第7話 ノースリーブと蝉の声、夏の偽装が始まる
前線司令部の朝は早い。日が昇りきる前に、荷車の軋む音と靴底の響きが、倉庫の壁を伝ってやってくる。奏音たちは、日陰の狭い回廊で簡単な点呼を受け、希恵から一枚の紙を渡された。封蝋の型が一致した招待状を、敵側の「図書館祭」へつなげるためだ。場所は前線のすぐ外側にある中立市場。人も物も混ざり合う、噂の湧きどころ。
服装と口調は、そこで決まる。誰がどこから来たかを、相手が勝手に読みたがるからだ。希恵は、指の腹で紙を叩きながら言った。
「今日は、鳥餌の買い付けに来た図書委員。目的は、安い餌と古い帳面。質問されたら、必ず『学園の伝書鳥舎が夏に弱い』と言いなさい」
わざとらしいほど具体的で、逆に嘘が滑らかになる。奏音は頷き、台帳係の癖で、言い回しまで頭の中で写し取った。
正午に近づくにつれ、空気は湯気みたいに重くなった。砂埃が汗に貼りつく。蝉は遠慮を知らず、木立の上で腹の底から鳴き続けている。
柚花は、見たことのない軽い作業着に腕を通していた。袖がない。肩がそのまま日差しにさらされる。
「これ、動きやすいんだって。伝書鳥の餌袋、肩に担ぐなら絶対こっち」
彼女は肩を回してみせ、得意げに笑う。奏音は視線の置き場所に困り、地面の小石の数でも数えるふりをした。
「……日焼けする」
「焼ける前に、布を巻けばいいじゃん。ほら、見て。梨寿が貸してくれた」
柚花は腰の紐から細い手拭いを取り出してひらひらさせる。梨寿は隣で、薬草の匂いがする小袋をいくつも仕分けしながら頷いた。汗疹の薬、虫除け、消毒。市場で怪我をするなという無言の圧が、きっちり詰まっている。
佑摩は先頭で歩き、振り返らずに言った。
「市場では、目立つな。買う時も、聞く時も、浮かれるな」
「浮かれてないよ。暑いだけ」
柚花が口を尖らせると、蝉の声に呑まれて半分しか届かない。奏音は思わず「え?」と聞き返し、同じように聞き返されて、無駄に二回頷いた。
中立市場は、枯れた川筋に沿って広がっていた。幕布を張った露店が何列も続き、乾いた干し肉の匂いと、焼きとうもろこしの甘さが混ざる。誰がどこの兵か分からない格好の者が、同じ樽を囲んで水を飲んでいる。笑い声が飛び、次の瞬間には言い争いの声に変わる。戦の境目がここだけ薄い、そんな場所だった。
希乃香が、奏音の袖を軽く引いた。視線だけで「右」と指す。検問代わりの見張りが、道の角でぼんやり座っている。胸元の徽章は中立のそれ。けれど腰の短銃は、どこの国の型か分からない。彼女は足元の影の濃い方へ、列をずらした。見張りの短銃から視線を外さず、息だけ浅くする。
最初に向かったのは鳥餌の露店だった。麻袋が山積みで、穀物の匂いがむっとする。柚花は勢いよく袋に手を突っ込み、粒を指の間で転がした。
「これ、固い。飛ぶ子は嫌がるやつ」
奏音は驚いて彼女を見る。彼女は「ほら」と指先を出し、掌に残った粉を見せた。粒の欠け方まで観察している。台帳ばかり見ている自分より、現場の感覚がある。
「じゃあ、こっちは?」
「こっちは、匂いが変。……誰か、香料混ぜた?」
柚花の言葉に、順一郎がすぐ間合いを詰めた。露店主の表情が一瞬だけ硬くなる。順一郎は笑って、銅貨を指で弾いた。
「うちの鳥、わがままでね。匂いに敏感なんだ。夏に弱いって、笑えるだろ」
露店主は肩をすくめ、麻袋の口を結び直した。
「最近はみんな、匂い消しを使う。境の向こうへ物を流すのに都合がいいからな」
言葉の端が、蝉の鳴き声に隠れて滑る。奏音は、聞き逃しそうになって、唇を読もうとする紗里奈に視線を送った。
紗里奈は、耳を塞ぐでもなく、口元だけをじっと見て歩いていた。蝉の合唱と、人の声と、金属の打ち鳴らしが重なり、普通なら会話が溶ける。だが彼女は、誰が何を言ったかを拾い、短い紙片に走り書きして奏音へ回す。
「“匂い消しは境越えに便利”】【“荷は軽い”】【“図書館の祭りは今週末”】【“招待状、回った”】
