「中古だから」


 久我が抑えた笑顔をみせ、夏海は素直にしたがう気になった。久我の態度は外見からほど遠い慇懃さで、こういう商売人にありがちななれなれしさもない。夏海がブルゾンを脱ぐのを待っており、当然のように預かってくれる。


 夏海がソファに座ると久我が右手をさしだしてきた。シャツの襟元から銀色のタグのようなものが覗いて、朝をやわらかく灯している。刻まれた文字列は数字が多い。戦争映画に出てくる主役がしていそうな代物だ。


「久我啓介です」


「黛 夏海といいます」


 久我の手は夏海には大きく、見た目にくらべて力強く感じる。


「いい名前ですね」


 そう言うと久我はシェルフの隙間に身を滑らせていく。どうも部屋はひとつではなかったらしく、食器をいじる音が聞こえてきた。


「あの、おかまいなく」


「お客は構うもの」


 音は乱雑と丁寧のちょうど中間に位置し、久我の印象をますますわからなくさせていく。


 あきらめて、夏海はソファに身をあずけた。身体をあらためてみると、この座りごこちを気に入っている。立つのが嫌になるくらいの感触と温度。この気持ちがあの値段になっているのだろう。


 背を伸ばすと、ちょうど店内を眺められる。シェルフと木棚が組みあわさって部屋におさまっている様は芸術のようだ。ここでもなつかしさに思いあたった。夏海には縁遠いものでも、誰かにとっての意味が連なっている。


 久我はいつもこうして品物を見ているのだろう。ガラクタにしか見えない品々も、誰かの手を経て偶然にしろここに集まっている。そのひとつひとつが人の思いだとしたら、ここは郷愁と記憶の展覧会だ。


「私のことは、どこで知りました」


 壁のむこうから久我が訊ねてくる。


「あ、あの、会社の友人に」

「そう」


 どうでもいい話題だったのか、あるいは夏海の嘘を見抜いたのか、久我の返事はあっけない。漠然と抱いていた疑問を、今なら口にできそうな気がした。


「あの、こういってはなんですけど、本当なんですか……記憶を買いとってくれるって」

「本当」


 戻ってきた久我は洒落たコーヒーポットを手にしていて、夏海の隣に腰をかける。夏海にカップを手渡してくれたが、トタン製で凸凹があり、ひどく大きい。それで西洋文化の代名詞のようなポットからコーヒーを注がれたものだから、夏海は笑いをこぼしてしまう。


「素敵ですね、ここのお店。気に入りました。このソファも自分のものにしたいくらい」

「光栄です」

「それで、失礼ですけど、記憶を買い取ってどうするんですか?」

「売るんですよ」

「売れるんですか」


 久我が頷いて、自分のカップにもコーヒーを注いでいる。もう何回もおなじことを訊かれているだろうに、表情は柔らかいままだ。


「ひととおり説明しますよ。商売人は話が長いから、適当に聞いてて」



 久我の話を聞いていても、夏海はなかなか全容をつかめなかった。言葉の並びは意味になり、脳に刻みこまれようとするのだが、思うような配置になってくれない。経験の雛形にあてはまらないから口もはさめず、したがって頷くだけになった。コーヒーだけが減りつづけ、手の揺れが伝わってつかみどころのない疑問を波紋に変えている。


 久我は人の記憶を思いどおりに切除でき、久我自身ににつなぎとめておけるのだという。取り扱っているのは、主に人間の負に関する部分。持っているだけで負担になるような記憶をなくすことで、本人は楽になる。そして久我は買取を希望する客にその記憶を譲りわたすそうだ。人の嗜好はさまざまで、特に極端な好みをする者もいるとか。


 夏海は話に耳を傾けながらも、久我の思惑に気づいている。具体例を出さず、抽象的なことがらに終始するのは、夏海の心情に影響しないようにという配慮なのだろう。久我は負の部分と言った。久我のもとを訪れるのは、それに耐えきれなくなった人間ばかりなのだと。


 記憶の片鱗がうかびあがってきて、思考の底辺をなでる。喉が疼く。鼓動が痛む。涙の余韻にしびれた瞼が、ふたたび熱を帯びはじめる。


 思いだしたくない。あんな男も、あんな屈辱も、すべて忘れてしまいたいのに、意識のいちばん上に貼りついて離れない。


 押しつぶされないように、となりにいる久我に執心してみようとする。まず目元と肌から歳をうかがうのは悪い癖だ。スーツもシャツも高価そうで、やわらかな生地が豪奢な影を生んでいる。袖口から覗くのは年代もののロレックスで、ぶあついガラス面が時間を歪めているようだ。


 久我は一定の動きかたと対人技術を心得ており、それでもときどき規格から外れた表情を見せる。印象のなさ、つかみどころのない雰囲気はそこから来るのだろう。


「納得されましたか」


 久我の問いに、夏海は頷く。


「では始めます。下を向いて、気を楽にして」


 言われたとおりに夏海は視線を落として床を眺める。つや消しの床に影がある。ぼんやりとした形は自身のようだと夏海は思う。輪郭が曖昧で、朝に飲みこまれそうになっている。


「脳波をとった経験は」

「あります。だいぶ前に」

「似たような感じです。ちょっと痛むけど、一瞬ですから」


 久我の手が夏海の頭頂部に触れてくる。髪を分け入られ、指の感触が頭蓋骨をつかむ。夏海は思わず身をすくめた。意識していないと、鼓動のはやさを久我に知られてしまいそうだ。


「心の静寂を」


 針に刺されたような痛みが来る。それもすぐに引き、やがて重い目眩のような揺らぎがあった。まるで脳が失いかけた記憶の重みを探しもとめているようだ。一瞬の光が明滅して神経のつなぎを断ち、ふたたび繋いでいき、血液の流れが感覚をおぎなおうと熱を運ぶ。


