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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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37/40

第37話 消えた一部は、図書室の外にある

 翌朝、後方都市の駅は、まだ薄い霧の匂いがした。時刻は七時十分。売店のシャッターが半分だけ上がり、湯気と紙の匂いが、通勤客の肩を撫でていく。

  奏音は改札の前で、薄片を握りしめた。昨夜、途切れた会議の一言。そこだけが、きれいに空白になっている。誰が止めたのか。どの順で奪ったのか。そこにあるはずの名前だけが、抜け落ちた。



  通勤列車の窓は、誰かの息で曇っては拭われ、また曇る。日常の往復運動が、戦の匂いを薄めていくみたいで、奏音は逆に落ち着かなかった。売店のパンの甘い匂いがするたび、柚花は腹を鳴らさないように腹筋に力を入れる。紗里奈は吊り革を握らず、指先で揺れを測っていた。揺れが一定なら、追ってくる足音も一定になる。



  柚花はノートを胸に押し当て、足を揃えて立っていた。袖のない上着のせいで、朝の冷えが腕へ刺さるのに、本人は気づかないふりをしている。

  「ねえ奏音。欠けたところ、別の形で補うって言ってたけど……どうやって?」

  奏音は薄片をポケットへ戻し、代わりに紙束を出した。議事録の写し。端に、透かしのような細い線が入っている。

  「紙の中に、印がある。これなら、偽物を混ぜられても見分けられる」

  柚花は顔を近づけ、目を細めた。真面目に見ているのに、頬の煤が一本だけ残っていて、奏音は言葉の途中で笑いそうになった。

  「……笑うなら、今のうちに笑って。あとで怒るから」

  「笑ってない。……煤が、かわいそうな位置にいる」

  柚花は頬をこすり、指先を見て「裏切り者の色だ」と呟いた。梨寿が横で、声を立てずに吹き出して肩を揺らす。



  通勤列車が入ってきた。扉が開くと、人の流れが一気に押し寄せる。奏音たちも押し流されるように乗り、吊り革の下へ身を寄せた。

  車内の掲示板に、見慣れない紙が貼ってある。小さな冊子の広告――「通勤途中に読める戦記 第三十六回 売店にて」。

  柚花は二度見して、息を飲んだ。

  「……売ってるの?」

  「売ってない。回ってる」

  梨寿が言って、視線で前方を示した。学生服の少年が、冊子を両手で持ち、隣の労働者に見せている。労働者は泥の残る爪でページをめくり、ふっと口角を上げた。

  「ここ、俺の話に似てるな。補給が来ないって、いつも言われる側は笑えねえけど……こう書かれると、笑える」

  隣の兵が、肩の荷を下ろすように息を吐いた。

  「笑えるうちは、生きてるってことだ」



  吊り革のそばで、年配の女性が冊子の表紙を覗き込んだ。

  「戦記って、難しいやつかい?」

  柚花は反射で背筋を伸ばし、「難しくしないように書いてます」と言いかけて止まった。言い切れば、作者の顔になる。今は、配達の顔でいたい。

  奏音が代わりに答えた。

  「通勤の十駅分で読める長さです。最後に一つだけ、胸に残るものがある」

  女性は「それなら」と頷き、冊子を丁寧に閉じて、隣の若い男へ渡した。受け取った男は「俺、字が遅いんだ」と言い訳のように笑い、けれどページを開く指は急いでいた。



  佑摩はその会話を聞いて、視線だけを下げた。背筋はまっすぐのまま。けれど、肩の角がほんの少し丸くなる。

  「……俺たちの努力を、初めて褒められた顔だ」

  奏音は佑摩の横顔を見て、何も言わなかった。言えば照れて崩れる。崩れてもいいが、今は折れてほしくなかった。



  列車が次の駅へ滑り込む直前、奏音は議事録の写しを窓へ掲げた。朝日が紙を透かすと、細い線が交差して、小さな鳥の形が浮かび上がる。

  柚花が目を丸くする。

  「……鳥?」

  「鳥舎の紙。希恵が回してくれたやつだ。だから、同じ模様は作れない」

  梨寿が笑いを噛み殺して言った。

  「偽物にするなら、もっと真面目にやってほしいね。ここまで可愛い鳥を、外せるわけない」



  柚花は小さく言った。

  「ねえ。脚環にも印を入れられる?」

  柚花の指先は、鳥の足輪を結ぶときの癖で、空に輪を描いた。

  「短い要約を刻む。途中で捕まっても、足輪だけ残れば、内容が残る」

  奏音は頷き、紙束を握り直した。

  「音が欠けても、紙が残る。紙が奪われても、足輪が残る。残り方を、重ねる」

  紗里奈が吊り革を掴んだまま、目を伏せて言った。

  「欠けた音は、欠けたままでもいい。欠けた場所に、誰が手を入れたかが出る」



  駅に戻ると、売店の前に人だかりができていた。売店の主人は冊子を積んでいるのではなく、棚の端へ一冊だけ置き、「読み終わったら戻して」と手書きで札を立てている。読んだ人が次へ渡す。手から手へ、紙が生きている。

  柚花が近づくと、主人は目を細めて言った。

  「これ、面白いねえ。固い話かと思ったら、ところどころ笑える。最後に必ず、胸がきゅっとするのは反則だよ」

  柚花は言葉を探して口を開き、結局、深く頭を下げた。主人は慌てて手を振った。

  「謝ることじゃない。読ませてもらってる側が、勝手に救われてるだけ」



  梨寿は、売店の横に貼られたメモ帳を指でめくった。「置いてほしいもの」と書かれた欄に、鉛筆の文字が増えている。「甘いパン」「包帯」「猫のえさ」――その並びの端に、目だけが鋭い一行。

  「次号、敵首都編ありますか?」

  柚花はその紙片を指で押さえたまま、奏音を見上げた。目は丸いのに、そこに涙の縁ができている。

  「待ってる人が、いる」

  奏音は紙片を受け取り、折り目を付けずに胸ポケットへ入れた。

  「じゃあ、届ける。欠けた一言も、欠けたままじゃ終わらせない」

  柚花は頷き、笛の紐を結び直した。結び目が固くなるほど、顔が少しだけ強くなる。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  返却箱の口はいつもより小さく見えた。柚花が箱の縁を撫で、紙が引っかからないことを確かめる。引っかかって破れたら、今日の記録が欠ける。欠けたら、また同じことが起きる。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  戦記の背が棚に収まると、空気が一段だけ整う。奏音は整った空気に甘えず、最後に床の埃を足先で払った。埃を払うのは、ここが生活の場所だと宣言することだった。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  棚番号の札が揺れて、カタンと鳴った。奏音はその音を聞いて、やっと肩の力を落とした。戦場の音は終わらない。けれど図書室の音は、終わり方を知っている。



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