紙片が指先に渡るたび、奏音は背筋を正した。耳ではなく、文字で聞く市場。図書委員らしくて、妙に落ち着く。
古い帳面を探す名目で、奏音と梨寿は古書の露店にも寄った。表紙の擦り切れた日誌、兵站の計算書、家計簿のようなものまである。梨寿は、露店の老婆に小さな傷の手当をしてやり、代わりに話を引き出した。
老婆は礼も言わずに包帯を巻かせ、終わると突然、笑いながら言った。
「図書館の祭りの紙なら、ここにもあるよ。見栄えがいいから、包み紙にするんだ」
差し出されたのは、薄い飾り紙。月翡翠色の縁取りに、勝利を讃える言葉。だが触ると、紙が妙に冷たい。奏音が目を凝らすと、角に小さな封蝋の痕が残っていた。
――同じ型だ。
奏音は胸の奥がひやりとするのを感じた。希恵の「証拠を集めろ」という声が、遠いのに近い。
順一郎は別の露店の前で立ち止まった。焼きとうもろこしを売る年配の男が、煤だらけの鉄板を扇ぎながら客をさばいている。順一郎は銅貨を二枚、余計に置いた。
「これ、焦げ目がうまそうだ。……ところで、祭りの準備で忙しいって聞いた」
男は一瞬だけ銅貨を見て、すぐに視線を順一郎の手の甲へ滑らせた。軍靴の擦れ。紙で切った小さな傷。仕事の種類を読む目だ。
「祭り? ああ、あっちだ。敵の街の図書館がやるやつさ。歌って踊って、勝った勝ったって飾り立てる。……けどな」
男はとうもろこしを裏返し、声を落とした。蝉の声がありがたい。
「飾りの月翡翠が増えすぎた。鉱山から運ぶ荷が、最近おかしい。軽いくせに、運び手が青い顔をしてる。笑ってるのに、目が濡れてない」
奏音は紙片を握り込んだ。熱がない手紙。濡れていない目。繋がっていく。
柚花が男の言葉を聞き取れず、口を寄せた。
「なに? なに言ってる?」
紗里奈が柚花の唇の動きを見て、すぐに別の紙片に書いた。“口元、近い。危ない”。それを見た柚花は、なぜか胸を張って一歩下がった。
「わかった。近づくなってことね。……奏音、あんたも近づきすぎ」
「近づいてない」
奏音は即答した。即答したせいで余計に怪しくなり、佑摩が咳払いで区切った。
市場の奥に、布や古着を積んだ露店があった。希乃香がそこへ吸い込まれ、次いで柚花が引っ張られるように入る。偽装の上着を選ぶためだ。棚の上には、薄い布が何枚も垂れ、風が通るたびに肌を撫でた。
「これ、どう?」
柚花が肩を出したまま上着を羽織る。袖はあるが、前は開いている。涼しさ優先らしい。
「……前を閉じろ」
奏音が言いかけた瞬間、蝉の声に飲まれ、言葉が半分だけ口の中で消えた。代わりに目が逸れる。柚花はそれを見て、口角だけ上げた。
「見ないで言うの、ずるい」
「見ないから言える」
自分でも意味が分からない返しに、奏音は耳まで熱くなった。梨寿が背中をぽん、と叩く。冷たい掌が、汗で張りついた布越しに気持ちいい。
その時だった。
露店の布の隙間から、背の低い少年がするりと入ってきた。誰の連れでもない顔。日焼けした頬に、汗の筋。目だけが、妙に落ち着いている。少年は柚花の肩を見上げ、手にしていた薄い布を、そっと掛けた。
白い布は、柚花の腕を半分隠し、日差しの刺さりを和らげた。柚花は驚いて振り向く。
「え、なに……? ありがと、だけど――」
少年は返事をしない。代わりに、柚花の肩に掛けた布の端を二度、指で叩いた。そこに、淡い青緑の粉が付いている。
月翡翠。
奏音が息を止めた瞬間、少年は布の山の向こうへ溶けるように消えた。追うべきか、追えば罠か。佑摩が一歩踏み出しかけ、希乃香が袖を掴んで止める。
柚花は肩の布をぎゅっと握った。さっきまでの軽口が、喉の奥で引っかかって出てこない。
紗里奈が紙片を差し出す。そこには短い一行だけ。
“敵側の手。けど、今は助けた”
奏音は布を受け取り、掌で粉を擦らないように折り畳んだ。熱い空気の中で、蝉がさらに鳴き立てる。中立市場の笑い声が、遠い波のように揺れていた。




