ココロ二花ヲ
その花は、優しさと共に咲く。
1
1999年、10月。
人類が滅亡するはずだった年の夏が過ぎ、季節は紅葉の深まりを随所に感じられる秋に変わっていた。日中は時折、薄着一枚で過ごせるくらいの暖かい日もあったが、夜になれば連日肌寒さを感じる時期になっていた。
大昔の予言者の言葉が火の消えた竈のように人々の頭から熱を失って忘れ去られていく一方で、『2000年問題』という別の言葉が新たな不安の種として大衆の心の中で芽吹き始めていた。
幸福を想像するよりも不幸を予測する方が、人間にはずっと簡単な事ではないだろうか?
およそ『2000年問題』とは縁の無さそうな、どこもかしこも似たような造りをした閑静な住宅街を巡回しながら、桜井はふと柄にもない想像力を広げていた。
都心よりだいぶ離れた、都心で働く者の為に作られたベッドタウン。60年代の高度経済成長の始まりからバブル崩壊までの間、値上がりし続ける都心に手が出せず、しかし働く場所を都心にしか求められない者たちの、血と汗が築き上げたささやかな邸宅たち。
しかしそれらは、桜井にとって新設された派出所に配属されて半年間、飽きるほど眺めてきた退屈な風景でもあった。
ただ、別段仕事に冒険や高揚感を求める事もなく、どちらかといえば淡々と仕事をこなす、ある種の人間からすると非常につまらない、もしくは人生を楽しんでいないと言われる部類の人間だと桜井は自覚しており、退屈である事を悲しいと思った事はなかった。第一、興奮やロマンの日々とかいうものに、一体どれだけの価値があるのか桜井には分からなかったし、そもそも価値は相対的にしか分かりえず、退屈があってこそ興奮があるものだと考えていた。
どんなに努力したって、成功しない事もある。
どれだけ想像力を膨らませても、予測できない事もある。
結果こそ、現実こそ、すべてだ。
桜井は大きく息を吸い込み、頭の中の独り言を止めた。
吐いた息が、わずかに白かった。遠くから、微かに救急車のサイレンが聞こえた気がしたが、耳にはめた警察無線のイヤホンからは何の連絡もなかった。
今日もまた、何事もなく夜が明けるだろう。
先月、駅二つ離れた繁華街の外れで帰宅途中の若い女性会社員が通り魔に襲われる事件が起きたが、桜井の配属されている派出所の管轄内では、これまで大きな事件は発生していなかった。
10代の子供達が集まる遊び場は無いし、酒を出す飲食店も少なく、ネオンサインの煌めく場所でも無い、よそ者が来る事も滅多に無い静かな町――。
この町では放っておいても犯罪が起きるとは思えず、派出所の存在する意味も薄いと感じていたが、桜井にとっては周りの状況がどうであろうと、やっている事に意味があろうと無かろうと、関係なかった。
今目の前にある状況を冷静に理解し、与えられた仕事を的確にこなし、余計な事は考えない。それが自分に与えられた完全な縦型管理社会である警察機構で働く警察官としての役目だと思っていたし、また、3年前の『事件』を経て心に深く刻まれた信条のようなものであった。
2
「何をしているんだ、こんな所で?」
桜井は引いてきた自転車のスタンドを立て、声をかけた方へゆっくりと歩を進めた。
その先に、大きな花の鉢植えを抱えたままベンチに座り、きょとんとした顔でこちらを見つめる、まだ幼さの残るボブカットの少女の姿があった。
少女に近付きながら、桜井は冷静に状況を把握して整理しようと、まず自分の腕時計を見た。
時刻は深夜零時を10分ほど過ぎていた。
人気の無い小さな公園で夜も遅くに女の子が一人、かなり冷え込むこの時期に、しかも鉢植えなんか抱えて一体何をしているのだろう?
