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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第36話 奪う装置、守る声

 その夜、午後十一時半。学園の図書室は灯りを落とし、扉の金具だけが月の光を受けて冷たく光っていた。昼に拾った薄片の声が、脳裏でまだ回っている。あの声を失えば、誰が何を隠したのか、証が霧になる。だから奏音は希恵の合図に合わせ、裏口の鍵をそっと回した。



  「くしゃみ、禁止ね」

  梨寿が唇の前に指を立てる。言いながら自分の鼻を押さえ、笑いそうになって目だけを細めた。

  「笑うと音が出る」

  佑摩が小声で返し、靴底の外側だけで歩いてみせる。滑稽さが混じるのに、誰も止めない。

  順一郎は古い地図を折り目で確かめ、柚花は胸のポーチの上から手を押さえた。硬さがある。まだ真実はここにある、と言い聞かせるための手だ。



  廊下は本の匂いで満ちていた。読みかけの机に、誰かが置き忘れた栞が揺れている。奏音はそこへ視線を落とし、すぐに逸らした。今夜は、読むためじゃない。消される前に守るためだ。



  「下、ある」

  佑摩が床板の継ぎ目を指でなぞる。黒い墨の匂いが、ここだけ濃い。奏音が板を持ち上げると、冷気が足首を撫でた。階段は石で、湿った紙と石灰の匂いが混ざっている。



  地下書庫は、背の高い棚が並び、封蝋の赤が点々と残る。糸で綴じた冊子の背が暗闇でうっすら光り、触れれば崩れそうな古さだった。奥で、耳に届かないはずの低い揺れが空気を押していた。柚花は喉がきゅっと縮むのを感じ、笛の飾り布を握って落ち着かせた。



  紗里奈は棚の陰で立ち止まり、掌を壁へ当てた。指が震えたのではなく、壁そのものが微かに震えていた。

  「音を吸い込む向きで回ってる。外へ逃がさない」

  紗里奈は言い切ると、耳を澄ませる。地上では蝉が鳴かない季節だ。けれど紗里奈は、真夏に薄片へ刻んだ蝉の高さを頭の中で思い出し、いまここで鳴っている低い揺れへ重ね合わせるみたいに、唇を小さく動かした。



  奏音が灯りを少しだけ落とすと、床の中央に丸い石の輪が浮かび上がった。輪の内側は黒い石材で、継ぎ目が一か所だけ不自然に細い。順一郎が囁く。

  「電源の抜き口……ここだな」

  けれど手を入れた瞬間、輪の奥が「ぎゅ」と鳴り、空気が急に重くなった。柚花の胸のポーチが一度だけ熱くなり、薄片が弱い雑音を漏らした。



  柚花は息を吸った。吐いたはずの白い息が、胸の中へ戻っていく錯覚がある。輪の内側に立っていないのに、足首のあたりが引かれる。笛の飾り布が、誰かの指で摘ままれたみたいにぴんと張った。

  「……軽い。軽いの、怖い」

  柚花の声は小さく、でも耳の奥へ直接滑り込んだ。言葉の端が、ひゅっと削れる。薄片の雑音が、その削れをなぞって増える。



  佑摩が柚花の肩を掴み、輪から一歩だけ離そうとした。だが靴底が床に貼りつき、動いたのは肩だけだった。柚花の目が細くなり、唇が昔の地下書庫の続きを探す。

  「悩まないって……」

  そこで声が途切れた。途切れた場所へ、何かが吸い込まれる。



  奏音は柚花の耳元へ顔を寄せた。大きな声は出せない。けれど言葉を止めたら、柚花の中の空白だけが増える。

  「柚花。お前が、ここにいる証を言う」

  奏音は息の音で、ひとつずつ置いた。

  「鳥舎の藁を一本ずつ揃えて、区画線を引いたのは誰だ。検問で汗だくのまま餌袋を担いで、兵に『説明が長い』って叱られたのは誰だ。図書室で静かにと言われても、背表紙を撫でて『この本、くすぐったい』って囁いたのは誰だ」

