第5話 潜入の第一歩は、図書カードの偽造から
前線司令部の臨時図書棚は、倉庫の隅に押し込まれていた。弾薬箱を横に寝かせ、その上に板を渡して、本を並べる。木の匂いより先に、油と土と、濡れた軍靴の匂いが鼻に来る。午前の補給報告が終わった直後、兵が入れ替わり立ち替わりで通り、地図の端で指が擦れる音が絶えない。
奏音は台帳を開き、棚の端から端まで歩いて、数を数えた。背表紙の傾きまで、つい指で直してしまう。弾薬箱の角に、図書室で使っていた丸い貸出印を見つけたときは、喉の奥が妙に熱くなった。ここでも、紙の順番が崩れたら、人が迷う。
「返す。……汚れ、すまん」
昨日、駅で震えていた兵――柿崎が、薄い本を差し出した。表紙の端に灰が付いている。奏音が受け取ると、紙は熱を失ったあとみたいに冷たい。
「汚れは拭けばいい」
奏音が言うと、柿崎はふっと笑って、でもすぐに口を閉じた。
「拭けない汚れもある。……あの駅のやつ、寝るときに出てくる」
柿崎は帽子のつばを握り、言葉を探すみたいに視線を棚へ流した。
「なあ。手紙の書き方、載ってる本、あるか。母に……何を書けばいいか、分からん」
奏音は棚の一番下から、折れた角のある薄冊子を抜いた。図書室なら貸出不可にしていたが、ここでは「使えるか」が先だ。
「文章例。兵用じゃないけど、言い回しはある」
柿崎が受け取ってページをめくる。唇だけが動き、声にならない。柚花が横から覗いて、鳥籠を抱えたまま言った。
「最後に『元気です』って書くと、だいたい元気になるらしいよ」
「なら、最初から元気になれ」
奏音がぼそりと返すと、柚花は「きつい」と笑って肩をすくめた。笑うのに、目の奥が昨日の灰色を引きずっている。
柚花は鳥籠を抱えて、棚の前へ来た。籠の中の伝書鳥は、首をすくめるように羽を寄せ、脚環の金具をカチリと鳴らす。昨夜、駅の壁に残った淡い緑の粉が、まだ頭の奥に残っていた。
「ねえ、ここ、図書室って呼んでいいの?」
柚花がわざと大きく言う。周りでは兵が地図を広げ、通信兵が器具を叩いている。誰も、弾薬箱の本棚に目を向けない。
「呼び名より、役目だ」
奏音は返しながら、鳥の脚をそっと覗いた。粉は落ちている。だが、落ちたから安心、とは書けない。台帳の欄外に、月翡翠粉末の文字をもう一度なぞる。
背後で、紙の擦れる音がした。希乃香が小さな机を確保して、布を敷き、道具を並べている。細い刃、針、歯ブラシみたいな刷毛。黒いインク瓶。押し型。古い図書カードの束。手首の動きだけで、空気を切る。
「これ、借りる」
希乃香は奏音の台帳から、見返しの紙を一枚抜いた。断りの言葉より先に、机の上に置く。奏音は反射で「勝手に――」と言いかけ、彼女の手元で紙が折られ、角が揃い、切り口が滑らかに揃っていくのを見て口を閉じた。
希乃香が作っていたのは、敵地の身分証の練習だった。検問で差し出す札。紙の厚み、角の丸み、押印の滲み方。どれも、図書カードの感触に似ている。図書室で鍛えた指先の神経を、彼女は別の方向へ曲げていた。
「図書カードは、顔がなくても通る。番号と規則で人を通す。……検問も同じ」
言い終えないうちに、希乃香は刷毛で薄くインクを引き、押し型を押した。小さな紋が浮かび、乾く前の匂いが立つ。
柚花がその横に座り、空いた札を一枚つまんだ。鉛筆で何かを書き込み、得意げに掲げる。
「じゃーん。肩書き、盛った」
奏音の目が、文字に吸い寄せられる。
――伝書鳥主任。
「……誰が主任だ」
「私。だって鳥、私の係でしょ。主任って書いたら、検問の人も『おお、主任様』ってなるかもしれない」
柚花は鳥籠を抱えて胸を張った。籠の中の鳥が、同意するみたいに首を振る。
「なるかもしれない、で肩書きを増やすな。嘘を一つ足したら、説明が二つ増える。検問で詰まったら、鳥が止まる」