目に入ってきた光景を、桜井は歩きながら自問していた。
「君、まだ未成年だろ?」
少女の前に立ち、桜井はいつもの事務的な――若干威圧的な口調で問いかけた。
ベージュのやや大きめなダッフルコートを着た少女はしかし、そんな桜井を見て大した動揺を見せるでもなく、ややあってにこりと笑顔を作り、
「こんばんわ、お巡りさん」
と言った。
桜井を見上げた少女の耳朶に小さなピアスが見え、公園の電灯の明かりをわずかに反射させた。
「何してるの、君?」
少女の屈託の無い声に桜井は少し調子を狂わされたが、すぐに取り直し、質問を繰り返した。
「もう、12時過ぎてるよ」
「ええ。知ってます」
少女はにこやかで無邪気な顔で答え、左の細い手首に付けている腕時計を見せた。どこかのブランド品だった。
「時計、持ってますから」
「いや、そういう問題じゃなくてね」
少女の答えに、桜井はやや苛立った。こちら側をなめているような雰囲気を感じたからだった。
「君は未成年でしょ? 夜遅くにこんな人気の無い場所にいたら危ないじゃないか。先月の事件、知らないの? それに、君はここで鉢植えなんか持って、一体何をしてるんだ?」
「えっ? 何って……。ただ、月が出るのを待ってるだけですけど……」
桜井の質問が自分にとって全く意外であると言わんばかりの口調だった。
「それが、どうかしました?」
「それがって……。あのね」
言いかけて桜井は口を閉じた。そして同時に考えた。
警官になって1年半。最初の配属先もこの町も、静かな職場ではあったもののそれなりに人間を見てきたつもりだ。話の中の嘘に気付く勘も素人より遥かに優れていると思っていた。しかし、目の前の少女は状況が状況であるにも関わらず、嘘をついている感じが全く無かった。
自分が未熟なのか? それともこの娘が上手なのか? いや、もしかすると精神的な、いわゆる心の病を持った娘なのだろうか? だが、この町の近くにはそういう施設はないし、着ている物を見ても高価でまとまりのある服装をしているし、やはりその手の人間には見えない。まして鉢植え以外に荷物も無く、家出人とも違うようだった。
桜井にとってはっきりと言える事は、時刻がすでに深夜であり、目の前に鉢植えを持った少女がいるという事だけだった。
補導すべきだろうか?
ふと、一つの答えが脳裏をよぎった。
やろうと思えば簡単だ。保護という名目で大人しく派出所まで同行してもらうか、動こうとしないなら家出人らしき少女を発見したと所轄署に連絡を入れ、パトカーを要請すればいい。未成年の深夜徘徊は充分な理由だ。まして先月所轄内で若い女性への通り魔事件があったばかりだから。
さて、どうしたものか?
すると、
「はい、これ」
思案を続けていた桜井の顔の前に、少女は手の平に収まるサイズの緑色の手帳を見せた。この地域ではかなり名の通ったお嬢様学校の名前が入った、生徒手帳だった。開いたページに、実物よりやや不機嫌そうな顔をした少女の顔写真が、『遠山凪子』という名前と共に載っていた。
3
「トーヤマ、ナギコ。17歳。住所見てもらえば分かるでしょ? 家はすぐそこなの。ほら、あの家」
凪子は左手に鉢植えを抱えたまま、桜井に向けた生徒手帳を持った右手を動かし、西の方角を指した。指の先の方向には、桜井が停めた自転車があり、車止めのある公園の入り口があり、そして細い道を挟んで住宅が見えた。距離にして、100メートルあるかないか。
「あの家、あの家。表札も出てるし、住所も書いてあるよ」
まるで人見知りという言葉を知らない凪子に、桜井は面食らい、やや勢いに押された。促される様に確認すると、確かに凪子が指差した家と提示した生徒手帳の住所は一致した。
「うん、君の家の場所は分かった。でもね、それは答えになってないよ。親御さん、心配してるだろう?」
桜井は攻め方を変えた。
が、
「うちは母子家庭。そんでハハはまだ仕事から帰って来てないよ。まあ、完全にいない日の方が多いけど。仕事だったり、彼氏とデートだったり。
結構モテるんだよ、あたしのハハって。凄いでしょ? いい歳なのに」