 頭が落ちかけてしまい、久我に肩を支えられた。


「大丈夫ですか」

「はい、少し目眩がして」

「気分はどう」


 夏海は深く息を吸い、みずからを確かめた。変わっていない。久我に触れられる前から変わらないというのに、変化のきざしが身体中にある。胸が軽くなったような感覚、視界もこころなしか明るくなったようだ。


 涙の原因を探ってみようとした。わからない。思いだせないというよりは、その部分だけが抜け落ちてしまったようだ。そしておかしなことに、思いだせないこと自体を、どうでもいいことのように感じている。


「不思議な感じです。でも……すごく、楽になったような気がします」

「いいことですよ」


 久我の手が離れ、夏海は自分で頭を支えてみる。もっと劇的な変化を予想していたから、とまどいだけがある。考えてみれば記憶をなくすのは自覚をなくすということだから、所在がわからなくても当然だ。そもそも所在とはなにか、なにを考えていたのか、いったい自分はどうしてしまったのだろうか。


「混乱されているようですね。無理もない」


 見ると久我に封筒を差しだされていた。受けとってから中身が金銭だと気づいてしまい、躊躇してしまう。


「こんなに頂いても……」

「一律料金ですから、気にしないで」

「でも、わたしの記憶に買い手がつくなんて思えません。ひどい記憶のはずなのに」

「需要を見つけだすのも私の仕事です」


 感情をぎりぎりまで断ち落とした表情の変化が、久我の笑顔なのだと気づく。同情でも憐れみでもなく、本来なら夏海自身の感情を形にした笑み。


「脳の根幹に食いこむ記憶ほど、除去すれば混乱はまぬかれない。遠慮なく休んでいてください。私は勝手に仕事をやってますから」


 そう言うと久我は夏海の手からカップを取り、奥の部屋に入ってしまう。夏海は封筒をしまう気にもなれず、茶色の表面を眺めていた。時間がたつごとに、深い安堵が血流となって身体中をなぐさめていく。しばらくはこの安息に身をまかせていようと思った。


 ソファのやわらかさと、ようやく緊張を解かれた朝の光にまどろんでくる。意識と夢の狭間にすべりおちながら、この部屋は久我そのものだと理解していた。知覚をもつ眺めだ。郷愁の集まり、数々の記憶を背負って人の間を橋渡しする。


「こんにちは」


 声に引き戻される。夏海は頭をあげて、あわてて身体の崩れをなおした。見ると戸口に男の子が立っている。うつむいて、泣きはらしたらしく目元を赤くしている。胸の前でなにかを抱えているようだが、腕に隠されて見えない。


 久我が奥の部屋から出てきて、少年を出迎える。


「どうしたの」


 少年が久我に、腕の中身を差しだしている。乱れた毛並み、小さすぎる四肢、力のない抜殻。仔犬だ。それも生まれてからそうたっていない。


「内緒で飼ってたんだけど、死んじゃった」

「かしてごらん」


 久我がしゃがみこみ、少年から仔犬を受けとる。夏海の場所から見ると仔犬は毛玉のようで、久我の片手からはみ出るくらいの大きさでしかない。


 久我は仔犬の死体を棚の上、少年の目の届かない場所へ置き、それから慣れたしぐさで少年の額に手をあてがう。


 少年の瞼が閉じてふたたび開くさまを夏海は凝視していた。もし夏海自身が久我の処置を受けていなかったら、なにがあったのか疑っているところだろう。表情の急激な変化は人が変わったのかと思うほどだ。瞬きひとつで少年の瞳から悲哀と後悔が払拭され、かわりに意思が満たされている。


 夏海は見てはいけないものを見てしまった気になった。腫れた赤みに囲まれた無邪気さは、秘密をのぞき見た罪悪感に通じる。


「ありがとうございました」


 少年が久我に頭を下げ、あっけなく走り去っていく。夏海の凝視はまだ続いていて、ふりむいた久我と目が合う。


「お騒がせしました」

「いいえ。あの子にはお金を」

「子供に金を与えるもんじゃありません」

「その犬は」


 夏海が訊くと、久我が棚の上を見あげる。


「捨てられた犬を拾って、かわいそうだからって隠れて飼って、面倒を見きれずに死なせたんでしょう」

「そうですか」


 夏海は胸のつかえを感じている。さっきの罪悪感をみずからの言葉で打ち消したいという、漠然とした期待がある。それでも久我の姿は言葉を拒絶しているようで、実際そうなのだろうと思う。久我の仕事は人の暗部、ひいては死をも担う。その役目をなめらかな黒衣にひそませている。


 これ以上の踏みこみを久我は嫌うだろう。夏海は立ちあがると、久我に頭を下げた。


「お世話になりました」

「いいえ」


 そう言う久我の笑顔は、またしても夏海自身のものだった。



 夏海がビルから出ると、通りの眺めは一変していた。店が開かれて人が行き交い、それぞれの歩みが目的の群像をなしている。もの言わぬビルの並びと、その間を動いていく人たちの対比が心地よい。ブティックのウインドウにはすでに夏ものが並んでおり、ガラス面に春のぬくもりがうつりこんでいる。


 夏海はブルゾンのポケットに手を入れて通りを歩きはじめた。こんな動作はきっきまで忘れていた。眺めもそうだが、身体も軽い。夏海の歩みに風がしたがい、髪の隙間からあたたかみを忍ばせてくる。


 脳の片隅に久我の力を感じる。久我は夏海を悲観から強引に連れだして、このにぎやかな通りに戻してくれた。記憶を取り去り、かわりに新しい感受性を植えつけてくれたのだ。不思議だが、確かな結果だ。魔法のよう。


