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肉を裂いた切っ先は骨に阻まれて止まる。だが、強引に抉りこむようにして進む彼女の執念は、体の深くに潜む生命の動きを捉えて切り裂いた。
「なぜ……」
「薔薇はやっぱり、一本の方がいいわ。それに、長物を持っている相手に突っ込むほどバカじゃないのよ?」
ずりゅ、と引き抜かれたハサミは再び振り下ろされた。何度も何度も、薔薇より赤い血しぶきをあげながら、五十嵐が沈む。その体はすでに押さえ込む意思すら失っているというのに、重量は未だに八尋の自由を許さなかった。ぬるつく血河と焦りが冷静な判断をも奪う。
血しぶきを上げて死肉を喰らっていたハサミが、肉の拘束具に囚われてもがく新たな獲物を見止めた。航跡を変えて空を切る。
「ふぁわ!」
間抜けた悲鳴があがったのは仕方ない。やっと抜け出した両腕で手首ごと掴みとめるのが精一杯だったのだから。
血まみれた刃物は二人の手の間で激しく踊った。
ぬるりと滑る勢いを掴もうと、女の手が空を舞う。男の手はそれを押しとどめ、刃先で良いからと握りこむが、それはやはりぬるりと抜け出す。
だから、その存在が完全に感じられなかったのはただの一瞬のことだったはずだ。
気がついたときにはその柄は八尋の掌に握りこまれ、ビクビクと痙攣する筋肉の動きを緩慢に伝えていた。刃先は女の喉元に深く埋もれ、おびただしく流れ落ちる血液で死の姿すら見えない。
「あ、あ……ああああああああああ!」
仰々しく悲鳴など上げて身を引くが、それは傷口の栓を引き抜く結果となった。一気に血液が吹き散らされる。
「ふう、ふいいいいいいいい!!」
慌てて五十嵐の死体を跳ね除ければ、力をなくした十六夜の体がゆっくりと倒れこんでくる。だらしなく見開かれたままの眼は、こちらを睨んでいるようだ。
それを跳ね返して、八尋は這った。
背中に絡みつく視線の気配を払おうと、壁際まで這った。
「死んだ……殺した……俺が……」
自分の手元を見下ろせば、はさみはしっかりと握りこまれたままである。拳を汚す血をもにゅもにゅと揉むようにして指を解こうとするが、恐怖に固まった関節は固い。
そんな八尋に間宮が歩み寄った。足を大きく上げて、飛び散った血の染み一つ踏まぬよう、注意深く。
「センパイ、苦しいですか?」
感覚の中に、破れた気道から漏れる呼気の生暖かさが残っている。
肺からこぼれる空気を拾い集めようと、荒く引き攣れてゆく絶命の呼吸。あれを与えたのはこの手だ。
「そういえば、あなたのせいで自殺した人も居ましたっけ」
あの警備会社の男……
「それだけじゃないでしょう? そもそもあなたが雪月さんと付き合ったりしなければ均衡は保たれるはずだった」
「……どういうことだ」
「ストーカーたちはお互いに存在を知っていたんですよ。まあ、全員を把握していたのは僕と、あの花屋だけだったみたいですけどね」
自分のほかにも彼女を愛し、見守っているものが居る。その感覚は彼女を特別な存在に引き上げてアイドルに対する慕情のような、触れない愛情を成立させていたのだ。
「その均衡を崩し、彼女をただの女に叩き落した男が……あなただ」
ストーカーたちは思った。彼女はアイドルなどではなく、手元におくことの出来る欲望の具現なのだと。
「だから僕は、彼女を守るためにこのゲームを始めたんです」
「何が守るだ! おかげで雪月は危ない目に……」
八尋は椅子に縛られたままの雪月を見やった。未だに意識なく眠っているせいで、がっくりと首を垂れてはいるが、その寝息は存外に安らかなものだ。もちろん、どこにも傷はない。
「ねえ、センパイ……僕がなぜあなたをオニに指名したか、解かってますか?」
ずいっと、また一歩、間宮が近づく。
いや、大丈夫だ。この男は潔癖だ。血でどろどろに汚れた他人になど、触れることも出来ないはず。
「僕はね、あなたに雪月さんを永遠に守る権利を与えたんですよ」
きゅうっと白手袋を整えた間宮は、八尋を見下ろした。
「全てを知ったとき、彼女の愛はより強いものになるのでしょう。何しろあなたは、自分を守るために罪も危険も顧みず、勇敢に戦ってくれたナイト様だ」
八尋は刃先を彼に向けて構える。肩から伝わる小さな震えが肉厚の刃を揺らした。
「でもね、生きている人間というのは不完全な存在だ。喧嘩をすることも、別れを迎えることもある。だから、僕はあなたに永遠を与えてあげようと思うんです」
ゆっくりと伸ばされた手は、あっさりとハサミを奪った。
「お前、潔癖……」
「ええ、でもニンゲンと言うのは、愛する人のために手を汚す生き物でしょう」
ハサミを奪い返そうと前のめりに手を伸ばす八尋。
それを軽く避けた間宮は、無防備な首の後ろに深々とハサミを突き立てた。
「そういえばセンパイ、僕は最近、友情と言うものを知ったんですよ」
これがこの世で聞く最後の言葉になるのだろうか……いやだ。もう一度だけ、彼女の声が聞きたい……雪月!
よろりとそちらへ歩を進めるが、力の抜けた膝がそれを阻む。どうと床に倒れこんで、それでも精一杯に片手を伸ばす。
……雪月……
その指先は、少し微笑んだようにも見える寝顔には届かなかった。