奏音は声を抑えたつもりだったが、最後の一言だけ、乾いた音になった。柚花の笑いが一瞬だけ止まり、彼女は鉛筆の先で机を二度叩いた。
「鳥が止まるのは、嘘のせいじゃない。粉のせいだよ。誰かが脚に月翡翠を塗った。誰かが手紙を燃やした。なのに、こっちだけが真面目に『規則です』って言ってたら、また笑われる」
柚花は鳥籠の金具を握り、指の関節が白くなる。駅の灰の泣き方を、彼女も覚えてしまったのだ。
「私は、鳥に触られたくない。触られたら、また……」
言葉が途切れ、柚花は籠の布を直すふりをした。布の端がわずかに震え、奏音はそこだけ見ないように視線を逸らす。
奏音は、言い返したい言葉を飲み込んだ。規則の話をしているのに、柚花は人の話をしている。どちらも正しい。どちらも、ずれると誰かが傷つく。
「……盛るなら、理由が要る」
奏音がそう言った瞬間、二人の間に、ほんの少しだけ空気が戻った。希乃香は黙ったまま、押し型を布で拭き、次の札を押し直す。
そのとき、順一郎が、二人の間に湯気の立つコップを置いた。どこで手に入れたのか分からない、甘い匂いのする黒い茶だ。
「喧嘩は、声量で決まると損をする」
順一郎は自分の分も一口飲み、机の端に紙を広げた。紙の上に、いつの間にか線が引かれている。議題、と太い字。
「じゃあ、今のは喧嘩じゃなくて、作戦の条件出しってことにしよう。奏音、検問で困るのは何。柚花、肩書きで欲しいのは何」
奏音は息を吐き、台帳を閉じた。
「困るのは、質問が増えることだ。名前、所属、命令系統。嘘が混ざると、矛盾を突かれる」
柚花はすぐに返した。
「欲しいのは、鳥を守れる権限。『この籠は検査対象外』って言える札。勝手に触られたら、また粉を塗られるかもしれない」
順一郎は頷き、紙に書き足す。希乃香が横から覗き、押印の位置を指で示した。佑摩が通りすがりに「権限は書式で決まる」とだけ言って去り、梨寿は補給袋から包帯を一つ置いていった。誰も長居しない。長居できない。前線では、立ち止まる時間が命の形を変える。
奏音は柚花の鉛筆を取り上げ、肩書きの文字を消そうとして手を止めた。消してしまえば簡単だ。だが、柚花の指が白くなるほど握った金具の感触が、消えない。
「……主任、じゃなくて」
奏音は鉛筆を返し、別の字を提案した。
「伝書鳥管理係。司令部の印が要る。希恵に許可を取る」
「管理係……地味」
「地味でいい。地味は、疑われにくい」
柚花は口を尖らせたまま、でも一度だけ頷いた。鳥籠の中で、伝書鳥が羽を小さく鳴らす。まるで「それでいい」と言うみたいに。
奏音が札の束を揃え、角を叩いて真っ直ぐにした、その瞬間だった。
倉庫の入口で、兵が名前を呼んだ。
「図書委員の小隊! 荷物だ!」
奏音は立ち上がり、靴音を抑えて走った。差し出されたのは、郵袋ではなく、細長い封筒だった。紙は妙に厚い。触れただけで、後方の事務紙とは違うと分かる。封蝋が押され、糸が巻かれている。
宛名は、確かに「図書委員宛」。だが、その下の名前が違った。奏音が読み上げる前に、柚花が背伸びして覗き込み、目を丸くする。
「……誰、それ」
封筒の端に、見覚えのない印が薄く押されている。図書室の貸出印にも、司令部の受付印にも似ていない。なのに、指先が「本の匂い」を覚えている。
奏音は、封蝋の固さを確かめるように、爪を当てた。
順一郎が、背後で言った。
「招待状って顔してるな」
希乃香が、押し型を持つ手を止めた。
柚花は鳥籠を抱え直し、息を吸う。鳥が小さく鳴き、倉庫の空気が一瞬だけ軽くなる。軽いのに、背中が冷える。
奏音は封筒を台帳の上に置き、まだ開けない。開けるのは、順番を決めてからだ。灰の上で書いた一行の続きを、ここで守らないといけない。
彼は鉛筆を取り、封筒の到着時刻と、差出の印の形を、丁寧に記録した。




