第30話 戦記は剣じゃない、でも刺さる
蝶番が、さらに鳴った。奏音は指を広げ、扉の縁を押し戻す。金属の冷たさが手のひらに貼りつき、薄い油の匂いが鼻の奥へ残った。
突入の合図は派手な音ではなかった。紗里奈が息を一つ吸い、吐かなかった。それだけで、奏音は耳の中の空気が硬くなるのを感じた。順一郎は肩で扉を押し、木が鳴る前に体重を預けて止める。柚花は笑う準備だけをして、笑わない。笑い声は武器にもなるが、いまは刃がこちらを向く。
扉の向こうは地下会議室だった。天井は低く、梁に吊った裸電球が四つ。黄色い光が机の上の紙を照らし、影は人の顎の下で濃く溜まっている。坑道の湿り気が室内にまで染み、誰かの外套から落ちた泥が床で黒く乾いていた。
「――兵の損耗は、想定内だ。数字は正直だろう?」
笑いが混じった声がした。奏音は呼吸を半分に切り、肩を壁へ寄せる。希乃香が先に入る。足音を殺したまま、机の脚と脚の間を読むように進み、隠れられる影の厚さを選んだ。
紗里奈は袖口から薄片を取り出した。雲母のように薄い板に、微かな溝が刻まれている。彼女はそれを机の下へ滑らせ、椅子の脚に糸で結ぶ。声の震えが板へ移り、後で針を落とせば、名前も数字も、笑いまで残る。録り方は静かだが、残るものは静かじゃない。
時計は持ち込めない。金属が光を返すからだ。けれど紗里奈は、薄片を結ぶ前に爪で印を入れた。三本の短い傷は「夜半」、一本の長い傷は「会議開始」。後で針を落としたとき、どの音がいつのものか迷わないようにするためだ。
梨寿は透かしのある紙の上に、煤で汚れた指を置かない。代わりに、紙の端へ小さな鉛筆の芯を当て、軽くこすった。模様だけが浮き、文字が影の中で揺れた。『港湾管理局』。ここは海から遠い。なのに港の名がある。戦の道筋が、陸の下で海へつながっている。
梨寿は紙束の端をそっと摘まんだ。議事録の紙は硬い。指先で撫でると、繊維がざらりと返事をする。彼女は裸電球の光へ少しだけ傾け、透かす。薄い模様が浮いた。国境のこちら側では見ない透かしだ。波のような紋の下に、小さな文字が連なっている。
「……広い」
梨寿が、口だけ動かす。奏音は頷くしかなかった。相手は一つの部隊じゃない。国境の向こうの紙が、ここで使われている。誰が持ち込み、誰が許可したのか――答えが、味方の中にも伸びている。
奏音は鞄の中の小冊子を思い出した。図書室の片隅で、破れた本の背を直すために使う白い紙だ。そこに、今日の証拠を写す。誰が、どこで、何を言い、何を渡したのか。ページの端に「地下会議室/国境の丘の坑道/夜更け」とだけ書けば、読んだ人は場所を思い浮かべる。名前の横に数字を書けば、笑い声の重さが変わる。
戦を終わらせるのは銃じゃない。銃は黙らせるだけだ。黙らせたあとに、何が起きたかを残さなければ、同じことが繰り返される。奏音は喉の奥で言葉を飲み込み、紙束を抱え直した。これは武器じゃない。けれど、読む人の胸に針を立てるための記録だ。
机の上では、取引の確認が続いていた。食料の量、薬の箱、通行証の偽造、捕虜の交換。言葉の端に、住民の数が出てくる。人の数が、荷物の数と同じ調子で転がされた。
佑摩の肩が跳ねた。拳が勝手に握られ、腕が前へ出る。笑い声の主へ一歩――踏み込みかけた瞬間、奏音の手が彼の袖を掴んだ。
「今は、殴らない」
声を出さずに、唇だけで言う。佑摩は歯を食いしばり、視線で抵抗した。奏音は、鞄の留め具を指で叩く。革が鳴らない程度に。そこには紙束を入れる空きがある。ここで拳を振れば、紙は燃え、録音は割れ、地下の出口が塞がる。怒りは短い。証拠は長い。
