美女と野獣
男が本を読んでいる間にコーヒーを飲み終えてしまったので黒服は気をきかせてコーヒーのお代わりを注文した。
それを受け熊髭がカウンターの向こうでコーヒーを淹れる。
熊髭はトレイに二つのコーヒーカップを乗せてテーブルまで運び、丁寧に空になったカップと置き代えた。
だが熊髭はカウンターに戻らずにトレイを抱いて読書をする男の姿をじっと笑顔で見詰めている。
「………」
「………」
「…目障りなんだが」
「それは失礼を! …何ページまで進みましたか?」
「…? メカニックが賭けをする場面だ」
「“ディー”ってキャラクターが出て来た所ですよね?」
「そうだが?」
「どうですそのキャラは?」
「聞かれてもまだ名前が出ただけだよ」
男は熊髭の問い掛けに苦笑雑じりの返答をする。
「お前のお気に入りの登場人物か?」と黒服が熊髭に質問。
しかし熊髭はそれに答えずに不気味な含み笑いをして場を気色の悪い空気で満たそうとする。
思わず黒服は「…何だよその笑いは?」と問い掛けるが熊髭は不気味な笑いを止めずにそのままカウンターに戻っていった。
「お前の笑い方はどれも特徴が有り過ぎて気持ちが悪いよ…」
黒服の本音とも冗談とも取れる言葉を聞いて今度はガハガハ笑いをする熊髭。
この山男の様な風体の男は見ていて飽きない部類の人間であるが。
四六時中一緒に居たらさぞかしうざったい存在だ。
おまけに「それが俺様よ!」と変に自慢する辺りが尚更うざったい。
そんな漫才の様な滑稽な空気漂う店のドアが唐突に勢い良く開き、一人の女性が店内に飛び込む様に来店してきた。
「たっだいまぁー!」
「よう、お帰り! ってお前いい加減裏から入れよな!」
「だって狭くて汚いから」
驚いた事にその女性は古本屋の娘だった。
男と黒服は唖然と彼女と熊髭が仲良く会話をする光景を本当に現実に起こっている出来事なのかと疑いながら眺めている。
「なら客が居るか確認してからにしろ」
「いつも客なんて居ないじゃ…」
彼女は振り向きながら言葉を言いかけたが視野に黒服と男を認めて留まった。
「ごめんなさい! いらっしゃいませ!! …? ってお客さんじゃないですか!?」
「あぁ、お客だよ」
「違うって! うちの古本屋の!!」
「知ってるよ」
「…えっ?」
唐突に登場した彼女の存在でこの寂れた喫茶店の雰囲気が明るく華やいだが。
同時に男と黒服は共通の疑問を抱いた。
それは『彼女と熊髭の関係はいったい何だろう?』である。
「よくお前の仕事ぶりをこの方から聞いているよ」
二人で勝手に話が展開しているので黒服は「あのぉ〜?」とお伺いをたてる。
それを見て熊髭が「…あぁ、すまんすまん」と話の輪に男達も引き入れた。
「びっくりしたろう。こいつは俺の姪だ」
「…まぢ?」
「姪っ子でぇ〜す」
娘は愛嬌良くお辞儀をして挨拶。
「…うそ」
「本当だよ」
黒服は目の前の事実を否定したいかの様な呟きを吐く。
「だって全然似てないし」
「別に親子でもないし、こんなもんだろ」
熊髭は顔に苦い笑みを浮かべて返答する。
だが男も黒服と同じ感想を抱いていた。
「私のお母さんも叔父さんに似ないで美人だから」
「どうせ俺の見た目は獣か何かの類だ!」
娘の言葉に熊髭は嘆きの言葉を返すが。
その後二人は顔を見合わせて笑いだした。
嫌味な言葉でじゃれあえる二人の様子からすると確かに親しい関係と思える。
それに見た目の印象は違えど豪快に笑う二人の笑い方も同じ血が流れる証拠だろう。
「俺に隠していたのか?」
