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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第38話 敵の図書係、最後の配達を頼む

 駅前の掲示板で拾った紙片は、端に月翡翠の粉がこびりついていた。柚花は指先を布で拭い、奏音の掌にそっと載せる。紙片の裏には、鉱山街の古い地名と、短い矢印が二つ。文字の癖は、あの図書カードの持ち主と同じだった。



  中立地帯の私設図書室は、小さなストーブの熱で本の背がやわらかく膨らんでいた。貸出札は手書きで、字が少し滲んでいる。柚花がそれを見て、指で同じ形を空中に書く。奏音は咳を一つだけ飲み込み、紙片の矢印を机の上に並べ直した。矢印は二つなのに、行き先は三つある。そこがいちばん信用できない。



  その日の夕方、奏音たちは中立地帯の検問を抜けた。順一郎が鞄の底から通行証を取り出すたび、係官の目が紙と人を行ったり来たりする。希乃香は後ろで、足元の小石を一つだけ蹴った。音を立てたのはわざとではない、と言い切れない仕草だったが、係官はその音に反射的に銃口を下げ、視線が一瞬だけ逸れた。順一郎の指が、そこで滑るように印を押し、列は動いた。



  路地の奥、煤けた看板に「私設図書室」とだけ書かれた扉があった。戸を押すと、古紙と薬草の匂いが重なって押し返してくる。棚は背の低いものばかりで、天井に近い梁の上に、返却待ちの本が紐で吊られていた。奥の机に座る老女は、顔を上げず、羽根ペンを動かし続ける。



  「借りたいのは本じゃない。返すのも、本だけじゃない」



  声は背後からだった。奏音が振り向くより先に、柚花が一歩だけ横へずれ、鞄の口を自分の体で隠す。棚と棚の間から現れた男は、軍服ではなく、汚れた作業着の上に薄い外套を羽織っていた。けれど、胸元の小さな布袋だけは、月翡翠の粉を扱う者の結び方だった。



  「……ヴァル」



  奏音が名を呼ぶと、彼は口角を上げるでもなく、指先で合図をした。話すな、というより、音を上げるな、に近い。老女が羽根ペンを止めないまま、短く咳払いをした。図書室の「静かに」は、戦場のそれより怖い。



  ヴァルは棚の陰へと、封筒を一つ滑らせた。封は蝋ではなく、図書カードの角に使う透明な糊。手慣れた指の動きだった。封筒の上には、返却期限のように日付が書かれている。今日の日付より、二日だけ先。



  「追われているの?」



  柚花が問うた。ヴァルは頷きかけて、途中で首を止めた。代わりに、外套の内側を指で叩く。そこから、金属の擦れる音がした。奏音は息を吸い、吐かずに、手を伸ばさない。順一郎が、靴紐を結び直すふりをして、床板の軋み方を確かめている。逃げ道の形を、足裏で測っていた。



  「俺は図書係だ。記録を並べ、消された頁を見つける。だが今、消す側が早すぎる」



  ヴァルの声は低い。言葉の端が欠けるのは、寒さではなく、喉の奥で痛みを堪えているせいだと柚花は見抜いたらしく、薬草の束を一つ、机の端に置いた。老女はペンを動かしたまま、それを自分の引き出しへ落とし込む。



  「外にある『一部』を、君たちは探している。図書室の外に落ちた頁は、拾えば終わりじゃない。拾った者の心まで、持っていかれる」



  ヴァルは封筒を指で押さえた。紙の下で、硬い板が鳴る。封筒の中身は、本ではない。薄い木板だ。通信石の核材と同じ、月翡翠を挟んだ板――ひと息つくだけで、方角感覚が狂うやつだ。



  「これを、配達してくれ」



  「どこへ?」



  奏音が訊くと、ヴァルは目を伏せた。答える代わりに、図書カードを一枚取り出す。角が擦れて、持ち主の指の形が残っている。第14話のあの夜、奏音が受け取ったのと同じ型だが、番号が違った。



  「司令部じゃない。軍の机に乗せた瞬間、紙は燃える。届け先は――子どもが本を読む部屋だ。前線の野戦病棟の読み聞かせ机。後方学園の旧図書室の返却箱。敵首都の市民図書館の児童棚。三つ。三つとも、同じ夜に」



  順一郎の眉がわずかに動いた。希乃香が、吊られた本の紐を指で弾き、音を立てずに揺れを止める。奏音はその沈黙で、言葉の重みを測った。



  「そんなこと、どうやって」



  「伝書鳥と通信石を、君たちは使える。俺は――ここから出れば、次は戻れない」



  ヴァルは封筒の端に、爪で小さな印を刻んだ。矢印が三つ。さっきの紙片と同じ癖。彼は短く息を吐いて、最後にだけ、声を落とした。



  「配達の中身は、停止の手順と、消された名前だ。装置に触れた者の心が抜ける前に、誰がどこで倒れたかを、棚に戻す。棚に戻せば、誰かが読む。読めば、隠せない」



  奏音は封筒を受け取り、掌で温度を確かめた。冷たい。けれど、冷たさの奥に、誰かが守ろうとした熱が残っている。柚花は笛の紐を結び直し、今度は結び目を二つ作った。ほどけにくい結び方を、戦場で覚えたのだろう。



  「二日後の夜。三つの棚。……それが、あなたの『最後の配達』?」



  柚花が言うと、ヴァルは初めて、目だけで笑った。笑ったというより、瞬きの回数が増えただけだ。



  「頼む。俺の手じゃ届かない。届かないなら、せめて、読める場所へ」



  老女の羽根ペンが止まった。紙を撫でるような音が消え、図書室の空気が一段重くなる。



  「返却期限は、守りな」



  老女がそう言い、奏音の手元の封筒を指で叩いた。二日先の日付が、墨で滲む。奏音は頷き、封筒を鞄の一番奥へ入れた。順一郎が扉の外を一度だけ覗き、希乃香が先に歩き出す。柚花は振り返らず、ただ背中で「静かに」を守った。



  扉が閉じる直前、ヴァルの声が、紙の隙間から滑り込んだ。



  「次は、戦わない物語を――」



  最後の言葉は、木の軋みで途切れた。奏音は息を吐き、封筒の角の印を指でなぞった。矢印は三つ。三つとも、同じ夜を指している。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  戦記の背が棚に収まると、空気が一段だけ整う。奏音は整った空気に甘えず、最後に床の埃を足先で払った。埃を払うのは、ここが生活の場所だと宣言することだった。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  棚番号の札が揺れて、カタンと鳴った。奏音はその音を聞いて、やっと肩の力を落とした。戦場の音は終わらない。けれど図書室の音は、終わり方を知っている。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  返却箱の口はいつもより小さく見えた。柚花が箱の縁を撫で、紙が引っかからないことを確かめる。引っかかって破れたら、今日の記録が欠ける。欠けたら、また同じことが起きる。



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