 もう記憶にわずらわせられずにすむ。それだけでも自然と笑顔が生まれ、銀座の表通りに似つかわしい歩き方ができるようになった。



2

 革素材に光が触れ、春の輝きをにぶく変えている。


久我はソファに腰をかける。腕を伸ばして背にあずけ、最適な姿勢をさがしていく。仕事のあとはこうしてひとりきりで座るのが決まりだ。


 久我は自分の店を見渡す。どこからか流れてきたのかわからない物があふれ、どこにいくのかわからない物で埋まっている。久我が中古品ばかりを扱うのは、新品に愛着がわかないせいだ。手の汚れや人のぬくもり、感触がしみこんだ品物こそ、久我の範疇に属する。記憶はその極みだ。記憶という、人間のうみだす混沌の極地に久我は存在を得て、ひそかな欲望の隙間を渡り歩いてきた。


「〈再生〉」


 言葉は久我自身への暗示にすぎない。瞼を閉じて意識に潜る。久我に移ったとはいえ記憶は記憶のままだ。久我自身が思いだそうとすればいつでも認識できるし、時間も関係ない。膨大な量ですら脳に広がるのは一瞬のできごとに過ぎない。


 久我自身、どんな記憶を買い取ったのかを知っておかなければ商売にならない。簡単な選別のためにも見ておくのが常だった。


 それにしてもあわただしい朝だった。一度に三人もの記憶を買い取ったのだ。


 最初は恐怖に耐えきれなくなった青年だった。記憶というよりは、妄想がふくらんでしまって神経が根をあげたという方が近いだろう。これは事実の付随がない記憶だから、精神病志望者が喜びそうな品物だ。


 そして次。


 久我は目を開いた。身体が前屈みになり、手をついてしまう。記憶の断片が意識の上にあがってきて、体感神経に影響をおよぼしている。夏海の記憶だ。余韻が脈拍をはやめ、内蔵のはたらきを狂わせる。認識できるとはいえ久我には初めての記憶だ。脳は受けいれているのに、身体が記憶に沿った動作を拒否している。


 映像が久我の五感にさまよいだす。幾多もの夜の声、謀略の羅列をしめす数字、病院のリノリウム廊下の冷たさ、金属の輝きに書類一枚の裏切り、そして男性の背にうつる別れの影。


 久我は夏海の瞳を思いかえす。この部屋に入ってきたときの苦悩ぶり、話の途中で見せた涙を思いだす。


 話を聞いただけだったら、よくある話だと同情までで済ませるだろう。だが久我は自分自身の体験とおなじ水準で夏海の記憶を持っている。夏海の痛みを知り、絶望を引き受けた。あるはずのない器官が喪失の嘆きをあげている。


 夏海はどこにでもいる普通の女性だ。ただ人の話を信じやすく、自分自身の価値をさげすむ傾向がある。人目を引くぐらいの顔だちをしているのに、それを磨こうともせず影に入ろうとする。だからあんな男に騙されたのだ。


 あの数字の羅列。夏海の知識では追いつかないが、久我には見るだけでも危険なものだとわかる。取引などできるはずがない。夏海は男に愛を語られ、利用されるだけ利用されて最後には責任をとらされた。会社を追われ、最愛の男に捨てられ、堕胎の果てにみずからの身体まで傷つけた。


「たしかにひどい」


 言葉にすることで客観視できるようにつとめた。久我は首元のドッグタグを探りあて、きつく握りしめる。女性の記憶は得意ではない。あまりに久我の身からかけはなれた感覚のせいで、自分がどういった人間かをなくしそうになる。


 溜息が出る。この記憶は鮮明すぎる。持ち主を求めて身体中をめぐり、神経にとりついて傷を再現しようとしている。


 記憶も生き物というのが久我の持論だ。嘘もつくし、忘れさられることをなによりも恐れる。夏海の記憶は新しい主になじまず、必死になっておさまる場所を探している。


 時間が必要だと久我は思う。時間がたてば記憶と感触が乖離し、商品のひとつになる。

 部屋の雑然ぶりが、さしこむ光ににじんでいく。



 買い物袋を両肩に抱えたまま玄関を通ろうとしたが、つかえてしまう。しかたなく夏海は袋の半分を降ろし、二回に分けて部屋に運んだ。最初のうちはショップの店員も大きい袋にまとめてくれたが、いくつも回って袋が四つを過ぎたあたりからなにも言われなくなった。夏海自身おかしいのは承知している。だけれどもこの衝動を、高揚を表現するには買い物が最適だともわかっていた。


「ただいま」


 誰もいない部屋に挨拶をするのは義務と儀式だ。部屋は狭く、最初からひとりでいることを想定されたつくりだ。閉めきった部屋には春の熱がこもっており、夏海は窓を開けた。東京タワーを中心とする都心の眺めがあり、白くかすんだビルの合間を高架が網羅している。


 そういえば、ひさしぶりに窓を開けた気がする。今朝までは陰鬱とした気分が夏海を外に向けさせず、家の中で時間の経過だけを感じていた。時間の音は秒針の音であり、時たま隣人が立てる生活の音だ。


 夏海は窓枠に腕を置いて顔をもたせかけ、都会の動きを聞く。エンジン音、クラクション、樹木のざわめきの混じりあった響きが、にぶく鼓膜に触れる。


 久我の力はいまだ残り、夏海の意識を支えつづけている。考えれば考えるほど不可思議な力だ。どうやったらこんな変化が、意識の切りかわりと心の平穏が訪れるのだろう。


 そして久我の人となりだ。こうしていても、思い出すのは店中を埋めつくした色の洪水ぶり。スーツに描かれていたなめらかな影と時間、物腰とおさえた喋り方、印象に染みついた香り。意識だけが立場を超え、葬った記憶のかわりに久我をなぞらえつづけている。


 コンクリートの群像に烏がいるのが見えた。


 羽を広げて飛びたち、影をはばたかせる。



 一日のほとんどを店で過ごす久我にとって、買い物は遠征に近い。商売上の用事はあの部屋だけで済んでしまうから、外せない用件をいくつかためこみ、かつ期限ぎりぎりまで追いたてられてはじめて外出する。