「あっ!? いえ! そんなつもりでは!!」
「ハハハ! 言うタイミングが無かったんでしょ?」
男の質問に対してうろたえてる熊髭を見て姪っ子は柔らかなフォローを入れるが。
そのフォローは次の黒服の言葉によって看破される事になった。
「違うだろ。俺達に似てないって指摘されるのが小恥ずかしかったんだろ」
「ハハハ… いやその〜… うん…」
いつもの様に熊髭は笑ってごまかそうとしたが。
今回は思いの外素直に認めた。
しかしやはり小恥ずかしいかったのであろう熊髭の表情からは照れが滲み出ている。
「それに姪っ子がお前の顔にそっくりだったら親戚一同落胆する」
「はは、確かに。待ちに待った孫娘がこの顔だったら変な気苦労が増えるもんだ」
黒服が付け加える様に言った冗談に店の中に居た皆が笑った。
大男は自他共に認める自身の容姿に。
若い娘は叔父の笑う姿に。
ある者は友人の純真な心に。
そして男はその場の心地好い愉快な時間に笑っていた。
「今更んな事気にするもんでもないだろ。長い付き合いなんだから」
ぽろりと黒服の口からこぼれた言葉に対し男は敏感に反応し「こら!」と小声で黒服に釘をさした。
案の定黒服の言葉を耳にした娘は「長い付き合い?」と興味を示す。
「そういえばお客さん達は叔父さんとどういう知り合いなんですか? なんか話聞いてたらただのお客さんと思えない感じだし」
「えっ? いやなんて言うか… まぁ悪友であるのは事実かな」
下手なごまかしだった。
「へぇ〜… ねぇ叔父さんどんな知り合いなの?」
ごまかされた彼女は核心を掴む為に、今度は熊髭に質問した。
もちろん男と黒服は真実を伝えてはいけないという視線を熊髭に送るが。
熊髭はそれを見て軽くうろたえていた。
「…… 何と言うかその… 仕事が一緒でさ」
そう言って熊髭はお得意のガハガハ笑いをしたが、額に汗して笑っていた。
「…!? って事は軍人さんなの!?」
バレた。
男と黒服の二人は共に熊髭を『情けない』と思い苦笑いをするしかなかった。
男達の職種を知って娘はウキウキとして二人のテーブルに近付いていく。
「なんだ。そうならそうと早く言ってくださいよ!」
彼女はそう言うと黒服の肩を豪快に一発叩いた。
あまりの痛みに黒服は軽く呻いたが直ぐに彼女に向いて笑顔を作った。
それを見て男は声を堪え笑う。
「あれ?」と娘はテーブルに置かれた本に気付く。
娘は本のしおりが挟んであるページが大分進んでいる事に気が付いた。
「またハイペースで読んでる…」
「そうか?」
「そうですよ。私的には内容を結構濃厚で複雑にしたつもりなのに、そんなに早く読まれたら困ります!」
娘の言葉に男は「ゆっくり読んでいるとも」と苦笑いしながらの返事。
誰かに似てなんとも活発で元気溌剌とした彼女の姿は皆を楽しく愉快な気持ちにさせている。
娘の言いように気圧される男の姿を静かに見ていた黒服と熊髭の表情もやはり笑いを含んでいた。
「ちょっと貸してください!」
娘は本を取り上げてしおりの挟んであるページを開いた。
「………」
彼女が本を読む姿を黙って見守る三人。
「…あー!!」
突発的に出た娘の声に皆が肩を震わせた。
「もう“ディー”が登場してるじゃないですかぁ〜」
ページに記されていた内容を読んで娘は誰に向けるでもなく愚痴っぽくクレームをこぼした。
「せっかくだからこのキャラクターの事を説明してから読んでもらおうかと思ってたのにぃ〜…」
娘はわざとらしい落胆を口にして男に本を押し付けた。
