名前
適応検査と言うよく解らない検査は体力をかなり消耗する。
おかげで僕はすごく疲れた。
『一体何を調べる検査だ?』と思うが、これまた答えの出ない問いになる。
全ての検査を終えてセンターに戻り検査終了の長々しい眼鏡の演説を聞いている時間は地獄だ。
演説が終わった頃には、もうコロニーの人工太陽が紅く染まり始める時刻を部屋の壁掛け時計が表示していた。
女が「お疲れ様、今日は終いでいいわ、一緒に部屋に戻りましょう」と僕に手を差し出した。
しかし僕はその手を取らない。
「どうしたの? 部屋に戻りたくないの?」
僕は声を発する事なくただ頷く。
「じゃあ少し散歩しようか」
穏やかな笑顔で女がそう言うと、屈んで僕の掌を優しく握ってくれた。
すると女の後ろから「私も行くー!」と大きな声。
「先生ヒドーイ! 私を置いて何処かイイ所に行くつもり!」
僕を『ろくちゃん』と呼ぶ女の子の声だ。
「そんな事しないわよ、“エリカ”も一緒に行きましょう」
それを聞くと女の子は満面の笑みを浮かべて「やったー!」と喜んだ。
しかし今、何故女は伍号を『エリカ』と呼んだのだろう?
そんな事を考えていると白衣達が七号と呼ばれる男の子を連れてセンターを出て行こうと僕達の前を横切る。
『エリカ』もそれに気付き七号に「どうしたの? 一緒に散歩行こ」と声をかけた。
だが七号は振り向く事はおろか立ち止まりもせずに「行かない」と呟き、そのまま扉の向こうへ、センターに七号の『行かない』という言葉の冷たい余韻を残して。
背後から眼鏡の声。
「七号はこれから“コア”に“ダイブ”してもらう」
『コア』とは一体?
眼鏡の言葉を聞き女の目付きが変わる。
「何故私に黙って事を決めるのですか!?」
「今伝えた。 それに君は忙しそうに見えたので君の部下へ私が直接指示させてもらったよ、“ダイブ”の観測はこちらで行う、後で君のオフィスに詳細を送るから安心して子供達の面倒を見ていてくれたまえ」
眼鏡の言葉にはあからさまに嫌味が含まれている。
しかし女は動じる素振りも見せず「わかりました」と返す。
思うに全く動じなかった訳でないだろう、僕等にいらぬ心配をかけたくなかったのだと思う。
女は「ではお先に失礼します」と告げ僕達の手を引いてドアを開けセンターを後にする。
ドアを過ぎると背後で扉が重厚で機械的な音をたて自動で閉まる。
「本当に好きだよなぁ」
「やっぱり自分の血を引く子だから可愛いんじゃない?」
「かもなぁ、なんかこう見ていると母親みたいだしな」
「保母さんの間違いでしょ、こんな宇宙の果てに居ると頭おかしく成り兼ねないし」
「ニュータイプと噂される天才も、結局はただの人間って事だな」
堅く閉ざされた分厚く重たい扉の向こうから、耳では聴こえない筈の嫌味を『エリカ』は感じた。
女は僕等を基地の屋上に案内してくれた。
屋上からは人工太陽に紅く照らされたコロニー内を一望できる。
『エリカ』は屋上に設けられた長椅子へ駆けて行き端に腰掛ける。
その光景を女は微笑ましそうに見つめてから彼女の隣に腰掛けた。
「どうぞ」と女に促されて僕も長椅子に掛ける。
「ここは私のお気に入りの場所なの、エリカとは何度か来ているけど、君とは初めてよね」
僕は返事をしなかった、だが女の声はまるでそよ風の様に優しい響きでいつまでも聞いていたいと思わせる美しさだった。
「本当に先生はココが好きだよねぇ、私も好きだけど」
猫がじゃれる様に『エリカ』が喋る。
「そうだ先生! ろくちゃんにも名前付けてあげようよ!」
二人は僕の名前を考え始めた。
僕自身は別に『名前』など欲しいと思わないが、二人が考えている姿を見ていると、なんだか胸の奥がくすぐったい様な感覚がする。
女は白衣のポケットから白い手帳を取り出して熱心に何かを書き始める。
『エリカ』がその手帳を覗き込んで「何してるの?」と女に問う。
「名前を考えているのよ」と女は返すが『エリカ』は更に疑問に思い「変な字、先生の書いてる字読めない」と呟く。
「これは漢字よ、この字の一つ一つに沢山の意味が有るの。 例えば私の『カオリ』って名前はこう書くの」と女はペンで『華織』と書く。
「私がお母さんのお腹にいる時にお医者様に『女の子だよ』って教えられたら、お父さんが『生まれたら着せるんだ』と言って花柄の着物を買ってきたから『華織』なんですって、おかしいよね」
『華織』はそう言ってはにかむ。
この人の『華織』という名を僕は初めて知った。
『エリカ』は華織の話を聞いてキャハキャハと笑う。
「じゃあ私の名前はどんな意味なの?」
華織は手帳に何かを書き込み僕とエリカに見せた。
「エリカは恵みの華って意味で『恵利華』と書くのよ」
「恵みの華かぁ~、なんか素敵!」
エリカが喜んでいる。
しかし恵みの華か…
戦争の道具として作られた僕達に恵みなど無いのにそれをさらりと言うのか。
だが不思議と華織の言葉は暖かい。
それは華織のエリカに対する思いが決して生半可な慈悲や贖罪の心から来るものでなく、真心からエリカを大事に思っているのだと僕は感じた。
この人はいい人なのだと思った。
「それじゃあろくちゃんの名前は?」
「そうねぇ、君の名前は…」
華織は手帳に漢字を書く、そしてページを一枚破り僕に示した。
僕の名前は…