第4話 燃やされたはずの手紙、灰が泣いている
前線補給駅のホームへ列車が滑り込んだ夕方、扉が開いた瞬間、冷えた空気が列車の中へ流れ込んだ。鉄と油の匂いに、焦げた紙の匂いが混ざる。ホームの板の隙間から、まだ温度の残る灰がふわりと舞い、奏音のまつげに触れた。
目の前でしゃがみ込んでいた兵が、顔を上げた。頬が煤で黒く、口元だけが妙に白い。手には、封蝋の欠片がこびり付いた封筒の端。燃え残った角が、指の皮を赤く染めていた。
「降りるな」
兵が短く言った。声が枯れている。命令の形をしているのに、怖がっている響きが混じる。
奏音は足を止めた。柚花が半歩前に出て、軍靴のつま先でホームを叩く。
「もう扉、開いちゃったじゃん。ねえ、それ、誰の手紙?」
柚花の言葉は軽いのに、空気は重い。兵の視線が柚花の胸元の図書委員章へ滑り、また手紙へ戻った。
「誰の、って……」
兵は封筒の角を見つめたまま、喉を鳴らした。
「読むのが、怖いんだ」
「読むのが?」
奏音が聞き返すと、兵は首を横に振った。
「字は、見える。ちゃんと並んでる。けど……入ってこない。目で追っても、胸に落ちない。……そんな手紙が、いちばん怖い」
兵は言い切ってから、息を吸い直すように肩を震わせた。言葉の穴に、冷えが入っていく。奏音は思わず、自分の胸に手を当てた。紙の上の字が、誰かの呼吸や体温を運んでくるはずのものだと、図書室で何度も感じてきた。その体温だけが抜かれた手紙。残ったのは、乾いた形だけ。
ホームの上には木箱が山のように積まれ、麻袋の口から乾いた麦の匂いが漏れていた。駅舎の屋根には波打つ鉄板。ところどころに小さな穴が空き、遠くの砲声が鳴るたび、鉄板がかすかに震える。掲示板の文字は雨と泥で滲み、時刻表の端には弾痕が残っていた。ここは「通る場所」のはずなのに、人の気配が張り付いて離れない。
「……俺の名前は、柿崎だ」
兵は名乗ってから、照れ隠しみたいに視線を逸らした。名札の糸がほつれている。
「昨日、袋が一つ届いた。中に、手紙が三十通。全部、同じ匂いだった。紙の匂いはするのに、書いた人の匂いがしない」
柿崎は言いながら、喉の奥をこすった。
「一通だけ開けた。母ちゃんからだ。『元気です』って、いつも通りの字で書いてあった。だけど、読んだ瞬間……俺の胸が、空っぽになった。嬉しいとか、安心とか、そういうのが来ない。代わりに、寒いのだけが入ってきた」
柿崎の指先が震え、封蝋の欠片を落とした。赤い塊が灰に沈む。
「俺は、母ちゃんがもう……って思った。生きてるのに、心だけいないみたいで。だから、他のやつに読ませたくなかった。読んだら、みんなが壊れる気がした」
梨寿が柿崎の足元へ飴を転がした。包み紙が光を弾く。柿崎は一瞬だけ戸惑い、拾ってから、口に放り込んだ。甘さが広がったのか、眉間の皺がわずかにほどける。ほどけた分だけ、目の縁が赤くなる。
柚花が冗談を探すように笑いかけ、途中で口を閉じた。笑いがここでは役に立たないと、肌で分かったみたいに。
佑摩が一歩前へ出た。帽子のつばを押さえ、兵に向かって落ち着いた声を置く。
「誰が燃やせと言った」
兵の指が、封蝋の赤へ強く食い込む。
「俺だ。俺が……そうした。命令書もある」
兵は胸のポケットを探り、くしゃくしゃの紙片を出した。順一郎が受け取ろうとして手を伸ばし、佑摩がそれを制する。先に、奏音が視線だけで追った。紙片の端に、補給駅の印。正式な書式だ。だが、署名の筆跡が途中で途切れ、最後が異様に薄い。まるで、筆を握る手の決意だけが抜かれたように。
「命令書の方も、薄いね」
柚花が小さく言った。冗談ではない声だった。
紗里奈が、ホームの端へ歩いた。灰の溜まった場所でしゃがみ込み、指先でそっと掬う。軍手越しでも、灰の熱が伝わる。彼女は灰の中から、紙ではないものを摘まみ上げた。薄い、爪ほどの薄片。光に当てると、淡い緑がうっすら透けた。
紗里奈は耳元へ近づけた。しん、と駅の音が遠のく。その薄片から、砂を擦るような、かすかな音がした。
奏音は息を止めた。言葉ではない。泣き声でもない。けれど、人が喉の奥で何かを堪えるときの、あの震えに似ていた。