 そして今、久我は両手に紙袋を抱えて階段をのぼっている。食料品の買いだしもまとめておこなうために、毎度後悔する羽目になる。三越から店までは十分とかからないが、久我のいでたちとふくらんだ紙袋の組みあわせは通行人の目をひきすぎた。銀座はもともと住むためにつくられた街ではない。日常を忘れるための街であり、繁栄を特化した街だ。


 階段をのぼりきって店の前までたどりつく。紙袋をおろすと、塊となった埃が風の動きをなぞる。


 鍵を取りだそうとして、扉のそばに立てておいた錘が倒れているのに気づいた。久我は把手に手をかけて、中から見えない位置から開いてみる。反応はない。


 隙間から部屋の中をのぞきこみ、そこで見つけた。


 男が倒れている。入り口から少し中ほどに入ったところにうつぶせに横たわっている。久我は肩をすくめた。泥棒や強盗にしては、まったくの初心者だ。防犯仕掛けの一番最初、ピアノ線で作った罠にひっかかって転んだらしく、完全に意識を失っている。運がいい。もう少し行けば腕の一本でもなくしていたところだ。


 久我は回りこんでいき、男の顔を見る。細面が気を失ってだらしなく床に密着している。身なりはいいが、その良さを露骨に誇示する着こなしだ。しまいこんでいた記憶よりも先に川添という名がよみがえってきた。夏海の記憶に出てきた男、会社の同僚であり、夏海を利用して捨てた男だ。


 力のない背中に部屋の影が落ち、緻密で乱雑な図形になっている。久我はしゃがみこんで、川添のポケットの中身を探しはじめる。財布は広げただけで戻し、免許証は夏海の記憶との突きあわせにだけ使った。夏海は抜群に記憶力がいい。本籍の場所から目尻の皺まで実物と一致している。


 スラックスのポケットからナイフを見つけた。つややかな赤地に白抜きで十字が記されている。刃は小ぶりだが、うまく使えば充分に人を脅しつけられる。それでも、子供だましのような仕掛けに引っかかる人間が人を脅す技術を持っているとは思えない。


 おそらく、川添は久我に会いにきた。理由は夏海とあの数字の羅列だ。誰かにとっては幸福の並びであり、他のだれかにとっては不吉のそれ。夏海を見張っていた川添は彼女が久我の店を訪れたのを知り、その数字が売り渡されたものだと思っているのだろう。


 川添が罠にかかった瞬間を想像すると自然に笑みが浮かんでくる。久我自身、夏海へのあわれみなのか、夏海に影響されているせいなのかはわからない。


 夏海の記憶は久我の神経にくらいつき、一瞬にしろ久我を支配した。久我と夏海の違いは、川添にたいする確執の出どころだ。夏海のそれは追慕ゆえの執着であり、久我の執着は夏海への親愛を基礎にしている。こんなにまで規格から外れた記憶ははじめてだ。意識上に出しているわけでもないのに、異様ともいえる重みが神経を情につないで離さない。


 ナイフの柄で川添の頭を小突くと、身体がわずかに動く。


「これは鍵の修理代にいただいておくから」


 立ちあがりかけて、修理代がわりならもっといい方法があると久我は思いなおす。運搬代も必要になっていた。なにせ紙袋よりはるかに重い身体を背負って階段を降りなくてはならないのだ。


 夏海とそして彼女の記憶は仕事と立場を超え、久我に影響を与えはじめている。みずからの笑顔がどんなものかを知っていれば、夏海はこんな男につかまらずに済んだはずだ。


 勝手なものだと思う。一度しか会っておらず、それも客であった女性の価値を理解できると思いこみ、あまつさえ所有を望みはじめている。


 久我は川添の頭に手を伸ばし、頭蓋骨をつかむ。



椅子は部屋全体が視界に入る場所に置くことにした。ここなら落ち着くし、観葉植物をかすめてわずかながらの空も見える。


 夏海は香水をひと吹きして鏡台に置き、慣れた眺めに新しい形を加えた。香水は白檀を使っており、かすかに花の匂いが混じる。音が欲しくなり、モニタの電源を入れた。放送協会の若いアナウンサーが緊張した面持ちで午後のニュースを読みあげている。


 この一週間で、夏海の部屋はだいぶ変化した。それまで狭くなるからと道具とリネン類は白で統一し、家具も必要最低限しか置いていなかった。人からもらった小物でさえ、邪魔になるからと切り捨ててきた。今思えば病室のようだった。


 時間の過ごしかたも変わり、仕事を辞めて毎日のように家にいる生活を夏海は楽しめるようになってきた。なにもしない時間が幸福だという新しい価値観を知り、冗談めかして自分を楽観視できる余裕も出てきた。いま焦って新しい仕事を探さなくても、はじめたくなってから探せばいいことだ。


 肘掛け椅子は赤く、なめした革とひかえめな艶を持っている。座ってみると背骨に背面がよりそってくるようだ。久我の店にあったイームズとまではいかないが、心地よさは似ている。背を伸ばすと、かすんだ東京タワーが見える。春の陽ざしに絡む首都高がうかがえ、都会の重なりが遠い光に溶けこんでいる。


 こうしてみると、無意識のうちに久我の姿勢をなぞらえているようだ。あの店には赤い色が多様されていた。昭和の名残、経てきた歴史の道程、人々の忘れられた側面の集まり。その赤が乱雑に散らばっているさまは火のように感じられ、ひいては夏海自身の活力の代名詞となったのかもしれない。


 折り重なった郷愁たちの中で、久我は夏海の悪夢を取り去ってくれた。夏海にはわからない。この変化が悪い記憶を除いてたどりついた結果であるのか、それとも久我という人間そのものに感化されたのか。


 夏海はこれまでに何度か久我に連絡をとろうとしてみた。さしたる用件はなく、連絡をとってどうしようというほどでもない。願望と高揚感が拮抗して、根拠のない熱意になっている。だがどこにも電話番号は載っていないし、どんな検索をしても久我の店は出てこない。用心と配慮が抜け落ちているのは夏海自身よく自覚している。


