第6話 招待状の差出人は、敵か味方か
前線司令部の倉庫を出たのは、日が落ちて間もない頃だった。補給の砂埃がまだ空に薄く漂い、夕餉の匂いが風に混じる。奏音たちが辿り着いたのは、駅前の小さな酒場兼宿――看板に「錆びた杯亭」と掠れた字で書かれた店だ。入口の鈴が鳴るたび、兵の笑い声と、木の床を踏む軍靴の音が一拍遅れて揺れる。
柚花は鳥籠を抱えたまま空いている卓へ滑り込み、椅子を足で引いて座った。籠の中の鳥は外の喧騒に負けないように小さく首を振り、羽を一度だけ震わせる。
「ねえ、ここ、寝床あるよね。鳥も一緒に寝られる?」
「まずは食う。寝る話はそのあとだ」
佑摩が短く言って、壁に貼られた献立表を睨んだ。豆の煮込み、硬いパン、黒い茶。戦の長さが、品数の少なさになっている。
順一郎が店主に声をかけ、湯気の立つ茶を四つ受け取った。砂糖はない。代わりに、焦げた麦の香りが胸の奥を温める。
梨寿はいつもの袋から飴玉を二つ取り出し、柚花の掌に落とした。柚花は即座に一つ口へ放り込み、もう一つを鳥籠の上に置いて見せる。
「これ、鳥にはあげない。見せびらかす用」
「見せびらかす意味が分からない」
奏音が台帳を膝に乗せながら言うと、柚花は飴を噛まずに舌で転がし、得意げに顎を上げた。
「守ってるって顔しないと。なめられたら終わり」
奏音は返事の代わりに、封筒を卓の中央へ置いた。倉庫で受け取った、見覚えのない印の手紙。さっきは到着時刻と経路だけ記録し、開封はここまで我慢してきた。灯りの下で見る封蝋は暗い赤。角度を変えると、表面がほんの少し緑を含んで見える。
「開ける前に、確認」
奏音は指を折っていく。
「差出の印。紙質。宛名の筆跡。封蝋の型。届いた経路。運んだ人間」
「台帳の呪文」
柚花が頬を膨らませる。だが、鳥籠を抱く腕は緩めない。
そのとき、隣の卓で、鉛筆の芯が折れる音がした。若い兵が、紙に顔を近づけたまま動きを止めている。帽子のつばを握る指が白い。奏音は一瞬だけ迷い、薄い冊子を台帳の下から抜いて立ち上がった。
「……それ、使うか」
兵が顔を上げる。昨日、駅で震えていた柿崎だった。奏音が冊子を差し出すと、柿崎は受け取る前に、紙の表紙を指で撫でた。
「書き出しが分からなくて。母に、無事だって……言いたいだけなのに」
「言いたいだけ、でいい」
奏音が言い、冊子の最初の頁を開いて見せる。そこには、短い例文が並んでいる。挨拶、天気、食べたもの。つまらないほど普通のことが、遠いほど貴重になる。
柿崎は頷き、鉛筆を持ち直した。隣で、順一郎が茶をすすりながら、わざと聞こえないふりで視線を外している。助け舟を出すとき、見ないふりをするのも技術だと、奏音は図書室で知った。
卓へ戻ると、佑摩が封筒から目を離さないまま言った。
「開けるなら、今だ。ここは人が多い。手を出されにくい」
「人が多い場所ほど、目が多い」
奏音は台帳の端に、店の名前と時刻を書き足した。六月の終わり、午後八時。場所――前線補給駅前、錆びた杯亭。誰が――奏音、柚花、紗里奈、順一郎、希乃香、梨寿、佑摩。何を――図書委員宛の招待状を開封。なぜ――手紙泥棒の手がかりの可能性。どうやって――目撃者の多い卓で、記録を取りながら。
書き終えると、心臓の鼓動が少しだけ落ち着いた。
希乃香が、封蝋の脇へ薄い刃を差し込む。押し型を扱う手は、紙を傷めない角度を知っている。封蝋が小さく割れ、甘くない匂いが立った。梨寿が鼻を近づけ、眉を動かす。紗里奈は耳を寄せるように顔を近づけ、割れた封蝋の欠片が鳴るのを確かめる。
中から出てきたのは、薄い便箋ではなかった。厚紙の一枚。端が綺麗に裁たれ、光にかざすと、紙の中に細い模様が浮かぶ。上部には、見慣れない図書館の印。
「……敵都市の、図書館印だ」
佑摩が印の形を見て言い切った。戦況図で何度も見た地名が、図案の下に小さく刻まれている。
――ムーンジェイド区立中央図書館。
柚花が目を輝かせ、椅子から半分立ち上がった。
「図書館から、招待状! しかも敵側! 逆にすごくない?」
「すごいで済ませるな」
佑摩が即座に押し戻すように声を落とした。
「敵側の建物だ。足を入れた瞬間、帰れなくなる可能性がある」
「でも、向こうから“来て”って言ってるんだよ?」
柚花は厚紙を覗き込み、朗読するみたいに声の調子を変えた。
「えーっと……『図書委員諸氏へ。七月二日、午後三時。ムーンジェイド区立中央図書館、貸出カウンター奥の階段下。あなたが守りたい“紙”を一枚、持参されたし』……だって」