  柚花の瞳がわずかに揺れた。揺れた瞬間、引かれる力が一息だけ弱まる。



  順一郎が、真顔のまま唇だけ動かした。

  「笑うな。ここは大事な場面だ」

  言い方が妙に硬くて、梨寿が噴きそうになり、両手で口を塞いだ。笑いを飲み込む代わりに、涙が先に滲む。柚花も、怒る前の顔で眉を寄せた。



  紗里奈が頷き、短く言った。

  「逆位相で、ほどく。奏音、その言葉、続けて」





  そのとき、天井の向こうで足音がした。上の床板が、ほんの少しきしむ。

  全員が動きを止めた。梨寿が水筒を抱え直す音さえ、今は怖い。奏音は唇を閉じ、息を吐く位置まで意識した。

  足音は一往復して、遠ざかった。門番の見回りだ。希恵が外で時間を稼いでいるはずなのに、胸の鼓動だけが勝手に急ぐ。



  「今」

  紗里奈が短く言った。紗里奈は石の輪へ背を向け、息を吸う。次の瞬間、紗里奈の声が、輪の揺れとぴたり反対側で重なった。高い声ではない。喉の奥で、同じ速さだけを合わせた、反転した響きだ。

  梨寿が思わず目を丸くする。柚花は、声が音を切り裂くのではなく、ほどくみたいに働くのを肌で感じた。



  外の蝉の記憶が、紗里奈の声に薄く混ざる。すると輪の揺れが一瞬、迷子になったように揺らぎ、床の黒い継ぎ目から冷たい風が漏れた。

  「抜ける、今なら」

  佑摩が小さな楔を差し込み、奏音が肩で支え、順一郎が石を持ち上げる。指先が痛むほど固いのに、紗里奈の声が続く間だけ、石は重さを忘れたように動いた。



  最後のひと押しで、継ぎ目が外れた。中には、黒い石の芯が埋まっていた。芯は熱も冷たさもなく、触れた瞬間に掌の汗だけを吸った。奏音が布で包み、梨寿がポケットへ滑り込ませる。輪の揺れは途切れ、地下書庫の空気が急に軽くなる。棚の上の埃がさらりと落ち、封蝋の欠片が一つ、床で鳴った。



  「止まった」

  紗里奈が言い、声を切る。途端に膝が少し折れ、奏音が腕を伸ばして支えた。紗里奈は笑わずに、肩の力だけを抜いた。



  階段へ戻る途中、柚花はポーチの薄片を取り出し、耳元で再生した。会議の声が、確かに流れる。けれど途中で、誰かの重要な一言が、紙を破ったみたいに消えていた。代わりに空っぽの静けさだけが続く。

  「……抜いたのに、消えた」

  柚花の声が掠れる。紗里奈は薄片を受け取り、指で縁をなぞった。

  「止めたのは今から先。もう奪われた分は、戻らない」

  奏音は闇の中で歯を食いしばり、薄片を柚花へ返した。

  「奪わせない。次は、守りながら増やす」

  階段を上がりきると、図書室の空気が少しだけ温かかった。裏口の影に希恵が立ち、短く頷く。柚花が薄片を見せると、希恵は一度だけ瞼を閉じた。

  「残っているところから、つなぎ直す。欠けた分は、欠けたままでもいい。欠けた跡が、奪った手を指す」

  地上の蝉の声が遠く聞こえ、地下の静けさに細い線を引いた。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  棚番号の札が揺れて、カタンと鳴った。奏音はその音を聞いて、やっと肩の力を落とした。戦場の音は終わらない。けれど図書室の音は、終わり方を知っている。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  返却箱の口はいつもより小さく見えた。柚花が箱の縁を撫で、紙が引っかからないことを確かめる。引っかかって破れたら、今日の記録が欠ける。欠けたら、また同じことが起きる。



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