 わずかに開けた窓から乾いた風が入りこんできて、暗く傾きかけた考えをあたためてくれる。


 おかしな話だと思う。たった一部分の記憶、脳の働きの欠片を買ってもらっただけで、久我が一番の理解者のように思え、同化したように感じられるなどと。


 銀座という言葉にひきもどされた。見るとモニタに銀座の画像がうつしだされている。久我の店は、あの通りをまっすぐ行って首都高の下を曲がった場所にあった。画像が移り、路地裏に入る。黄色いテープが日常と非日常の境界線を示し、奥に警察官が立っている。殺されたのは、と声がつづく。


 夏海は目をそらしかけて、また戻す。被害者としてうつった男の顔を夏海は覚えていた。久我の店で、夏海とすれちがいざまに出ていった男性だ。


 夏海は立ちあがり、モニタに近づいた。画像は消えてしまい、アナウンサーの笑顔のあとに気象情報を流しはじめる。


「うそ……」


 わけもなく鼓動が速い。一瞬しか見なかったが、まちがいなくあの男だった。急いた身振り、目の奥に階段がうつりこんでいた様子まで夏海は覚えている。殺されたと言っていた。


 ふりむくと肘掛け椅子の赤い色が久我の店と重なり、夏海をけしかけてくるようだ。


 久我とは関係がないのかもしれない。だが、男も夏海も久我に記憶を買いとってもらった。かすかなひっかかりはそこにある。買いとられた記憶が原因になって男性が殺されたのだとしたら。ただのめぐりあわせに過ぎないとしても、逡巡をおさえられなかった。


 夏海は目眩を思いだす。脳にできた空白が、存在を求めて血をめぐらせている。

 久我に会わなくてはいけない。会って、それからどうすればいいのかわからない。わからないが、久我の顔を見てから考えようと思った。


 さきほど置いたばかりのバッグをつかみ、夏海は玄関を目指す。



3

 春の午後は暖かく、ぬめりを持った風が皮膚にまといつく。


 夏海は銀座の町並みを背にしている。過剰な色が広告と看板の宣伝文句になり、雑踏の合間で消費をうながしている。フェラガモの店先に立っている男性がみずからマネキン役を担う。会社員の群れはダークスーツの塊のようだ。若い女性の脚は一様にまっすぐで、春の色を服装にとりいれている。


 平日だというのに人通りが多く、急ぎ足はどうしても流れをさまたげてしまう。夏海は早々に裏通りに入ることにした。


 人が少なくなったせいでさらに早足になる。靴音が鼓動に拍車をかけ、意味のない動悸になる。店先で水をまいていた寿司屋の男性に、あわてて柄杓を引っこめられてしまった。


 久我の店が見えてくると夏海はようやく足をゆるめた。商売気のない店がまえだから、注目していたとしても見逃してしまいそうだ。


 反対側からやってくる少年に夏海は目をとめた。うつむいたまま腕になにかを抱え、久我の店を目指している。顔を見なくてもすぐにわかった。夏海が記憶を買い取ってもらったとき、仔犬を死なせたと店に入ってきた少年だ。


 少年の腕から、白い毛玉のようなものがはみだしているのが見える。


 夏海はそこですべてを理解できてしまった。記憶を消されたときの少年の表情を、見てはいけない無垢を思いだす。あの無垢は、子供ゆえのものだ。子供ゆえの自己中心的な正義であり、研ぎすまされた残虐だ。


 おそらくあの少年は捨て犬を見捨てておけないのだろう。拾っては手にあまって死なせてしまい、悲しさに耐えられず記憶を消してもらう。そしてまた少年は新しい捨て犬を見つけ、飼いきれずに死なせ、記憶を消され、延々とおなじことをくりかえす。後に残るのはうちすてられた仔犬の屍骸と、久我にとどまるいくつもの悲しみ。


「待って」


 夏海が声をかけると、少年が立ちどまる。夏海を覚えていないらしく、あからさまな警戒感がある。


「あなた、久我さんの店に行くんでしょう」


 言うと少年が頷いてよこす。夏海は少年に近づいて腰をかがめた。

 少年が腕に力をこめる。いまや夏海には生気を失った白い毛並みがはっきりと見えている。


「その子、どうしたの」

「内緒で飼ってたんだけど、死んじゃった」


 過去とおなじ表情、おなじ言い回しだ。理解に確信が追いつく。何度めかわからないが、少年は無意識のうちに終わりない犠牲の連鎖を紡いでいる。


 夏海は少年の腕をつかみ、力をこめる。


「だめよ、忘れちゃだめ」


 思わず言葉が口をついていた。


「あなたは優しいのね。かわいそうだから、仔犬を拾ってあげた。でも、今の気持ちを忘れたら、また仔犬を内緒で飼おうって思っちゃうでしょう。つらいことを知っていれば優しくできるから、悲しいことも忘れないで」


 少年の瞳が夏海の両目を交互に行き来している。泣きはらした少年の目は充血しきっていて、夏海のうつりこみを血に縛りつけるようだ。


「今の、悲しいって心を忘れなければ、次にきっと仔犬を救ってあげられる。今度仔犬を拾ったら内緒にしないで、きちんとお父さんとお母さんに話して」

「でも、ママがだめって言う」

「だめって言っても、大人なんだから。君と一緒に、きちんと飼ってくれる人を見つけてくれるはずだから」


 少年はうつむいて考えこみ、しばらくするとわずかに頭を下げた。


「この子はわたしが預かって、ちゃんとお墓に埋めてあげる」


 少年が頷き、仔犬を夏海に差しだす。夏海は小さすぎる死骸を受けとり、少年の頭を撫でた。笑顔をみせようとするが、少年に届いているかはわからない。


「その子をお願いします」


 少年が頭を下げた。夏海も立ちあがって礼をする。


「約束します」

「さよなら」


 そう言って少年は夏海に背を向ける。もしかしたら、少年は夏海の言うことをきいたのではなく、やりすごしただけかもしれない。やりすごして、またおなじ轍を踏むかもしれない。