「……鳴ってる」
紗里奈の声は、普段より低かった。彼女は薄片を指先で回し、耳に当て直す。薄片が、音を返す位置があるみたいに。
奏音は、昨日見た淡い緑の粒を思い出した。伝書鳥の脚環に付いていた月翡翠粉末。通信石の核材にもなる、あの色。
「それ、月翡翠?」
紗里奈は頷かず、否定もしない。ただ薄片を布で包み、胸の内側へしまった。しまう動きが、祈りみたいに丁寧だった。
そのとき、駅舎の方から足音が増えた。硬い靴音が複数。先頭に、背筋の伸びた女性が現れる。希恵だった。紙束を抱え、顔に疲れの影があるのに、歩幅が迷わない。
「状況は把握した」
希恵は列車の扉の前で止まり、燃え跡と灰の溜まりを一瞥した。目が封蝋の赤で止まり、すぐに奏音たちへ向く。
「敵が潜り込んでいる。郵便経路を狙い、心を抜いた手紙でこちらの判断を鈍らせる。……この駅は、すでに触られている」
兵が「俺は、命令を……」と言いかけ、希恵は手を上げて遮った。
「責めない。怖いものを見た者は、正しい順番を飛ばす。だが、火は証拠も燃やす」
希恵の言葉は硬いのに、最後だけ、少し柔らかかった。奏音は、兵の指先の赤い傷を見た。火の熱より、怖さの方が深く刺さっている。
希恵は紙束の一番上をめくり、印章の押された書類を取り出した。
「ここから先、図書委員は単なる随行ではない。便の記録、保管、検閲の補助、伝書鳥の管理、通信石の粉の検査。全部が絡んでいる」
希恵は奏音へ紙を差し出す。奏音は反射的に受け取り、紙の重みで姿勢が正しくなる。
「よって、今日から君たちは小隊扱い。指揮系統は私の下。勝手な行動は許可しない」
希恵が言い終える前に、柚花が制服の内側から小さなスタンプを取り出した。図書室で貸出札に押していた、あの丸い判だ。彼女は反射で朱肉まで探し、希恵に気づかれて手を止める。
「……押す気か」
「だって、命令書って、返却期限が分かると安心しない?」
希恵の眉が動いた。怒ったというより、理解できないものを見る目だ。
「期限は返却ではない」
「じゃあ、更新のときに押す?」
順一郎が柚花の肩を掴み、静かに後ろへ引いた。梨寿がまた肩を揺らし、佑摩が口元だけで息を吐く。奏音は笑いそうになり、同時に、ここで笑ってはいけない気がして喉の奥で押し込んだ。笑いは軽くする。軽くしすぎると、誰かの痛みがこぼれる。図書室で学んだ線引きが、ここでも必要だった。
奏音は紙の端を見た。小隊という字が、妙に現実味を持っている。図書室で棚を戻す手と、ここで命令書を受け取る手が、同じ自分のものだと、頭が追いつかない。
希恵は視線を紗里奈の胸元へ向けた。布の膨らみを見逃さない。
「拾ったか」
紗里奈は一拍置いてから、包みを取り出した。希恵は受け取り、光に透かす。
「……これが、心の抜け道だ」
希恵は薄片を戻し、奏音へ向き直った。
「奏音。記録しろ。どの便で、どの袋で、どの時刻に、燃やされた。灰の量も。月翡翠の色が混じる場所も。足跡も。全部だ」
「はい」
返事は出た。けれど、奏音の喉は少しだけ痛かった。燃えた封筒の向こうに、誰かが書いた文字がある。書いた人も、待つ人も、ここへ届くまでに何度も手を替えた。その道のどこかで、心だけが奪われた。
柚花が、ホームの壁の方へ歩いた。さっきまで誰も気にしていなかった薄い漆喰。そこに、黒い炭で大きく文字が書かれているのを見つけたのだろう。柚花の足が止まり、指が震えた。彼女は震えを隠すように、指先で文字をなぞらない距離を保つ。
「これ……」
奏音が近づくと、そこには乱暴な字で、たった六文字。
ハート泥棒参上。
字の端に、淡い緑の粉が付いていた。まるで、笑いながら泣いた跡みたいに。
希恵が背後から言った。
「相手は、こちらが気づいたことを知っている」
佑摩が壁を見上げ、静かに息を吐いた。
「なら、先に守る場所を決める。紙と鳥だ」
奏音は、燃えた封筒の赤い塊をもう一度見た。胸の奥が、ゆっくり熱くなる。泣いている灰の音を、ただ嘆くだけで終わらせない。図書室で覚えた手順で、ここでも手順を作る。
奏音は鉛筆を握り直し、灰の上に影が落ちない角度で、最初の一行を書き始めた。