「ハハハ、まだ名前を読んだくらいだから大丈夫さ」
黒服はそのわざとらしさを知ってか知らずか彼女へ笑いながら言葉をかけた。
「何で解るんですか?」
「さっきマスターも『何処まで進みましたか?』って話してた所だったからさ」
彼女が店へやって来るまでの男達の会話の内容を知った娘は「そうなんだぁ〜」と微笑んで、熊髭のいるカウンターへゆっくりと振り返り、彼へ何やら言葉にしにくい含みのある視線を送っている。
「なになに? なんか訳ありかぁ〜?」
この状況で口を挟む様な奴は野次馬でしかないが、それは黒服だった。
これが彼の性分なのであろう。
「訳ありも何も“ディー”のモデルは叔父さんなの」
「ハッハッハ!」
店の中に熊髭の笑い声が響く。
「はぁ?」
「叔父さん元軍人だからいろいろアドバイスもらうついでというかお礼の気持ちで書かせてもらったの」
作者である彼女の叔父に対する粋なはからいを知り男は「とんだゲスト出演だな」と熊髭に暖かな視線を送る。
「何か俺も少し読みたくなってきた…」
「大分脚色されていて実際の俺よか男前になってるがな」
なんとも嬉し恥ずかしい表情で熊髭は微笑んで語る。
それを見て黒服は「タルトだけではあきたらずかよ」とまた冗談を言う。
「あら、タルトまでいただいてくれたんですか!」
「あぁ、美味しくいただかせてもらったよ。あれは君のレシピらしいね」
男の褒め言葉を聞いて彼女は「なんか恥ずかしいなぁ〜」と少し頬を赤くしてはにかんだ。
「いやたいしたもんだよ! あんなに美味しいタルトを作れるなら嫁入り先には困らないね!!」
「………」
たかがタルトで何故娘の嫁ぎ先の話を黒服は切り出したのか皆理解出来ず沈黙する。
「…やだもう! お菓子の一つや二つ作れますよそりゃ」
軽く戸惑った様子で黒服へ言葉を返した娘の姿を見て熊髭は何か不服そうな表情を浮かべ、カウンターの中で腕組み仁王立つ。
「…なに勝手に話進めんだ。レシピはコイツだが実際に作ったのは俺だよバーカ」
「知ってる。でもレシピは彼女だろ」
「いちいちうるさい奴だなお前は」
二人の痴話喧嘩を見て男は『幾つになっても血気盛んなガキのようだ』と思っているのだろう、黒服と熊髭の昔の姿を思い出しながら微笑んで眺めている。
「ハハハ、それじゃお邪魔みたいだから私は上に行くね」
娘は仲良く喧嘩する二人の姿を見て遠慮したのであろう、邪魔にならないよう配慮し熊髭へ一言告げてカウンター奥にある階段へ向かう。
「古本屋はもうイイのか?」と階段に足をかけた彼女の背中へ熊髭が声をかける。
「今日は大丈夫だから書くのに専念しといでって帰されたの」
階段で反響した声を熊髭達に残して彼女は2階へ上がっていった。
彼女の気配が消えた店ではオーディオから流れるチェロの穏やかな響きで会話のない店内を寂しく演出している。
それはまるで嵐の去った後の静けさだ。
「あいつ自分の言いたいことだけ言って挨拶もなく行きやがった」
「まぁ良いではないか、ここは軍隊でもないし戦争も終わった」
「しかし礼儀はわきまえませんと」
「一般家庭ではこんなもんだろう、それに彼女と一緒に住んでいるのならばここは彼女の家とも言える。違うか?」
男は本をテーブルに置きながら明朗な語り口で自身の考察と推理を熊髭にぶつけた。
「大佐には隠し事が出来ませんなぁ」
堪忍した熊髭は自白の台詞を呟く。
「えっ! じゃ今あの娘と一緒に住んでるのかよ!!」
二人の話を聞いていた黒服は驚いた表情で熊髭に問う。