 夏海が信じるしかないのだろう。少年が悲しみを乗り越え、失敗をくりかえさないでくれると。


「さよなら、元気でね」


 駆けていく少年に手を振る。姿が消えるまで待ってから、夏海は仔犬の骸を見つめる。薄汚れた体毛は艶がなく、わずかに開いた目には死が濁っている。前回とおなじだ。このむなしさは何度感じても慣れない。


 久我の店に通じる扉を開けようとして、夏海はたちどまった。夏海のうつりこみが掏りガラスに濁っている。死の濁り、仔犬とおなじ濁りだ。


 目眩がする。神経接合になにかがひっかかっている。なくした記憶を探し求めて、脳が異様な働きをしているのがわかる。少年に向けた言葉は、そっくり夏海自身にもあてはまるのではなかったか。


 忘れないで。


 夏海は扉を開ける。歩きだし、階段にたどりつくころには駆け足になっていた。高揚が脳で鼓動をうつ。勢いを保ったまま店のドアを開け放ち、そこでようやく足をとめた。


 久我がいる。ソファに腰をかけ、バターナイフを手にしている。前回とおなじスーツ姿で、その漆黒ぶりは室内の影を集めたようだ。


 久我の目は夏海を見ており、視線に夏海の勢いが終結してしまう。何とおりもの再会の仕方を想像していたのに、どれもあてはまらない。おまけにまたノックまで忘れた。


「いらっしゃい」


 夏海が腕に抱えている仔犬にも、とうに気づかれているはずだ。それでも久我は夏海に会釈をし、笑いかけてくれる。


「どうぞ」


 夏海はドアを閉めて、久我に向かって歩く。この店の煩雑さは夏海の感覚に定着しており、赤い色がなつかしさを重く訴えかけてくる。どれもが覚えているままだ。積みあげられたペーパーバッグも、何の役に立つかわからない玩具も、道具に宿った時間の名残も。


 久我が隣を示してよこし、夏海は腰をおろす。見るとソファの肘掛けにフォイル包みがひとつ置かれている。久我はフォイルを開け、バターナイフでチーズらしき欠片をすくいあげた。


「松坂屋の地下ですすめられましてね。ベルギーの直輸入ものらしくて」


 欠片を口に運ぶと久我はあからさまに顔をしかめ、


「だまされた」

「あの、わたしの記憶、もう売れちゃいました?」


 夏海の問いに、フォイルを元にもどしながら久我はかぶりを振った。


「買い戻すってできますか」

「できますよ」


 久我が手を伸ばしてきて、夏海の膝に横たわった仔犬の死骸に触れる。細くそれでいて力の感じられる指だ。仕事ぶりの証が、細かい切り傷となって刻まれている。


「彼はまた犬を死なせた」

「ええ、わたし、えらそうに説教なんてして。でもおかげで、記憶を買い戻そうって思ったんです」

「どうして?」

「うまく言えないんですけど……わたしは子供と一緒なんです。痛い目を忘れてたら、おなじことをくりかえすだけだって」


 久我が仔犬から手をはなして、夏海を見る。夏海の意識は突如として羞恥に傾いてしまい、頬が熱くなる。


 近すぎる。夏海はどこを見ていいかわからず目をさまよわせ、久我の首からのぞくタグに行きついた。浮き出し加工のアルファベット文字が経歴を刻んでいる。数字は生年月日であり、生まれがひとつしか違わない。夏海は意外に感じてから、みずからがそう感じたことに違和感を覚えた。


「忘れていた方が幸せかもしれない」


 訊かれて、夏海はようやく久我の目を見られるようになった。


「不幸を忘れたら、幸せがどういうものなのか解らないから」

「わかりました。そう言えるなら大丈夫」


 久我が前とおなじように夏海の頭に触れてくる。


「お返しします」


 夏海は身をかたくして、来るべき未知の自分に備えようとする。一筋のひらめきがあり、脳神経の奥ではじけとび、飛沫が神経接合に降りかかる。遠く筋肉がきしむような音をあげる。抜け落ちていた経験にしたがって、身体の規則と思考の配列があわさっていく。


 わかっていた。夏海自身がなくすことを望んだのだから、ひどい記憶なのは予想していた。なんという侮辱、なんという痛み、みずからの身体を、心をも代償にした。 


 抑えようとする前に涙が出ていた。


「久我さん、わたし……」


 久我が首を振って、それ以上の言葉をおしとどめる。頬に久我の指が触れ、夏海はその暖かみに震えた。


 過敏になった感覚に熱がこもる。久我の瞳に夏海の涙がある。唇が重ねられ、身体中の感受性が黙りこみ、神経が静けさの虜になっている。静寂の一部は久我であり、手にこめられた力と憐憫だ。


 久我の眉毛がひそめられ、伏せた瞼が震えているのを見て夏海は理解した。久我は夏海の記憶を知り、おなじ痛みを知ってくれた。傷が瓦解していく。記憶になじんだ涙が、呵責を過去へと押し流してくれる。


 夏海は膝に乗せたままの仔犬を見る。視線を涙が追い、骸に落ちる。乾いた毛並みは涙を弾きもせず受け入れもせず、そのまま夏海の膝にたどりつく。


「この子を埋めてあげないと」


 夏海の言葉に久我は頷いてくれ、仔犬の骸を手に取る。


「いい場所を知ってます」



入り口の隣に閉められたままのシャッターがあったのは夏海も覚えていた。てっきりやる気のない店かそれとも閉店したままのテナントだと思っていた場所で、久我が鍵を回している。重たげな音がしてシャッターが開くと、青いフォルクスワーゲンが車庫いっぱいに収まっていた。


