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月翡翠の薄片と、冬に鳴く蝉の音  作者: 聖稲


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第32話 燃える鳥舎、燃えない約束

 冬の夜明け、学園の裏手にある伝書鳥舎は、ふだんなら羽音が先に聞こえる。けれど、この朝――午前五時すぎ。奏音が石畳の角を曲がった瞬間、鼻を刺したのは濡れた煙の匂いだった。

  息を吐けば白く曇り、指先はすぐ硬くなる。火の熱が去った後の冷えだけが、余計に刺さった。

  黒く焦げた屋根板が、斜めに崩れている。水をかけた跡がまだ光っているのに、藁の灰が風で舞い、舌の奥に苦い味が残った。



  焼け跡は、昼でも煙の匂いを手放さなかった。黒い梁を触ると、指先が灰に沈む。柚花は掌を見て、わざと眉をつり上げた。

  「この手、洗っても落ちないやつだ」

  言いながら、彼女は自分の外套で拭こうとして梨寿に止められる。梨寿は無言で布を差し出し、柚花は一拍遅れて受け取った。笑いの形を作ってから、笑えない顔に戻る。



  柚花は入口の前で動けずにいた。片手に、いつもの笛。もう片方の手は宙を掴むように開いたまま。笛を吹けば鳥が返ってくるはずだと、身体だけが覚えているのに、喉が鳴らない。

  「……うそでしょ」

  声は小さく落ちた。誰に聞かせるでもないのに、言ったあとで唇が震えた。



  奏音は柚花の背中越しに、焼けた梁を見た。怒りが先に来るはずなのに、胸の奥が妙に冷える。昨夜、短距離でつないだ新しい飛行ルート。検閲をすり抜けるために増やした巣箱。その中心が、ここだった。

  「柚花」

  名前を呼ぶと、柚花はやっと瞬きをした。泣き顔を作る前の、あの空白の目で。

  奏音は一歩前に出て、灰が舞う中で言い切った。

  「責任は、俺が持つ」

  柚花が振り向いた。笛を握る指が白い。

  「持つって、何を。燃えた木? 鳥の痛み? それとも、わたしの喉の詰まり?」

  言い終える前に、柚花は自分の言葉に腹を立てたみたいに、唇を噛んだ。



  「全部だ」

  奏音は短く返した。格好をつけたかったわけじゃない。口に出さないと、ここで膝が折れそうだったからだ。

  「でも、鳥は俺の肩には乗らない。柚花が呼ぶしかない」

  柚花は笛を見つめた。笛の先に付けた小さな布飾りは、煤で灰色に染まっている。柚花はそれを指で擦り、布がほどける音を聞いた。



  柚花は笛を口元へ運んだ。息を入れる。けれど出たのは、かすれた空気の音だけだった。

  「……今日に限って、鳴らない」

  「笛が悪いんじゃない」

  紗里奈が言って、代わりに吹こうとしてすぐ咳き込んだ。灰が喉へ入り、二人とも同時に顔をしかめる。柚花はその顔を見て、笑おうとして失敗し、目尻だけが濡れた。



  奥から、羽ばたきが乱れた音がした。

  梨寿がしゃがみ込んで、布を裂き、火傷した鳥の翼を巻いている。水差しの中の冷えた水で口元を湿らせ、鳥が呼吸を乱さないように掌で影を作った。

  「こっち、見て。まだ生きてる」

  梨寿の声は、強くも弱くもない。ただ、目の前の命に合わせた速さだった。

  柚花は吸い込む息が震えたまま、梨寿の横に座った。鳥の目は濁っていない。けれど、羽の端が焦げている。

  柚花は指先で、鳥の足輪を確かめた。自分が付けた印だ。鳥の名前を声にしようとして、喉が鳴らず、代わりに息が漏れた。

  梨寿が柚花の背中へ、布越しの手を置いた。押さえつけるでも、引き寄せるでもなく、そこにいるだけの重さだった。



  佑摩は鳥舎の周囲を歩き、足跡を数える代わりに、板の割れ方を見た。扉の鍵穴には、煤の下に細い傷がある。こじ開けた跡じゃない。鍵が刺さる角度を間違えたときに残る傷だ。

  佑摩は門番の詰所へ行き、交代表を確認した。見張りの名前の横に、修正の跡がある。墨の滲み方が、筆圧の癖を隠しきれていない。

  「怠慢じゃないな」

  佑摩は呟いた。言葉を増やすと、怒りが溢れて手が震える。だから短く切った。

  「中に、通したやつがいる」



  希恵が到着したのは、火の匂いがまだ立つ頃だった。制服の上着を羽織り直し、門番に指示を出す。

  「今日の午前四時から六時まで、この周辺に入った者の名簿を作れ。許可証の番号も。抜けがあれば、規則違反として処理する」

  言い方は硬い。けれど「処理」の中に、守るための手続きが混じっているのを、奏音は聞き逃さなかった。



  順一郎は焼けた柱の根元に膝をつき、灰の中から紙屑を拾い上げた。水を含んでふやけた紙に、黒い文字が残っている。

  「“閉館後は私語厳禁”……これ、図書室の貼り紙の文だ」

  順一郎は声を抑えて言った。柚花が顔を上げた。

  「図書室の……?」

  「書き方が、学園の掲示そのものだ。前線の兵が使う言い回しじゃない。ここにいる人間、しかも学園の内側に慣れた人間だ」



  紗里奈が、焼けた巣箱の下へ手を差し入れた。灰が指にまとわりつく。奏音は咄嗟に止めようとして、声が出なかった。

  紗里奈は指先で何か硬いものを挟み、そっと引き抜いた。小さな薄片。会議室で録ったのと同じ、音を抱える石の欠片だ。

  紗里奈が掌で拭うと、薄片が「ちり」と鳴った。焼け残った縁が熱を持っている。

  「……再生する」

  紗里奈がそう言った直後、薄片の奥から掠れた声が漏れた。人の声に似せた、冷たい発音。



  『次は――図書室』



  柚花の指が笛を握りしめ、木がきしんだ。奏音は灰の中で、約束の形を探した。燃えたのは屋根だ。巣箱だ。けれど、伝えると決めた言葉は、まだ燃えていない。



  装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。



  柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。



  誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



  薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。



  装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。



  柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。



  音を重ねるたび、空気が少しだけ軽くなる気がする。気がするだけで十分だ。柚花が一歩引き、退路の線を足先でなぞった。戻る道が見えると、手が前へ出る。



  逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。



  薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。



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