第31話 伝書鳥の網は、剣より速い
夏の昼に薄片へ刻んだ蝉の声で装置を乱した日からしばらく。地下会議室で拾った徽章は、布の包みに入れたまま、奏音の鞄の底で小さく重かった。階段を上がるたび、金属が揺れて「ここにいる」と名乗る。冬の前線の空気は乾ききっていて、外へ出た瞬間、肺がきしんだ。
鳥舎の藁は凍ったまま固く、踏むと音が立つ。奏音は靴底を浮かせるように歩き、藁を押さえた。柚花は手袋の指を噛みそうになって、代わりに袖口を握りしめる。希恵は伝書鳥の脚環の番号を暗記するふりで、周囲の影の動きを数えていた。鳥の温度だけが、冬の空気に負けずにそこにあった。
「そのまま後方へ送る。今夜のうちに」
希恵は返事を待たずに歩き出した。靴底が凍った泥を砕き、短い音を何度も鳴らす。奏音は鞄の口を押さえ、紗里奈の薄片が触れ合わないように指先で仕切りを作った。
伝書鳥舎は、補給駅の裏手にあった。板張りの壁に、羽毛が乾いた綿のように貼りつき、入口の上の小さな鐘が風で鳴っている。扉を開けると、温い息と糞の匂いが押し寄せ、そして、鳥たちの眼が一斉にこちらを見た。
「……視線が痛い」
柚花が肩をすくめ、すぐに袖をまくった。手袋をはめる前に、爪先で床の藁をそろえ直す。鳥舎の床に引いた線は、彼女が朝のうちに炭で描いたものだ。小さな区画がいくつも、網の目のように並んでいる。
「長距離は、見張りに引っかかる。だから短く飛ばす。短く、何度も」
柚花は壁の地図へ、木片の留め具を打ち込んだ。前線の塹壕から一つ目の中継、二つ目の中継、そして後方の学園まで。線は真っ直ぐじゃない。回り道に見えるのに、距離は短い。
「検閲の机に届く前に、別の机を渡らせるの?」
奏音が言うと、柚花は口の端で笑った。笑うだけで、指は止まらない。糸を引き、結び目を増やしていく。
「机の上で止まるから読まれる。止まらなきゃ読まれない。ね、鳥は止まるのが仕事じゃないでしょ」
柚花は止まり木を叩き、鳥が二羽、羽をふくらませた。柚花の指先が近づくと、鳥は嫌がって跳ねる。けれど次の瞬間、彼女はそっと餌を一粒だけ置いた。鳥の目が丸くなり、喉が鳴る。
「甘やかしてる」
奏音が言うと、柚花はわざとらしく眉を上げる。
「甘やかしてない。交渉」
鳥の鳴き声の間で、紙をこする音がした。奏音が机の上に並べたのは、薄い冊子の束だ。表紙には「通勤途中に読める戦記 第一便」とだけ印刷した。印刷は学園の小さな輪転機。紙は粗い。けれど文字は詰めすぎない。座ったまま片手でめくれる厚みで、一話ずつ切ってある。
「これ、本当に“戦記”?」
柚花が冊子を一枚つまみ、光に透かす。奏音はその手から奪い返さず、ただ言った。
「読まれるなら、読ませる。読む人の呼吸が乱れない長さにする。……前線のことを、後ろへ置き去りにしないために」
紗里奈は机の端で、薄片を小さく割っていた。雲母みたいな板が、指の腹で「ちり」と鳴る。割れるたび、音が逃げるようで、奏音は思わず肩をすくめた。
「壊してないの」
紗里奈は言い訳みたいに言い、すぐに口を閉じた。代わりに、割った薄片を布の上に並べる。三枚、五枚、七枚。どれも欠けている。欠けているから、ひとつ盗まれても意味が薄い。
「会議の声、全部が一枚に乗ってると、拾われた瞬間に終わる」
紗里奈は、薄片の角へ爪で小さな印を刻んだ。一本、二本、三本。数字を言わない。刻むだけで、並べ方を覚えている。
希恵が鳥舎へ入ってきたとき、空気が少しだけ張った。彼女は上着の内側から、封蝋と紙片を取り出す。紙片には情報部の印。大きくはない。威圧するための印じゃない。手続きを通すための印だ。
「これで“最小限”の保護を付ける」
希恵は冊子の封に、手早く封蝋を落とした。赤い蝋が冷え、硬くなる。奏音は、その硬さが、見えない盾に見えた。盾は薄い。けれど、ないよりはましだ。
「正面から殴らないんだね」
柚花が言うと、希恵は一瞬だけ視線を上げた。
「殴れば殴り返される。枠の中で動く。枠の外にいるのは、向こうだから」
準備は、夕方のうちに終わった。外では砲声が遠くでくぐもり、雪は降りそうで降らない。鳥舎の中は、鳥の体温でほんのり暖かい。奏音は第一便の包みを両手で持ち、胸の前で一度だけ抱えた。紙の角が、外套越しに心臓へ当たる。
「行って」
奏音が囁くと、鳥が首をかしげた。柚花が合図し、扉が開く。夕暮れの空へ、白い羽が切り裂くように飛び出していく。二羽、三羽、五羽。短距離の中継へ向かう便は、まとまって飛ばさない。ばらけて飛ぶ。網は一枚じゃない。
戻ってくるはずの時間が過ぎても、鐘は鳴らなかった。止まり木は空のまま。藁の上に、落ちた羽だけが一本、ゆっくり揺れている。
「……迷った?」
奏音が言いかけたとき、紗里奈が床へしゃがみ込んだ。藁を掻き分け、木の隙間をのぞく。指先が、細い糸に触れた。
「糸じゃない。……網」
紗里奈は、切れた細い金具をつまみ上げた。鳥を繋ぐためのものじゃない。巣箱を固定するための留め具だ。外れ方が、乱暴すぎる。
柚花が巣箱へ走り、蓋を開けた。中は空っぽだった。羽毛が散り、温いはずの場所が、冷えている。
「鳥が戻らないんじゃない」
希恵の声が低く落ちた。
「……“巣”が狙われた」
奏音は鞄の底の徽章を思い出し、手のひらが冷たくなった。剣より速いはずの網に、先回りする手がいる。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。
音を重ねるたび、空気が少しだけ軽くなる気がする。気がするだけで十分だ。柚花が一歩引き、退路の線を足先でなぞった。戻る道が見えると、手が前へ出る。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。
誰かの呼吸が合ってしまいそうになり、奏音はわざと違う間で息を吐いた。合わせない。合わせた瞬間に、こちらの拍が読まれる。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。
薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。