「これも実は売りもの」


 そう言いながらも、久我は自分の所有物のように誇らしげだ。


「でも遠慮なく乗ってください」


 車庫は陽に照らされた埃とオイルの匂いが漂う。夏海は汚れひとつない車体を眺めながら助手席のドアを開けた。思ったより車内は広く、身のおきどころに迷う。仔犬はタオルにくるんであり、膝の上に乗せた。


 久我がエンジンをかけると、車は確かに息を吹きかえし、胃の底から振動がよみがえってくる。夏海は仔犬の手前、不謹慎だとは感じながらも楽しく感じてしまう。エンジン音は上品で、シートの座りごこちも申しぶんない。そして隣には久我がいて、慣れた手つきでギアを捌いている。


 ワーゲンは角を曲がり、銀座の大通りに出る。夏海はいつもと違う速さに慣れず、街を見渡してみる。完璧な春がフロントガラスを流れ、街が速度に引きのばされていく。黄色を使った広告が視界に尾を引き、夏海は立ち入り禁止のテープを思いだした。


「今日、この近くで事件があったでしょう」


 考えに久我の声が覆いかぶさってきて、夏海は驚く。そんなはずはないのに、久我に心を見透かされているような錯覚がある。自身の勝手な親近感のせいだろう。でなければ、いま目の前にいる久我が夏海の笑いかたを見せているのも説明できない。


「テレビで見ました。この前わたしがお店にいったとき、すれ違って」

「会いました?」

「はい。顔を覚えていたから、びっくりして」

「やっぱりあなたは覚えがいいんだ」


 久我はなぜか、ひどく納得した面持ちで頷いている。


「訊いてもいいですか? どうしてあの人が殺されたのか」

「彼ね、逃げまわってたんですよ。どうしてだかは私もわからないんだけど、ヘマをやらかして怖い人たちにつけ狙われるようになった」


 車が角を曲がり、路上駐車だらけの通りにさしかかる。


「そのうち彼も覚悟を決めたんでしょう。逃げられないとわかって、私に記憶を売りにきたんです。どうせ殺されるなら、残された日をおびえて暮らすよりも有意義に過ごしたいと言って」

「警察には」

「彼は人を殺して、その怖い人たちに匿ってもらってたんです。よけいに逃げ場がなかった。恐ろしかったんでしょう。私の買った記憶、ほとんど妄想みたいでしたよ。いろんな殺されかたをしてて」


 夏海はいぶかしげに久我を見てしまう。記憶は記憶であって、妄想とは違うのではないのか。顔に出てしまったようで、久我がわずかに笑い声をあげる。


「記憶というのは、イコール事実じゃない。嘘もつく。都合のいいように姿も変えるし、思いこみや願望が記憶になる場合もある。だから彼は、どうしてかわからないうちに殺されたでしょう。望みどおり」


 夏海はなにも言えなくなり、久我を眺めるだけになった。あずかりしらぬ世界の話で、夏海にとってはこの先も関わることのない境遇のたぐいだろう。


 久我の横顔は駐車車両をよける動作に没頭しており、殺された男についてそれ以上言葉はない。久我の武器は意思と振舞いだと夏海は理解している。人の恐怖や妄想、果ては絶望まで内包して人の暗部を糧に生きていく。生半可な神経ではもたないだろう。


 そこで夏海は久我の歳について違和感を覚えた原因がわかった。久我の髪は、夕暮れにさしかかった光の中にあってなお白い。脱色しているのではなく、本当に白いのだ。夏海の違和感は、歳についてではなく若々しさを残す顔つきと白毛との差異だった。


 進行方向の先、ビルの合間に、首都高の看板が見えてくる。




4

 荒川の河川敷に案内された。夏海にとってはじめての場所だが、こういう風景はよく知っている。広い川のこちら側と向こう側に、おなじような眺めがある。頑丈なつくりの橋が何本も架けられ、鉄でできた模様の奥を列車が走っていく。


 堤防に沿った樹木の並びは桜だろう。ふくらみかけた蕾が、日々増していく春を待っている。


 夏海は久我について歩いている。アスファルトで舗装された道は狭く、ときたま自転車とすれ違う。久我が道を譲るたびに相手が頭を下げてくれる。


 夏海はここまでの道程を思う。ワーゲンは夏海の知らない道を走り、覚えのない坂を下った。めまぐるしく変わる景色を眺めながら、ふたりはさまざまなことを話した。主に夏海がかかえていた疑問であり、久我はこころよく答えてくれた。


 なぜ記憶の売買をはじめたのか、辛くはないのかという夏海の問いには、覚えがないと言った。久我は自身の記憶をあまり持っておらず、気がついたときにはこの仕事をしていたという。


 人の記憶を容れすぎたせいか、それとも自身で忘れるように仕向けたか。久我は首に下げたタグを示し、久我自身を証明するものはここに刻まれた名前と生年月日ぐらいだと言った。そしてこうつけくわえる。夏海のような強い記憶力の持ち主には、浸食されることもあるのだと。現に夏海の記憶は久我に影響を与え、振舞いの一部が夏海と似ているという。夏海は久我の笑顔を思い浮かべる。夏海とおなじ過程をたどる表情はそのせいだった。


「ここです」


 久我が橋脚の影を指す。急な斜面にとまどっていると、久我が手をとってくれた。


「気をつけて」


 革靴を履いていながら、久我はやすやすと芝生の坂を下っていく。夏海はほとんど久我に寄りかかるようにして歩きながら、さっきの拍動を思いだしてしまう。そしてその合間、緊張の裡に、確実にめばえた安堵がある。


 はじめはモグラかネズミかが掘った跡だと夏海は思った。地面が小さく盛りあがり、いくつか寄りあつまっている。その上に枝のような切れ端が立てられていて、夏海はようやくここが墓場なのだと気づいた。