「紙を一枚、って何だ」
順一郎が口元を押さえ、言葉を転がす。
「手紙か。図面か。命令書か。それとも――誰かの心か」
奏音は厚紙の下部へ視線を落とした。宛名の行に、知らない名前が印字されている。倉庫で柚花が「誰、それ」と言った、あの違和感の正体だ。
「“月影係”……?」
奏音が読み上げると、柚花が首を傾げた。
「図書室に、そんな係ないよね」
「ない。だから偽名だ」
佑摩が言い、希乃香が唇を噛む。偽名は守りにもなる。だが、相手がこちらの守り方を知っているなら、偽名は罠にもなる。
梨寿が厚紙をそっと持ち上げ、紙の端を親指と人差し指で撫でた。紙が鳴る。乾いた音ではなく、薄い布みたいに柔らかい擦過音だ。
「……これ、高い紙」
梨寿が小さく言った。
「わかるのか」
佑摩が眉を寄せる。
「わかるよ。繊維が長い。白いけど、漂白の匂いがしない。水に濡れても毛羽立ちにくい。こういうの、後方の役所でも滅多に使わない」
梨寿は掌に残る感触を惜しむみたいに指をすり合わせた。
「敵側が、わざわざ金をかけて、ここへ」
佑摩の視線が一段冷える。
「罠だ。誘い出して捕まえる。あるいは、鳥を奪う」
「鳥を奪うなら、餌を替えるだけで済む。こんな紙、要らないでしょ」
柚花が言って、すぐに自分で首を傾げた。
「……いや、要るか。格好つけたいとか」
順一郎が笑い、すぐに笑い声を小さくした。店の隅で、包帯の匂いをまとった兵が、ひとりで茶を飲んでいる。笑いの大きさは、時に誰かの痛みを踏む。
「格好ってのは、つまり“物語”だ。相手は、こちらに読ませたい筋書きがある」
順一郎は招待状の文字を指でなぞり、言葉を選ぶみたいに一拍置いた。
「読まないと、次の手が来る。読むと、相手の庭に入る」
奏音は頷いた。庭に入るなら、靴底の泥を記録する。足跡を残さないなんて無理だ。なら、残る形を自分で決める。
「柚花。行きたいのは分かった。だけど、条件を詰める」
「条件って、たとえば?」
「まず、鳥の安全」
奏音は迷わず言った。柚花が飴を噛み砕く音が、小さく止まる。
「鳥籠は他人に触らせない。検問で開けろと言われたら、開けない。開けるなら、希恵の書面が要る。餌は、こちらが持ち込む。宿では籠を壁際に置かない。窓の近くも避ける。夜は布で覆って、音を減らす」
「……そこまで?」
柚花の声が、さっきより低い。冗談を言い返す余裕が消えている。
「そこまで。前線補給駅で燃えたのは紙だけじゃない。怖さも燃えた。あれが、鳥に向いたら終わる」
佑摩が腕を組み、短く頷いた。
「俺も同じだ。行くなら、逃げ道を用意する。中立市場の裏道、川沿い、廃線跡。戻れなくなる行き方はしない」
「戻れないなら、戻る話を書けない」
順一郎がぽつりと言って、茶を一口飲んだ。
奏音は招待状の余白に、鉛筆で小さく条件を書き始めた。時刻に遅れた場合は撤収。現地で鳥籠を触ろうとした者がいた場合は撤収。図書館の地下へ誘導された場合は撤収。撤収の合図は、柚花が鳥籠の布を二度叩く音。紗里奈がそれを聞き逃さないよう、合図の高さも決めた。
希乃香は、偽造した図書カードの束を手早く数え直し、角を揃える。梨寿は飴をもう一つ口へ入れ、甘さで喉の乾きを誤魔化す。佑摩は地図の端を折り、順一郎は何も言わずに、折り目の形を覚える。
紗里奈が、割れた封蝋の欠片を拾い上げた。指先でそっと擦る。
小さな、きゅ、と鳴る音。
彼女の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「……似てる」
「何に」
奏音が問うと、紗里奈は胸元の布から、小さな欠片を取り出した。前線補給駅で拾った、灰の中の薄片。封蝋の欠けだ。彼女はそれを卓に置き、招待状の封蝋へ重ねるように近づけた。
欠けの角度が、ぴたりと合う。
音も合う。擦れると、同じ高さで鳴る。
奏音の背中が、ひゅっと冷える。柚花が息を吸い、梨寿が口元を押さえた。佑摩は無言のまま、椅子の脚を一ミリだけ引く。順一郎は笑わない。笑わずに、言葉を飲み込む。
紗里奈が小さく頷いた。
「これ、同じ型。……同じ手」
店の外で、遠くの砲声が一つ響いた。杯亭の天井の梁が、遅れて微かに鳴る。兵の笑い声は続いているのに、奏音の耳には、封蝋のきゅ、という音だけが残った。
奏音は台帳の次の行に、震えない字で書いた。
――封蝋型、補給駅回収欠片と一致。