凪子は変わらぬ屈託のない明るさと調子の良さで、桜井を黙らせた。
しかし、だからと言ってこのまま放っておいて巡回を続ける訳にはいかなかった。いくら自宅が目の前にあったとしても、若い女がこんな深夜の寒空の下で、ただ一人で公園のベンチに座っているのはあまりにも危険だ。平和な町とはいえ何が起きるか分からないし、その何かはいつも予期せぬ時に起こるものだ。
「あのね、とにかくこのままここに座っているのを黙って見過ごす訳にはいかないよ。夜も遅いし、寒いし、一人じゃ危ないだろ?」
桜井は少し語気を荒げた。口が達者とはいえ相手は子供だ。あまりこういう態度で人を納得させたくはなかったが、時と場合による。それに、桜井は凪子のようなタイプの人間と話す事が、苦手だった。
理論よりも感情を、現実よりも空想を、規則よりも自分の気分を大事にする人間を、桜井は正直大嫌いだった。
しかし、そんな桜井の胸中など何ら気にする様子もなく、
「じゃあ、一緒にいてよ。それなら、安全でしょ?」
と目の前の少女は返した。
「お巡りさんも見たいでしょ? この花の咲くところ。綺麗なんだよー、とっても。もうちょっとで月光がここを照らすんだ!」
凪子はずっと抱えている鉢植えを桜井に向けた。白い蕾の付いた、しかし桜井は見た事のない花だった。
「月下美人! 見た事ないでしょ? 夜にしか咲かないんだ!」
「そんな事はいい」
桜井は凪子の言葉を無視した。これ以上、調子を狂わされる訳にはいかなかった。
「とにかく、家に戻りなさい。家の中からだって月は見えるし、花は咲くだろ!」
「ここで月の光を浴びながら見るから素敵なの! 家の中で見たってダメなんだよー。
それに、何でそんなに怒る訳? あたしは何も悪い事してないじゃん。納税者だよ、こっちは」
「高校生は納税者じゃないだろ」
「消費税払ってるもん」
「くっ……! いい加減にしなさい!」
厳しい声が、静まり返った公園に響いた。さすがの凪子も、少し身を引いて沈黙した。
「これ以上わがまま言うのなら、君を補導するぞ」
圧し殺した声で、無表情に桜井は言った。
これでこの娘もさすがに諦めるだろう、そう思った。
「家に戻りなさい」
「うーん……」
凪子は口を尖らせ、不服の表情を浮かべて下から桜井をねめつけた。
その不満で一杯の大きな瞳を正面から受け止め、桜井は冷ややかに凪子を見下ろしていた。この娘からは今後一切好意を持たれる事はないだろうと、ふと思った。
しかし、たとえ相手に恨まれようと、警官として、状況を冷静に分析して適切な判断を下したのなら、それで良いとも思った。そう、警官として……。
「分かったね? それじゃ……」
「10分だけ! それじゃあ、あと10分だけならいいでしょ?」
桜井をねめつけていた凪子の顔が一瞬にして変化した。少し困ったような顔をして、桜井を拝む様に両手を合わせて片目を瞑った。愛くるしさを感じさせる動作だった。
「お願い、10分でいいから。絶対、絶対約束するから! ね、ね、いいでしょ?」
この時とばかりの猫なで声で、凪子は懇願してきた。元々の可愛らしい顔立ちと相まって、される側にはなかなか効果的な方法ではあったが、桜井には通じなかった。いや、むしろ逆効果であった。
桜井は冷ややかな目で、黙って凪子を見下ろして続けていた。
しばらくして、凪子は瞑っていた片目を開けた。小さな顔に、諦めの色が浮かんでいた。
しかし――。
「なんで、そこまでして花が咲くところを見たいの?」
事務的な警官の顔の、口元の端をわずかに桜井は歪めた。微笑、というよりも限り無く苦笑に近かった。
凪子は最初に声をかけられた時のような、呆気に取られた顔になっていた。
「なんでって……、綺麗だから」
「そうか……」
独り言の様に呟き、ややあって桜井は自分の腕時計を凪子に見せた。凪子の時計よりは安い、実用性を重視したアナログ時計だった。
「きっかり、今から10分だけだよ」
4
少女のわがままを聞き入れたのは、桜井にとって気紛れではなく、心の奥に眠る、暗く深い闇のような感情が、ふと鎌首をもたげたからだった。
3年前、1996年――。
