第9話 ハート泥棒は、図書館の地下にいる
閉館ベルが鳴り終わった直後、中央図書館の地下へ降りる石段の踊り場で、足音が二度止まった。息を殺して壁に背を貼りつけていた奏音は、掌の汗が台帳の背に移るのを感じた。湿った紙の匂いが、地下の冷気と混ざって鼻の奥に残る。さっき図面を丸めて滑り込ませた背表紙が、鼓動のたびに胸に当たった。
柚花は唇を結んだまま、両手で口元を押さえている。佑摩が肩口の布をつまみ、震えを抑えるように指を置いた。紗里奈は灯りを落とした小さなランプを膝に抱え、火が揺れない角度を探していた。梨寿は薬草袋を抱えたまま、床に落ちた埃を指先でそっと払う。希乃香だけが、呼吸の数を数えるように胸を静かに上下させ、扉の隙間を見続けていた。
上から、鍵が擦れる音。次いで、誰かが咳払いをして、低い声で何か言った。言葉の端だけが石の穴を通って落ちてくる。奏音は耳を澄ませたが、意味を掴む前に声は遠ざかった。足音が離れ、石段の軋みが消える。
希乃香が指を二本立てて合図した。今、二人。戻るまで、短い。奏音は頷き、台帳を抱え直した。ここで引き返す選択はない。手紙の熱を奪う仕組みの心臓部が、この地下にある。祭の喧噪が地上を覆っている今しか、地下へ降りてくる目は少ない――そう希恵は昼に言った。証拠を掴み、持ち帰る。無理に止めない。止めるのは、次の手だ。言い切る口調が、耳の奥で鳴った。
扉の向こうは、書庫だった。石の壁に沿って棚が続き、革装丁の背が暗がりに並ぶ。湿気で膨れた紙が、ゆっくり呼吸しているように見える。床には細い溝が走り、溝の底だけが妙に乾いていた。そこを辿ると、一定の唸りが強くなる。
唸りは音というより、胸骨に触る振動だった。耳で聞くのに、心臓が先に反応する。奏音は図面に描かれていた円と矢印を思い出し、足元の溝の向きを確かめた。溝は、地下書庫の奥へ、まっすぐ吸い込まれている。
紗里奈が奏音の袖を引いた。指先で紙片に短く書く。“音”。彼女は鞄の口を開け、薄い木枠と、煤が入った小瓶を取り出した。木枠には薄い紙が張られている。紗里奈は紙の上に煤を少しだけ落とし、震える指で枠を床の溝の上へかざした。唸りが強くなるたび、煤が微かに跳ね、紙に細い線が走った。彼女はその線を見つめ、口を開かずに息だけを吐いた。奏音は、彼女が何をしているのか分かった。振動を、紙に写している。
梨寿が目で尋ねた。紗里奈は頷き、紙片に続けて書いた。“逆に鳴らせば止まる”。奏音は喉の奥が乾くのを感じた。図面の文字――月翡翠、感情、吸引――それがただの噂ではなく、音で動く仕掛けだとすれば。止める手段は、確かにある。
地下書庫の奥で、灯りが揺れていた。誰かが持っている灯りではない。棚の隙間から漏れる淡い光。希乃香が先に身を滑らせ、棚の影へ入る。奏音たちは一列になって続いた。足音を殺すために、靴底に巻いた布が石に擦れる。柚花が息を吸い込みそうになり、佑摩が肩を押して止める。柚花は眉を寄せ、頷いて、もう一度喉を閉めた。
棚の切れ目から覗いた先に、円形の空間があった。床に描かれた円環の溝、中央に立つ金属の柱、その周りを囲むように据えられた透明な石。月翡翠だ。淡い光を内側から溜め込んで、冷たい月明かりのように揺れている。柱の側面には、手紙を挟むための細い隙間が幾重にも並び、いくつかには封筒が差し込まれていた。紙の端が、乾いて波打っている。
柱の根元には、小さな金属板がいくつも打ち付けられていた。板には、線が並ぶ。山と谷。図面で見た矢印の形と同じだ。奏音は目を細め、線の並びを頭の中で紙の罫線に置き換えた。手紙を書く手の震え、読む手の止まり。言葉が立つ前の、胸の揺れ。あの揺れを、線にしている。
図面の端にあった注釈が、脳裏でほどける。“感情の波を定着させ、軽荷とする”。軽くするのは兵の荷物ではない。兵の胸だ。胸が軽ければ、退きたい足も軽くなる。戻りたい思いも軽くなる。軽くなった思いは、命令の重さに負ける。奏音はその仕組みの残酷さを、紙の匂いで理解した。紙は熱を持てる。だからこそ、奪えば冷える。