だが熊髭は黒服の質問にすぐ答えずに、彼へ冷ややかな視線を送り一言告げる。
「…だから?」
「あんな可愛い娘と一つ屋根の下で住んでるならもっと早く教えてくれよ」
「なんで俺が逐一報告しないかんのよ」
「つれねーなぁ」
どうにも熊髭は姪っ子と一緒に住んでいる事を黒服に知られたくなかったらしい。
それは恥じらいとはまた違う、親心の様な気持ちから来る感情なのであろう。
「まぁいいではないか、しかし少し気になる事があるのだが?」
「何がです?」
「彼女は私達が軍人と知ったのに、それ以上詮索をしなかった所が妙に気になる」
男の抱いた疑問に熊髭は思い当たるものがあったのであろう「あぁ」と軽く声を上げて男の疑問に答え始めた。
「あいつなりの気遣いをしたのだと自分は思います」
「どういう意味?」
「軍人ってのは人の生き死にが仕事だってのをあいつはよく知っているからよ」
重たい言葉が続く。
「軍人は偉いとか野蛮とかそんなもんより、それしか能のない人達の苦しみに悲しくなっちまう優しい子なんだ。叔父がこんなんだからかな…」
そう言うと熊髭は己の右足を儚気に見た。
「なるほど。あれは彼女が自分の好奇心を最大限我慢した結果か」
「おそらくは」
「…すまん。なんか悪い事聞いたな」
三人の会話に先程までの賑やかさは無い。
戦士として生きてきた彼等が今までどれ程の死線を抜けてきたかは計り知れない。
しかし戦争が終わった今も彼等の心と身体に刻まれた傷は癒えず痛み続けている事は容易に想像出来るだろう。
あの娘はそれを知るが故に慎んだのだ。
「通夜の様な空気にしてしまったな… マスター、曲を変えてくれないか?」
「わかりました。何にしましょう?」
「jazzにしてくれ。あるだろ」
「デイヴ・ブルーベックなら幾つか」
「それでいい。お勧めを頼む」
男のリクエストを聞き熊髭は小さく「かしこまりました」と彼なりに上品な返事すると男達から姿を消す様にカウンターの中でしゃがんだ。
間もなく鳴っていたチェロの曲が止み、リズミカルなピアノ曲に変わる。
「ありがとう」
「お安い御用です」
「もう杖を使わなくてもしゃがんで大丈夫なのだな」
「えぇ、最近の義足はよく出来ていてあまり痛みませんから」
一見すると熊の様な大男の店主だが。
彼の右足は義足である。
これが彼の戦争の傷であり、喫茶店の店主になったきっかけだ。
「それならいつでも復帰出来るな」
「いや、もうお断りだね」
「あらま」
先程の様にふざけた口調で黒服との会話が始まった。
「失くした時は悔しかったが。今となってはこの足のおかげで引退出来たし、念願の店も持てた」
「言うねぇ〜」
二人の掛け合いで再び店内は賑やかな空気になる。
男の表情もにこやかだ。
「ハハ、心配ご無用だったな」
「おかげさまで」
「いやはや、本当にお前は前向きで気持ちが良いよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「大佐は嫌味も含んで言ってるんだ!」
黒服が継ぎ足す様に一言告げると男は大きな声で笑った。
二人はそれに釣られて笑う。
「いやいやすまんな。ではそんな愉快なマスターをモデルにした“ディー”の活躍を拝見するよ」
男はテーブルに置いていた本を手に取る。
熊髭はそれを見て彼がまだ本の読み途中であった事を思い出し「これは失敬!」と詫びる。
「いや面白い話が聞けたのだ。謝る必要は無いよ」
優しい口調で熊髭に告げ男はしおりを挟んだページを開き続きを読みだす…