桜井は地元市内でそれなりに名の知れた進学校に通う高校3年生だった。またその学校はスポーツにも力を入れており、特に陸上部と剣道部が全国レベルの強さを誇っていた。運動部の活動に力を入れる学校は往々にして運動能力の長けた生徒を越境入学させる事が少なくなく、それによって地元中学から入部した生徒がレギュラーの座に就く事が中々出来ない事がよくあった。
桜井もまたその例に漏れず、スカウトされてきた越境入学者らによってレギュラーの座を持っていかれる運命にある、名門剣道部の一人だった。
ただ、桜井と同じ中学の出身で友人でもあった、加藤という男だけは例外だった。加藤は桜井と共に中学から剣道を始めた経験の浅い部員で、気分屋で練習嫌いな欠点を持っていたが、天性の勘の良さと恵まれた体格があり、その才能を活かして中学時代は2年生の時から団体戦のレギュラーを務め、3年の中体連では個人戦で県大会3位入賞を果たした。そしてその実力を高校でも発揮し、一般入部の部員でありながら、夏の高校総体の団体戦レギュラー候補に選ばれていた。
進学校の名門運動部のレギュラーというのは、ただ単純に運動能力を賞賛されるだけでなく、その後の進路に関しても、非常に美味しい思いの出来る立場にあった。つまり、高校の系列及び推薦枠を持つ大学への、推薦入学の権利がもらえた。
無論、そういう役得に対する欲ばかりで入部して練習に励む者ばかりではなかったが、やはり気にならない事でもなく、桜井も、ただ純粋に強くなってレギュラーを目指す気持ちの他に、その後の未来を計算する心があった。だから、仲の良い友達とはいえ、加藤に対する気持ちには心中複雑なものがあり、進路問題が身近に迫った3年生になった頃は、特にその思いは強くなっていた。
そんな高校3年の春、夏の団体戦レギュラー選考を兼ねた市民大会の当日、なんと加藤が試合会場に現れないというアクシデントが起きた。
正顧問が自宅に電話すると、加藤の母親は、息子は朝には確かに家を出たと言った。
すわ、事故にでもあったのかと、正顧問は若い副顧問に、大会場から加藤の家までの道を捜すよう命じた。そして加藤と仲の良い桜井を名指しし、一緒に捜すように言った。
その言葉に、桜井は大いに驚き、困惑した。市民大会は全て個人戦で、3年生は希望すれば全員が参加できる事になっていた。そしてこの大会での結果いかんによっては、レギュラー入りの可能性がまだ微かに残されていて、一般入部の部員たちにとっては最後の勝負所でもあったのだ。
副顧問は、桜井が3年生である事を正顧問に上申しようとしたが、正顧問は早く捜してこいと言い捨てると、さっさと会場である市民体育館の中に入ってしまった。副顧問は済まなそうな顔をしていたが、一度軽く頭を振り、早く見つけよう、とだけ言った。気を利かせた後輩が桜井の荷物を預かり、すぐ着替えられるように用意しておきますから、と言った。
同じ3年生たちからの気の毒そうな視線を浴びながら、桜井は呆然とした表情で副顧問の後に従った。
その日、加藤は結局見つからなかった。
桜井は不戦敗となり、レギュラー入りの微かな希望も完全に断たれた。
加藤欠場の真相は、最近付き合い始めた他校の女子と遊ぶ為のサボタージュだった。古い人間でもある正顧問の逆鱗に触れた加藤は、しばらくして退部となった。
しかし、怒りの収まらない桜井は、加藤を呼び出し詰問した。
自分がどれだけあの市民大会に賭けていたか、その為にどれだけ練習を積んだか、そして今、こんな結果になった事をどれだけ悔しく腹立たしいかを、拳を握り締め、目を血走らせ、声を震わせて桜井は言った。
中学からの友人の激しい怒りを、加藤は最初は神妙に黙って聞いていた。桜井の怒りの強さに、さすがに自分のした事を後悔しているように見えた。
だが、しばらくして加藤は言った。
「迷惑かけた事は、心の底から本当に悪いと思ってるよ。
でも……、あんまり真面目すぎると女にモテないぜ。もっと肩の力抜けよ、お前は。楽しくないだろ?」
一分後、桜井は加藤の左頬に渾身の力を込めた右拳を叩き付けた。
数分後、鍛えられた若い2人は壮絶な殴り合いをした。