「こんなに」

「でもきっと、これで最後になる」


 久我がしゃがみこみ、手で土を掘りはじめた。夏海も倣って土に手をつける。川べりの土壌はやわらかく、夏海の力でも掘るのはたやすかった。ローファーが汚れ、爪の間に土が入りこむが、仔犬への慕情が鈍感にさせている。


「あなたには感謝しないといけない」


 作業に執心しながら久我が言う。


「私も忘れていました。子供に同情して、言われるまま記憶を消しつづけるだけだった。そのたびに犬を埋めに来て、自分が背負えばいいと思いこんで」

「でもわたし、久我さんの仕事の邪魔をしました」

「仕事と思っていたからいけなかったのかもしれないな」


 久我が手をはたく。


「さあ、これでいい」


 夏海はタオル地をめくり、仔犬の顔をのぞきこんだ。いまや死後硬直がはじまっており、目も眼窩から落ちくぼみはじめている。毛並みもすでに水分を失いきっており、白く冷たい死の塊になっている。夏海は仔犬の骸をタオルにくるみなおし、穴の底に横たえた。


「心の静寂を」


 久我が隣で呟く。


 それからふたりで土を戻していった。タオルはすぐに見えなくなり、墓地に新しい列が加わる。夏海は形式だとは思いながらも、手を合わせた。


 久我がどこからか枝の切れ端を見つけてきて、盛り土に立てる。そして川の方に向かっていき、夏海に手を招いてよこした。


 影を出ると陽にさらされる。川は広いせいで流れがゆるく、午後の光を砕きながら運んでいく。眩しさに目を細めると、久我が川に手をひたしているのが見えた。夏海も水に触れてみる。ひんやりとした感触が、手にこびりついた泥と情を荒い流してくれる。向こうがわで野球に興じる子供の歓声が流れに漂うようだ。


「そういえば、川添さんが私の店にいらっしゃって」


 あくまで自然に久我が言うので、夏海の方が驚くはめになった。久我は対岸を眺めている。瞳に、水の流れが艶を持つ。


「何をしに」

「防犯装置に引っかかって気絶してたから、なにが目的だったのかは知りません」


 知らないのは嘘だと夏海は思う。夏海の記憶を知っているなら、数字がその目的だとわかるはずだ。川添に言われるまま顧客の数字を並べかえ、その発覚と引きかえに会社を追われた。川添はその数字を切り札にして地位をあげ、頂点への道筋に到った。それでも久我のおかげで、自分が愚かだという解釈が自嘲にならずに済んでいる。


「ただ勝手に店に入られた見返りに、記憶を少しばかりいただきました」

「記憶……」

「仕事のやり方を全部忘れてもらいました。いまごろ会社で大恥ですよ」


 久我は気取った顔を見せる。子供のような狡猾さが、真剣なまなざしに隠されている。


「いい気味だ」


 久我の物言いに、夏海は思わず吹きだしてしまう。久我も笑いだしていて、人目をはばからずに笑いあった。久我が先に立ちあがり、夏海を手助けしてくれる。久我をかすめて空が見え、青く冷たい逆光に意識が冷える。


「わたしのために?」

「嫉妬したのかも」

「え?」

「帰りましょうか」


 久我が歩きだし、陽光が黒衣にたどりついて光沢を担う。この風景に久我のいでたちは異様に見えるが、久我にはその異様こそが必要なのだと夏海は理解した。黒と白の対比は、久我の立ち位置と生きざまの証だ。


 久我は仔犬たちの墓を、つくりあげられた死の並びを見ている。同時に、その死を看取ったことを久我自身の記憶として刻みこんでいるのだろう。


 わずかな風があり、夏海の髪を景色に迷わせる。


「あなたなら、私を覚えてくれている」


 久我の言葉は夏海の意識で形になる前に散ってしまう。夏海は久我の背中をめざす。久我の言葉が、自分の希望として実を結ぶ。


「久我さん」


 久我がふりかえる。太陽の反射がきつく、表情はわからない。


「わたしを、あのお店で働かせてもらえませんか」


 歓声が響く。不安になり、夏海はせきたてられるように歩いた。光の角度が変わり、風の凪ぐ方向が変わる。久我に触れられたときの暖かな静けさがよみがえってきて、たしかな記憶の土台になる。


 久我は笑っていた。


 夏海がはじめて見る、久我自身の笑顔だった。


「じゃあ、あのソファは売らないでおきましょう」



 この通りが通勤路になった。


 夏海はシャッターが閉められた人気のない眺めを歩いている。銀座の目覚めは遅く、街を独占している気分になれる。頭上には首都高が走り、エンジン音が絶え間ない流れになっている。


 ビルの間から差しこんでくる光が、夏海の靴に艶となる。冷えた春が肌にさわるが、今では気にならなくなった。誰も夏海を追いたててはいない。夏海自身を押しつぶそうとしていた記憶は、時間と久我というふたつの魔法を経てひとつの過去になりつつあった。


 ワーゲンのおさめられたシャッターを通りこして、剥げかけた店の文字を見る。書きなおそうかとも考えるが、これはこのままでよいのだろう。こういう華やかな場所にあってこその影のような存在が、久我の役割だ。


 扉を開けて階段をのぼっていく。コンクリートの壁は湿気じみ、長い時間を罅にとどめている。差しこんでくる光に埃が混ざり、廊下と階段にやわらかな線を走らせている。絶望の道のりは緊張のそれになり、今ではわずかな希望に成長している。


 店のドアが開いているのは、久我の配慮だろう。


 覗きこむと久我がいた。いつものスーツ姿でペーパーバッグを手にし、内容に集中しているのか窓の鍵に手を置いたまま動きをとめている。膝があのソファにかけられていて、微動だにしない。赤く埋めつくされた部屋の中にさまざまな記憶の形とそれを統べる久我がいる。


「久我さん」


 夏海が声をかけると久我はようやくペーパーバッグから目を離した。


 懐かしく新しい表情で、久我は夏海を迎えてくれる。


 店の中、未来の記憶に、夏海は足を踏みいれた。




 終

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