梨寿が棚の影で、封筒の角を指で示した。差し込まれている封筒の一つに、薄い灰色の粉が付いている。返送袋の中にあった粉と同じだ。奏音は指先で触れないように距離を取り、目で粉の粒を追った。粉は月翡翠の粉末ではない。もっと鈍い。光を吸って、何も返さない。熱を奪う前に、触れる者の熱まで奪うための粉だとしたら。彼は背中が冷えるのを感じた。
佑摩が、床の円環の外側に置かれた木箱を指した。木箱の蓋は少し開き、内側に束ねた手紙が詰められている。封は切られていない。誰かが、読むためではなく、差し込むために集めている。奏音は胸の奥が痛み、痛みが軽くなりかけて慌てて唇を噛んだ。痛みまで持っていかれたら、怒る理由を忘れる。
紗里奈が煤の線をもう一枚の紙へ写し、折り畳んで胸に入れた。証拠。ここへ来た理由。希恵の声がまた耳の奥で鳴る。“帰れる形で持て”。奏音は頷き、台帳の見返しに挟んだ薄紙をもう一枚抜いた。柱の金属板に刻まれた線を、指で空中になぞって覚える。書き写す時間が足りない。だが覚えるだけなら、図書委員の癖が役に立つ。
奏音は息を呑んだ。あの返送袋の中の手紙が、こうして刺さっているのだとしたら。届かないのではない。ここで、止められている。
唸りが強くなる。月翡翠の光が一瞬だけ脈打ち、空間の空気が軽くなる感触がした。軽い、というより、胸の中の重みが抜ける。涙の重さ、怒りの重さ、名前を呼ぶ時の震え。その全部が、石に吸われていくような薄さ。奏音は反射的に台帳を強く抱え、胸の奥の熱が逃げないように指に力を込めた。
紗里奈が震える紙を胸の前で押さえ、煤の線を見つめた。線が一定の形を描き始める。彼女はそれを指でなぞり、次に鞄から短い管を取り出した。笛のようで、笛より短い。端に小さな切れ込みがあり、吹けば特定の音が出る仕掛けだと、奏音は気づいた。紗里奈はまだ吹かない。吹けば、地下全体に響く。今は、記録と理解だけ。
希乃香が棚の影から身を引き、紙片に書いた。“撮る”。奏音は頷き、台帳の見返しに挟んでいた薄紙を抜き、図面の一部を写し取るように上からなぞった。光が足りない。紗里奈のランプの火を、希乃香が掌で覆って細くした。燃える匂いが一瞬だけ強くなり、奏音の指先に熱が当たる。彼はその熱を頼りに線を引いた。
そのとき、柚花が一歩、円形の空間へ踏み出した。佑摩が止めようと腕を伸ばしたが、柚花の視線は月翡翠の光に縫い留められていた。口が、わずかに開く。声は出ない。出した瞬間、胸の中の何かが持っていかれると分かっている顔だった。
柚花の手が、金属の柱に伸びる。指先が月翡翠に触れる寸前、空気が一段冷えた。唸りが高くなり、煤の線が跳ねる。月翡翠の光が強くなり、柚花の指先から、見えない糸が引かれるように腕が前へ持っていかれる。
「――っ」
声にならない息が、柚花の喉から漏れた。目が見開かれ、頬から色が抜ける。奏音は台帳を落としそうになりながら、柚花へ手を伸ばした。だが、足が床の円環に踏み込んだ瞬間、胸の奥の熱が軽くなる。涙も怒りも、軽くなる。軽くなったぶん、動けなくなる。
佑摩が歯を食いしばり、布を巻いた靴で円環の外へ踏ん張った。彼は柚花の腰を掴み、全身で引いた。梨寿が薬草袋を投げ捨て、柚花の指を押さえる。指先が月翡翠から離れない。希乃香が紙片に何かを書こうとして、手が震えて字が歪む。紗里奈は短い管を握り締め、吹くか、吹かないか、目で決めようとしていた。
唸りがさらに強くなった。月翡翠の光が、柚花の瞳の中まで入り込む。柚花の唇が、誰かの名前を形作りかけて、途中でほどけた。
奏音は、台帳の背に押し込んだ図面の存在を思い出した。止める手はある。だが、今この瞬間に吹けば、敵に気づかれる。吹かなければ、柚花が持っていかれる。彼は息を吸い、吸った熱が軽くなる前に、喉の奥で決めた。
そして、紗里奈が管を唇へ当てた。