数日後、桜井は2度と加藤と口をきかないと誓った。
数カ月後、部活を退部になったにも関わらず、加藤は要領よく学校推薦をもらって大学に合格し、消えてしまった可能性に固執し続け猛練習に励んだ桜井は、家庭の事情から進学を諦めて就職を選んだ。
気分で動く調子の良い人間を、桜井が心の底から嫌悪し憎むようになったのは、この頃からだった。
5
少女の隣に腰を下ろした桜井の脳裏に、悔しそうな表情の凪子の姿が浮かんだ。
10分だけ待つ事を許したのは決して仏心からではなく、待っても月など出ず、花も咲かず、結局は思いを遂げる事の出来ないまましょげて家に帰らされる凪子の姿を見て、ほくそ笑んでやりたいと思ったからだった。
この時の桜井にとって凪子は、切り捨てたかった嫌な記憶を思い出させた、この上ない忌ま忌ましい存在に思えた。微かに香ってくる香水の匂いもまた、桜井の暗い心を煽った。
しかし、凪子はそんな事など知る由もなく、素直に喜び、月を待つ間、間断なく喋り続けた。
学校の事、家庭の事、友人の事、最近出来た彼氏の事――。
ろくに応対しない無愛想な桜井相手に嬉しそうに喋る凪子はしかし、抱えている月下美人の鉢植えの事には決して触れようとしなかった。
聞き流すふりをして凪子の話をきちんと聞いていた桜井はそれに気付き、月下美人をどこで手に入れたのか聞いた。
すると、勢いの良かった凪子の饒舌が不意に止まり、黙り込んだ。
「どうした?」
意地悪く、桜井は続けて尋ねた。
ややあって、凪子は困ったような照れたような複雑な笑顔を作り、
「お父さんにもらった」
と小さく呟いた。
「あたしの誕生日に、お父さんから連絡があって、会ったらくれたんだ。
でも、お母さんはあたしがお父さんに会うのを凄い嫌がるから、家では彼氏にもらった事にしてるの」
寂しそうな声だった。
桜井はさすがに自分への軽い嫌悪感を感じ、
「そうか……」
とひとりごちるように呟き居ずまいを正した。
静まり返った晩秋の深夜の公園に、冷気と気まずい空気が漂った。
その時、桜井の腕時計のアラームが鳴った。
月は、まだベンチを照らしてはいなかった。
6
ピピッ、という短い電子音が数回鳴り、夜の公園に響いた。
桜井は袖をまくり、時間を確認してアラームのスイッチを止めた。
「10分経っちゃったかー」
凪子がため息をついた。
「うーん……」
桜井が横を向くと、凪子は口を尖らせて形よく手入れされた眉を眉間に寄せ、両手に抱えた月下美人の蕾を見つめていた。
蕾はまだ、開く様子はなかった。
桜井が何か言おうとした瞬間、
「よし!」
と元気な声を出して凪子は勢い良くベンチから立ち上がった。そして素早く桜井の方に半身を捻ると、
「家帰るね、約束だから。付き合ってくれてホントにありがと!」
つい先ほど見せた悔しそうな表情などどこへやら、凪子は満面の笑みを浮かべていた。
優しく、愛らしい、何の邪気も感じない笑顔だった。
桜井に軽く頭を下げると、凪子は軽快な足取りで公園西の出口に向かって歩いていった。途中で振り返り、少女は一度手を振った。
桜井はベンチに座ったまま、ただの一言も発せず、それを見送った。凪子が最後に見せた笑顔が、桜井の目に焼き付いていた。
凪子の背中が小さくなるに連れ、桜井の心の中に激しい怒りが込み上げてきた。それは、つい先ほどまで桜井を支配していた自身の暗い心への憤激だった。
桜井は自分自身をひたすら嫌悪した。
公園入り口の、切れかかった電灯の点滅がやけに目についた。頭を垂れたまま、動けなかった。
しばらくして、不意に桜井の足下が明るくなった。
桜井は顔を上げた。
月が、ベンチを照らしていた。白い満月の光は、冷え冷えした夜のベンチと桜井を、暖かく包む様に照らしていた。
桜井の心の中の、何かが溶けていった。
ゆっくりと立ち上がり、桜井は凪子が帰っていった方を向いた。凪子が母親と住む家の2階に、明かりが点くのが見えた。
「うん……」
大きく息を吸い込み、吐き出すと、桜井は凪子の家に向かって歩き出した。きっと、月下美人の蕾が開きかけている気がした。
月が出たよ、そう教えてあげようと思った。
了