第8話 図書館祭へ、笑って潜る
中立市場を出たのは、蝉がいちばん騒いでいた午後のはじめだった。乾いた川筋を背に、奏音たちは荷車の列に紛れて北へ進む。目的地は国境線の向こう、敵都市の門。図書館が開く祭の日までに、手紙の熱を奪う仕組みの正体を掴む――それが希恵から渡された今日の役目だった。
希乃香は歩きながら、紙を一枚ずつ配った。糊で薄く貼り合わせた身分札、買い付け許可証、そして鳥餌の取引先の名が入った帳面の切れ端。どれも手垢まで作ってあり、触ると指先がざらりとする。
「見せ方。焦ると筆圧が出るから、指は寝かせて。息も浅くしないで」
彼女はそう言い、奏音の手元を覗き込んで、親指の位置だけをそっと直した。奏音は頷きながら、喉の奥で唾を飲んだ。紙を扱うのは得意なのに、紙が自分を守る立場になると途端に心臓がうるさい。
梨寿は肩掛け袋を抱え、門の前で一歩だけ前へ出た。顔には、旅先の親戚に会いに行く者の、微妙に嬉しくて微妙に面倒くさい、あの表情が浮かぶ。
「私が先に話すね。『叔父の薬屋に届け物』って。あなたたちは『学園の鳥餌の買い付け』。……ほら、現地の暑さで鳥が弱るって言えば、兵も嫌な顔しない」
彼女は袋の中の薬草を指で鳴らした。乾いた葉が擦れて、かすかな音がする。その音だけで「これなら腹を壊さない」と言ってしまいそうな安心感があった。
検問所は門の手前に作られた木柵で、日よけの布が垂れていた。布の影から、汗の匂いと鉄の匂いが混ざって押し寄せる。検問兵は二人。片方は槍を持ち、もう片方は台帳を抱え、目だけが冷たい。
「何の用だ」
梨寿が軽く頭を下げ、言葉を滑らせる。姓を名乗り、叔父の店の名を出し、届け物の中身を半分だけ見せる。検問兵は薬草を嗅いで、鼻を鳴らした。
「……通れ。そっちは?」
視線が奏音たちへ移る。奏音は台帳係の癖で、相手の目線の高さに合わせて紙を差し出した。順一郎が隣で、口角だけを上げて穏やかに頷く。佑摩は背筋を伸ばし、余計な動きを殺していた。
柚花は荷袋を抱えたまま、笑顔を作った。笑顔を作りすぎて、頬が引きつったのを自分で感じたらしい。慌てて咳払いをして、さらに怪しくなる。
検問兵の台帳係が荷袋の口を指で広げ、穀物をひとつまみ摘んだ。指先で潰し、匂いを嗅ぎ、眉を寄せる。
「……この餌、うちの鳥舎のと違う。混ぜ物があるな」
柚花の額に汗が一筋走った。彼女は反射で口を開きかけ、紗里奈に袖を掴まれて止まる。紗里奈は唇を動かさず、柚花の視界の端で指を二回鳴らした。“待って”。蝉の声より速い合図だった。
奏音は一歩だけ前へ出た。声を張らず、けれど言い切る。
「混ぜ物ではありません。夏の遠距離用です。湿気で黴が出ると、飛行記録が乱れます。だから豆殻を少し。消化が早くて、腹が軽くなる。――この門の内側、昨日の夕立で湿ったでしょう」
検問兵は目を細めた。「夕立」と言われた瞬間、足元の泥に視線が落ちる。乾いた土に混じる、まだ黒い塊。奏音はそこを見逃さず、台帳の端を指で叩いた。
「ほら、ここ。取引先の印。あなたの台帳の押印と同じ型です。もし違うなら、こちらも持ち帰って確認します」
“持ち帰る”という言い方が、兵にとって面倒の匂いを連れてくる。順一郎がその隙に、ふっと笑った。
「飛ぶ鳥が腹を壊したら、門番さんの耳に一番先に苦情が届くでしょう? こっちも嫌なんです。面倒は」
台帳係は鼻で笑い、穀物を袋へ戻した。手首の筋が緩む。
「……通れ。次!」
柚花が息を吐く音が、蝉の声の隙間に落ちた。
門をくぐった瞬間、空気の匂いが変わった。石畳の熱、香辛料の甘さ、焼き菓子の焦げ。戦線の埃の匂いとは別の、街の匂いだ。けれど、その匂いの上に、薄い鉱石の冷たさが乗っている。目を上げると、通りの両側に青緑の飾りが揺れていた。月翡翠を砕いて薄く塗った旗。窓枠に貼られた粉の模様。光を受けて、涼しそうに見えるのが逆に気味が悪い。
大通りでは、子どもが太鼓を叩き、兵が歌っていた。歌詞は明るい。勝った、守った、強い。調子も軽い。けれど、歌う兵の目が笑っていない。声だけが上滑りして、胸に落ちてこない。
梨寿が小声で言った。
「……中立市場の笑い声と、似てない」
佑摩が答えずに、周囲の歩調を数え始める。敵地に入った途端、彼の目がさらに硬くなるのが分かった。
柚花は飾りの旗を見上げ、指で自分の肩の布を押さえた。中立市場で少年が掛けていった布。そこに付いた粉を、奏音はまだ折り畳んで胸の内ポケットに入れている。取り出したら目立つ。けれど、捨てる気にもなれない。
