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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第40話 図書室へ帰ろう、戦記を棚に戻すために

 停戦が紙の上で結ばれてから、三か月。二月の終わり、火曜日の午後。学園図書室の窓は割れたままではなく、透明なガラスに替わっていた。机の角をなぞる光が柔らかい。乾いた木の匂いが戻ってくる。

  入口の掲示板には、希恵が書いた手順が貼られていた。貸出は通常どおり。返却は左。迷子札を付けた伝書鳥は、鳥舎ではなく受付へ。乱暴な命令文にならないよう、言い回しを削って、文字の大きさまで揃えてある。



  平和は静かだ。静かすぎて、紙のめくれる音が大きく聞こえる。奏音は棚の前で立ち止まり、戦記の背表紙に指を置く。置いたまま、押さない。押すと、戻れない気がした。柚花は椅子の脚を揃え、わざとぎし、と鳴らしてみせる。誰も怒らないのを確かめてから、彼女は小さく笑って、すぐ咳払いに変えた。



  最初の開館日、扉の前で小学生が一人、靴の先を揃えたまま固まっていた。背中には、使い古した布の鞄。奏音が「入っていいよ」と言うと、その子は一歩入って、天井を見上げてから、ようやく息を吐いた。

  「まだ、本ある?」

  柚花が返したのは、説明じゃなくて、棚のほうへ向けた顎の合図だった。子どもは走らず、早歩きで児童室へ消えた。床板が軽く鳴る。



  奏音は台車の取っ手を握り、重い箱を押しながら、床の軋みを数えた。箱の側面に墨で「戦記」とある。中には、前線から集めた報告書の綴じ本と、崩れた棚から救い出した記録が入っている。

  「戻すぞ」

  誰に言ったのか自分でも分からない声で、奏音は言った。順一郎が「了解」とだけ返す。返事の短さが、今の空気に合っていた。



  柚花は返却台の上で一冊ずつ表紙を撫でていた。煤の跡が薄く残っている。指を止めたまま、柚花は小さく息を吸い、吐いてから、ようやくページをめくった。

  「これ、重いね」

  言いながら、柚花は両腕で抱えて運ぶ。途中で本がずれそうになると、肩で支えて、唇を尖らせる。奏音が片手を伸ばすと、柚花は首を振った。

  「今は、自分で戻す」

  たったそれだけ言って、足を止めない。



  紗里奈は棚札を作り替えていた。古い札には「軍報」の文字が残っている。上から新しい紙を貼り、「戦記」と書き直す。その横へ、さらに小さく「閲覧のみ」と添えた。

  「持ち出すと、また失くすから」

  説明は短い。けれど、貼り付ける指先が丁寧で、紙の端が浮かないよう押さえる時間だけが長い。



  順一郎は棚の前に立ち、手帳を開いた。そこには配列が書かれている。年代順。地域順。書いた本人が読めるだけの、細い文字。

  「ここに戻せば、誰かが読み返せる。読み返せるなら、勝手に話を盛れない」

  そう言って、順一郎は一冊を棚へ差し込む。背表紙が揃った瞬間だけ、口元が少し緩む。

  棚の隣には、小さな紙箱が置かれていた。梨寿が拾ってきた、前線で流れていた「停戦を求める歌」の断片。誰が書いたのか分からない譜面と、震える文字の歌詞が混じっている。

  「これも、並べる?」

  柚花が聞くと、順一郎は頷いた。

  「残す。残せば、次は同じ言葉を違う場所に置ける」



  梨寿は児童室へ行き、返却箱の内側を確かめた。先日の夜、奏音たちが貼った紙は、まだそこにあった。子どもが朝一番で触れる位置。見上げなくても読める高さ。

  『戦わない物語を届けてください』

  梨寿は紙の角を押さえ直し、誰にも聞かせない声で読み上げた。文字が擦れて薄くなっているのに、言葉の芯だけは残っている。



  扉が静かに開いて、見慣れない制服が一歩入った。袖章は敵側のものだったが、腕の動きは遠慮がちだった。

  第14話の案内人――学園の外で図書係をしていた青年が、帽子を胸へ当てた。手に持っているのは、図書カードの束だ。擦り切れた角が、長い移動を物語っている。

  「返しに来ました」

  短い言葉のあと、彼は視線を落とした。言い訳を探すように、床板の木目を追う。胸ポケットから取り出したのは、図書カードだけじゃなかった。小さな鍵。かすれた番号札。奪うための仕掛けに使われた部品の残りだ。

  「これも……返します」

  奏音が受け取ると、金属が冷たかった。けれど、指先が痛むほどじゃない。



  希恵が前へ出た。掲示板の手順を指でなぞり、言った。

  「返却は左。名前と番号を書いて。規則は、あなたにも同じ」

  青年は頷き、紙へ丁寧に記入した。筆圧が揺れない。書き終えてから、彼は一度だけ顔を上げた。

  「ここ、まだ使っていいんですか」

  柚花が答える。肩をすくめて、口を尖らせるだけ。

  「返すなら」



  奏音はそのやり取りを見ながら、鳥舎の焼け跡を思い出した。怒りは、もう燃え上がらない。代わりに、まだ熱い場所が胸に残っている。そこへ、柚花の声が落ちた。

  「図書室ってさ、戻ってきてもいい場所なんだね」

  柚花は棚へ本を押し込み、指を離す。背表紙がぴたりと揃った。

  奏音は頷いた。言葉は少なかったが、台車の取っ手を握る指の力が抜けた。



  夕方、最後の箱が空になった。紗里奈が棚を一列見渡し、順一郎が手帳に丸を付ける。梨寿は児童室の椅子を戻し、希恵は掲示板の端を貼り直す。小さな手入れが積み重なって、図書室が図書室に戻る。

  柚花が受付の引き出しを開けると、封筒が一通だけ入っていた。宛名はない。けれど、紙の厚みと匂いで、柚花は誰が入れたか分かったみたいに眉を上げた。

  柚花は封を切り、読み上げる。



  「次は、戦わない物語を届けてください」



  奏音は笑いそうになって、代わりに深く息を吐いた。児童室のほうで、さっきの子どもが本を閉じる音がした。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  返却箱の口はいつもより小さく見えた。柚花が箱の縁を撫で、紙が引っかからないことを確かめる。引っかかって破れたら、今日の記録が欠ける。欠けたら、また同じことが起きる。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  戦記の背が棚に収まると、空気が一段だけ整う。奏音は整った空気に甘えず、最後に床の埃を足先で払った。埃を払うのは、ここが生活の場所だと宣言することだった。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  棚番号の札が揺れて、カタンと鳴った。奏音はその音を聞いて、やっと肩の力を落とした。戦場の音は終わらない。けれど図書室の音は、終わり方を知っている。



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