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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第34話 黒幕は本を愛していた、だから厄介

 午後六時の閉館ベルが鳴り終わっても、図書室の空気は動かなかった。棚の影が長く伸び、司書席の机だけが、磨いた木目を静かに光らせている。外は冬の薄明かり、窓ガラスの向こうで校庭の旗がだらりと垂れていた。

  奏音の外套には、朝の鳥舎の煤がまだ残っている。袖口に触れるたび、指の腹がざらりとした。暖房の金具が「こん」と小さく鳴り、静けさに釘を打つ。あの灰が、ここへも来る――そんな予感だけが、背中を押した。



  司書席の引き出しは、開ける音だけで人を呼ぶ。奏音は引き出しを最後まで引かず、指が入る隙間だけで封筒をつまみ出した。紙の角が机に当たりそうになり、彼女は一度だけ息を止める。紗里奈は耳を傾け、遠くの廊下の靴音が二人分か三人分かを、反響の差で数えていた。



  司書席に座っていた男は、徽章を指先でつまみ上げ、布で拭いた。金属の角が欠けないように、机へ戻すときも音を立てない。まるで返却台に本を置くみたいに、そっとだ。

  机の端には、紙の栞が一本、ぴたりと挟まっていた。栞の上端が一ミリも曲がっていない。誰かが乱暴にめくった形跡がない。



  「勝手に椅子に座るなら、利用者カードを出して」

  順一郎が言った。ふざけた口調に聞こえるのに、手は返却箱の陰で震えていない。図書室の作法を盾にする――この場の温度を上げないための工夫だ。

  男は顔を上げた。帽子の影が外れ、薄い眼鏡の奥から、奏音たちを順に数える視線が走る。

  「若いのに、棚の並べ替えがうまい。これでは道に迷う」

  誉め言葉の形をしているのに、声の端が硬い。希恵が一歩前へ出た。鍵束を握った手を見せず、外套の内側で拳を作る。

  「司令部の最高位が胸につける形。その徽章を、なぜここに?」

  男は徽章を一度だけ見下ろし、笑わずに答えた。

  「拾った。落とし物は司書席へ届くのが筋だろう」

  言い終え、机の上の紙片を指で整え、角を揃えた。人に向けた丁寧さではない。紙に向けた丁寧さだった。



  奏音は感情を喉に押し込み、鞄から束ねた記録を出した。門番の交代表、扉の鍵穴の傷、鳥舎の灰から拾った図書室の文言、薄片が吐いた「次は図書室」。順番に机へ置くと、紙が小さく擦れる。

  「拾ったなら、拾った時刻と場所が必要だ。許可証の番号も」

  男は首を傾け、言葉を重ねた。

  「朝。巡回の途中だ。場所は――」

  「違う」

  奏音が遮った。声は大きくない。ただ、句点が鋭い。

  「この交代表の修正、あなたの筆圧の癖と同じだ。インクの滲みも。希恵が持ってきた提出物と一致する」

  希恵の視線が一瞬だけ揺れ、すぐ固まった。自分の立場の上にいる者を名指しされる痛みが、肩へ乗ったのが分かる。

  男は口角を上げないまま、ゆっくり息を吐いた。

  「証拠というより、推測だな」

  「推測で燃えた鳥舎は戻らない」

  紗里奈が低く言い、薄片の欠片を掌の上で転がした。石が光を拾い、冷えた音を抱え込んでいる。



  順一郎はその瞬間、男の視線が棚の奥で止まるのを見た。背表紙ではない。“あるページ”だ。誰も借りない厚い資料、布で包まれ、紐で結ばれたままの一冊。借りるとしたら、名前を探す者だけだ。

  順一郎が小さく指で合図する。柚花が頷き、棚の隙間へ滑り込んだ。足音を殺して、布包みを抱える。抱えた途端、胸の奥が重くなった。布の下の紙が、たくさんの息を吸っている気がした。







  男は名簿を受け取る前に、机の端に挟んだ栞を指先で揃えた。揃える動きは丁寧なのに、速すぎる。角が一ミリでもずれたら困る――そんな焦りが、紙の上で透けた。

  順一郎はその指を見て、怖れている相手が軍の命令ではないことを確かめた。ページの向こうにいる“名前の持ち主”だ。

  柚花は司書席の前に戻り、布をほどいた。戦没者名簿。名前と年齢と、届かなかった手紙の行き先が、細い字で並んでいる。柚花は本の角を指で整え、男の前へ差し出した。震えは隠さない。けれど落とさない。

  「……この名前、読めます?」

  ページの上には、柚花が昨日まで鳥の脚環に結んでいた宛名と同じ姓があった。読めば、誰かの顔が浮かぶ字だ。

  柚花は指先で一行をなぞった。文字の上で止まると、指が少しだけ沈む。紙の厚みの向こうに、呼び名が眠っているみたいだ。

  「この人、図書室の窓際でよく寝てた。返却期限を守れなくて、順一郎が肩を叩いた」

  柚花は笑おうとして、息だけが漏れた。梨寿が水のコップを差し出す。柚花は受け取って、飲まずに置いた。飲むと、声が崩れそうだったから。

  柚花はもう一度、男を見上げた。差し出した本を、少しだけ近づける。

  「読めたら、ここで読んで。読めないなら――どうして読めないか、言って」

  男の喉が一度だけ動いた。眼鏡の奥の瞳が、字面をなぞる前に逃げる。奏音はその逃げ方で、答えを受け取った。



  男は本へ触れず、代わりに机の端を掴んだ。木がきしむほど強く。指の節が白くなる。

  「それを広めたら国が割れる」

  声が、初めて跳ねた。図書室に似合わない音だった。棚の背表紙が一斉に沈黙し、柚花の指先だけが、紙の上で小さく震え続けた。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  返却箱の口はいつもより小さく見えた。柚花が箱の縁を撫で、紙が引っかからないことを確かめる。引っかかって破れたら、今日の記録が欠ける。欠けたら、また同じことが起きる。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  戦記の背が棚に収まると、空気が一段だけ整う。奏音は整った空気に甘えず、最後に床の埃を足先で払った。埃を払うのは、ここが生活の場所だと宣言することだった。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



  棚番号の札が揺れて、カタンと鳴った。奏音はその音を聞いて、やっと肩の力を落とした。戦場の音は終わらない。けれど図書室の音は、終わり方を知っている。



  図書室の棚は、戦場よりも静かだった。静かだからこそ、戻ってきた音がよく分かる。奏音は背表紙を撫で、埃の層が薄くなっている棚を見つけた。誰かが先に片づけた。誰かが先に帰った。



  柚花が返却印の位置を確かめ、紙の端を揃える。揃えた瞬間に、やっと呼吸が深くなる。順一郎が「帰ってきたって感じがする」と呟き、奏音は頷いてから、棚の中へ戦記をそっと滑り込ませた。



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