「……あれ、また見える」
柚花が言って、路地の奥を顎で示した。白い布が一瞬だけ翻り、少年の横顔が消える。追えば、今度こそ罠かもしれない。追わなければ、次に会える保証はない。
奏音は足を止めず、視線だけで追った。少年は人の流れに溶け、角を曲がる前に、こちらへ指を一本だけ立てた。声はない。けれど、その指が指した先は、街の中心に建つ大きな石造りだった。
敵図書館は、想像以上に堂々としていた。門前に並ぶのは本ではなく屋台だ。甘い菓子、紙細工、即席の占い。祭の看板には、青緑の粉で描かれた月が笑っている。順一郎が軽く肩をすくめた。
「図書館が、ここまで客寄せをするとはね」
「本を読ませるためじゃないかもしれない」
奏音の言葉に、紗里奈が小さく頷いた。彼女は耳を澄まし、木箱の中で鳴る金具の音を拾っている。人の笑い声の下に、規則的な“こつ、こつ”が混じる。機械の足音。いや、機械に合わせて歩く誰かの癖。
入口の係は、来館札を見せろと言った。希乃香が作った紙は、紙の厚みまで本物に似せてある。係はちらりと目を通し、奏音たちを通した。拍子抜けするほど簡単だ。簡単すぎて、背中が冷える。
中へ入ると、外の喧騒が急に薄くなった。石壁が音を吸い、足音がやけに響く。棚は高く、紙の匂いが濃い。戦線よりも、図書室よりも、圧倒的に本が多い。
梨寿は薬草袋を抱えたまま、案内図の前で立ち止まった。指先で地図をなぞり、地階の表示に爪を止める。
「……地下書庫、立ち入り制限。そこ、行く?」
佑摩が首を横に振りかけ、希乃香が先に言った。
「行くなら、今。人が多い時間ほど、監視は油断する」
柚花が思わず笑いかけ、すぐに真顔に戻る。笑いが癖になっているのに、ここでは笑う理由が見当たらない。
階段は奥にあった。係の目の届かない死角。紗里奈が先に降り、音の反射を確かめるように手すりを叩いた。硬い金属音が返り、下から別の音が混じって返ってくる。低く唸るような、一定の回転。
「動いてる」
彼女が紙片に書き、奏音の胸に押し当てた。奏音は頷き、台帳を抱え直した。ここから先は、本を探すふりではなく、息をするふりが必要になる。
地下書庫の扉は鍵が掛かっていた。希乃香が腰の内側から細い針金を出す。針金は鍵穴に吸い込まれ、彼女の指が微かに踊る。三呼吸。小さな「かちり」。扉が開いた。
冷気が肌を撫でた。地上の暑さが嘘みたいに、指先が冷える。壁には灯りが少なく、棚の影が深い。そこに、青緑の粉が薄く散っている。床の隅に、誰かが何度も立った跡。粉が靴底で擦れて、円を描いていた。
順一郎が棚の列を一つずつ数え、視線だけで合図を出す。“三列目”。奏音は頷き、台帳を開くふりをして、棚板の裏を指で探った。紙の端。硬い筒。触れた瞬間、胸が跳ねた。
取り出したのは、巻かれた図面だった。紙は新しい。けれど、指先に微かな冷たさが残る。月翡翠の粉が、紙の繊維に染みている。
奏音がそっと広げる。線。箱。管。鳥の脚環に似た輪が描かれ、そこから細い管が伸びて、中央の装置へ集まっている。中央には、文字が一つだけ太く記されていた。
――心を抜く装置。
柚花が唇を噛み、声にならない息を漏らした。佑摩の握った拳が、鳴らないはずの音を立てそうになる。梨寿は薬草袋を抱えたまま、目を伏せた。紗里奈が紙片に短く書く。“前線の手紙、これだ”。
奏音は図面の端に挟まれた薄い紙片に気づいた。そこには、図書館祭の案内文とは違う、短い走り書きがある。筆圧が弱いのに、言葉だけが痛い。
『笑っている間に、心を軽くしろ。軽くすれば、運べる。運べば、勝てる』
軽い荷。青い顔。濡れていない目。市場の露店主の言葉が、背中を冷やした。
そのとき、上の階から足音が落ちてきた。二人分。規則正しい。誰かが地下へ向かっている。
希乃香が図面を指し、口を動かさずに言った。“持つ”。奏音は頷き、図面を丸め、台帳の背表紙の中へ滑り込ませた。紗里奈が灯りを一つ消し、順一郎が扉へ向けて手を広げる。佑摩は最後尾に立ち、柚花の肩を押さえた。布の上からでも分かるほど、彼女の肩が震えている。
柚花は震える肩を、ぐっと下げた。口を尖らせるように息を吐き、そして小さく頷いた。いつもみたいに喋れば、怖さが散るのに。ここでは、喋った瞬間に命取りになる。
足音が近づく。石の階段が軋む。奏音は台帳を抱え、紙の匂いを肺の奥まで吸い込んだ。冷たい粉の匂いが混じる。奪われた手紙の熱を取り返すために、彼らは今、敵の図書館の地下で息を潜めている。




