第35話 国が割れても、心が空っぽよりまし
昼前の学園中庭は、石畳が冷え、吐く息が白くほどけた。図書室の換気口から漏れたのは、薄片に焼き付いた蝉の声だった。噴水の水音に混ざり、耳の奥で揺れる。廊下の影に、見物の生徒が固まっている。誰も笑わないのに、誰かが咳をすると、それだけで噂が走る気配がした。
司書席から連れ出された男は、制服の胸元の徽章を外さずに立っていた。片手には、さっきまで指先で角を揃えていた戦没者名簿。背表紙の布が、陽に照らされて微かに光る。
中庭の空気は乾いていて、声がよく飛ぶ。だからこそ、声を出した側が負ける。奏音は口を開かずに、相手の視線の置き方だけを見る。柚花は噴水の縁へ腰を預けるふりをして、いつでも跳ねられる角度を残した。順一郎は袖の中で指を折り、逃げ道の数を確認する。観客の視線が一つ増えるたび、足元の石が少しだけ重くなる。
希恵が一歩前へ出た。紙束を抱え、汗を袖で拭わずに言う。
「月翡翠の薄片を、許可なく運用した記録が残っています。通信のため、という言い訳は通りません。学園の保管物を勝手に持ち出した時点で、拘束の理由になる」
男は口角だけ動かし、笑った形を作った。
「拘束? 君は秩序が好きだね。なら聞こう。秩序が崩れたら、誰が子どもを守る?」
希恵は返事を急がない。代わりに、紙束の一枚を指で弾き、乾いた音を立てた。
「守るために、線を引くんです。越えた人を止めるために」
言い終えると同時に、希恵は門番へ視線を送った。門番が頷き、通路の両端が静かに塞がる。
佑摩が紙束へ、さらに別の帳簿を重ねた。補給の記録、弾薬の受領、包帯の数、靴下の欠品、そして行方不明の欄。紙の角が擦れて、指先にざらつきが残る。
佑摩は見せるだけ見せて、言葉を削った。
「戦は延びた。延びた分、ここが増えた」
指が、行方不明の欄を二回、叩く。墨が滲み、指先が黒くなる。
男の視線が、名簿のページへ一瞬だけ落ちた。順一郎はそれを見逃さず、噴水の水音に紛れるくらいの声で奏音に言った。
「今、そこを見た。まだ“読む側”の目だ」
梨寿は護衛兵の列へ近づき、肩から下げた水筒を差し出した。兵が戸惑って手を出せないでいると、梨寿は栓だけ外して、噴水の縁に置いた。
「飲んで。ここ、日陰が少ない」
兵の喉が鳴る。梨寿はそれを聞いて、もう一言だけ足す。
「あなたも、誰かの子でしょう」
兵の目が揺れ、拳の力がわずかに抜けた。水筒を取る指が震え、冷えた水が唇に当たったとき、兵は小さく息を吐いた。その背中の硬さが、一枚だけ薄くなる。
奏音は中庭の真ん中へ、薄い冊子を数冊並べた。紙は粗い。けれど、角は整っている。柚花が夜中に折り、紗里奈が音の薄片から写し取り、順一郎が誤字を直し、佑摩が運びやすい厚みにした束だ。
奏音は男の方へ、最初の一冊を滑らせた。
「もう遅い。読者は広がっている」
男は冊子に手を伸ばし、触れる直前で止めた。触れば、紙の匂いがする。触れば、書いた側の呼吸が移る。だからこそ止めたのだと、柚花には見えた。
奏音はさらに、封筒を三通取り出した。封は違う。泥の付いたもの、駅の売店の印が押されたもの、病院の消毒の匂いが薄く残るもの。
「返事だ。前線から、後方から、敵側の街からも来ている」
柚花が封筒を受け取る。指先が紙の温度を拾い、胸が熱くなる。中の文字は整っていない。けれど、行の間に息が詰まっているのが分かる。
柚花は名簿の本を指差した。
「さっき、怒ったよね。国が割れるって」
男の眉が跳ねる。
柚花は笑った。笑い方が上手くなくて、歯の見え方がぎこちない。
「でも、割れてもいい。空っぽより、まし」
言い切った瞬間、柚花の喉が震えた。笛を吹けなかった朝の、あの空白がよぎる。けれど、今は逃げなかった。
男は名簿を抱き直し、低く言った。
「君たちは優しすぎる。だから壊れる。心が動けば、命令を聞かなくなる。泣けば、止まる。止まれば、今度は内側が割れる」
順一郎が一歩だけ近づいた。
「割れて困るのは誰です。あなたが守りたいのは、国ですか。あなたの椅子ですか」
男の視線が、順一郎の口元ではなく、名簿のページへ落ちた。返事の前に、その指が文字をなぞりかけて止まる。
そして男は、懐へ手を入れた。
指先に触れたのは、小さな箱だった。月翡翠の粉を混ぜた黒いインクが、薄い硝子越しに揺れる。蓋の裏に、古い封蝋の欠片が貼り付いている。
紗里奈が耳を塞がずに、息を吸う。
「来る」
希恵が紙束を抱えたまま、声を張った。
「起動すれば、違法の証拠が確定します!」
男は笑った。笑いながら、箱の蓋を開けた。
噴水の水音が、一拍だけ遠のく。
胸の奥が、ふっと軽くなる。柚花は自分の心臓が、羽根みたいに薄くなった気がして、指先を握りしめた。封筒の中の文字が、急にただの線に見える。
奏音は冊子の上へ手を置き、紙の温度を確かめるように押さえた。
「……奪わせない」
言葉の最後が、風に攫われそうになった。
箱の中で、黒いインクがゆっくり回る。
封蝋の欠片が、ひとつ、鳴った。
中庭へ出た黒幕の靴は、濡れた石畳で小さく滑った。転びそうになった体を、黒幕は自分で立て直す。周囲の生徒が息を止める。
奏音は、図書室で作った複製の束を抱えていた。紙は温度で反り、端が指に食い込む。痛みが、逃げ道を塞ぐ。
「ここで燃やすなら、あなたが燃やしてください」
奏音は黒幕へ紙束を差し出した。黒幕の手が伸び、止まり、引っ込む。火種は持っていない。持っていないのではなく、持てない。
佑摩が一歩前へ出る。軍靴が石を鳴らす。
「現場の命を数字で笑う人間の言い訳は、聞き飽きた」
怒鳴らない。だが声は硬い。黒幕は一瞬だけ、佑摩の靴を見た。泥が乾いて、割れている。前線の道だ。
紗里奈が薄片を掌で包み、蝉の声を一度だけ流した。冬の空気に、夏に薄片へ刻んだ蝉の高さが刺さる。周囲の生徒が首を傾げ、黒幕だけが目を細める。音を知っている顔だ。
柚花はその顔を見て、笑う。
「知ってるんだ。……じゃあ、聞かせる相手は、あなたじゃない」
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。
誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。
薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。