佑摩の拳が、ゆっくりほどけた。彼は机の脚を見つめ、爪が木に食い込むのを堪えた。呼吸が荒くなりそうになるたび、順一郎が後ろから肩へ手を置く。押さえるでも、引くでもない。ただそこに手がある。佑摩は、その重さで踏みとどまった。
奏音は梨寿が見つけた透かしの頁を選び、順番を崩さないように束ねた。紗里奈の薄片を回収し、糸をほどいて布に包む。破壊はしない。盗むのは、紙と音だけ。希恵が言った「規則の枠」を、ここでも守る。
机の端に、黒い手袋が置かれていた。指先だけ擦れて薄くなっている。誰かが何度も紙をめくった跡だ。奏音はその手袋の上に、議事録の束を置き直した。戻すふりをして、最後の一枚だけを鞄へ滑らせる。そこに、会議の署名欄があった。
外で靴音が走った。会議室の奥の扉が乱暴に開き、二人が影のように抜け出す。希乃香が指で合図する。追うな、先に出口を押さえる。
だが、逃げる背の一人が、床へ何かを落とした。金属が石に当たり、澄んだ音がした。奏音は反射で拾う。掌の中で、冷たい徽章が光る。翼の意匠、その中央の星――味方司令部の最高位が胸につける形だ。
奏音は、息を吸い損ねた。薄片の中の声と、紙の透かしと、この徽章が一本につながる。剣は持っていない。でも、これを読ませれば、刺さる。誰の胸に刺さるかまで、もう見えてしまった。
坑道の風が、会議室の灯りを揺らした。
地下会議室の机は長く、上に並ぶ紙が多すぎた。議事録だけではない。輸送の数、鉱夫の賃金、鳥の脚環の番号、そして“止めた方が儲かる”という言い回しが、同じ筆圧で繰り返されている。
佑摩の肩が震えた。拳が机の縁へ向かい、止まる。殴れば一瞬で終わる。だが終わるのは殴った相手だけで、紙は燃える。
奏音は佑摩の手首に指を置いた。押さえつけない。触れて、今ここにいると知らせるだけ。
佑摩の喉が鳴り、拳は机から離れた。代わりに、紙束を一度だけ強く押さえる。皺ができる。皺は、怒りの形だ。
紗里奈は薄片を机の下へ隠し、会議の声を拾う位置へ移した。数字が読み上げられるたび、薄片の縁が淡く震える。梨寿は紙の透かしを指で確かめ、違う国の水紋を見つけて息を呑んだ。
順一郎が、見張り役の男へ視線を向けた。男の目が、紙ではなく、机の引き出しを見て揺れる。そこに“守りたい誰か”の写真があるのだと、順一郎は読んだ。口を開き、声の高さを一段落とす。
「……あなたが守りたいのは、上の命令ですか。それとも、名前のある誰かですか」
男の手が止まる。その一拍が、血を流さない道を作った。
装置の表面は石より冷たく、触れると指先の熱を吸い取っていった。奏音は薄片を掌に乗せ、そこに焼き付いた蝉の音の高さを思い出す。鳴いているわけじゃない。記録だ。それでも心拍は勝手に揺れる。
柚花が息を吸う音が少しだけ大きくなり、奏音は肘で合図した。声を出さずに止める。順一郎が真顔で「笑うな、ここは大事な場面だ」と言い、誰かの鼻息が漏れて、緊張の糸が一筋だけほどけた。ほどけた分だけ、指先が動く。
薄片を握ると、縁が指に当たって痛い。奏音は痛みを残したまま握り直した。痛みがあると、意識がいまに留まる。留まらないと、装置に持っていかれる。
逆位相の音を重ねると、空気が薄く震えた。耳で聞くより先に、喉がそれを感じる。奏音は唾を飲み込まず、ただ舌を上あごに押しつけて耐えた。飲み込むと、装置の鼓動に自分の鼓動を合わせてしまう。
薄片の縁が擦れて、蝉の音の高さが一瞬だけ強くなる。柚花は目を閉じるふりをして、涙のふりをした。涙のせいにすれば、視線の揺れは許される。奏音はその演技に助けられたのに、礼を言う余裕がない。礼の代わりに、次の一手を速くした。




